本を通じて帰省する
飛行機はおろか新幹線も利用しなくなって、1年近く。
正直、帰省が楽しいとか心待ちとか、はないのだけれど、
十数年前に父が亡くなり、母がひとりになってからは、せめてそのくらいは、と帰省するようになった。
が、コロナである。2020年のお正月以来、2年近く帰省していない。
すすめられて、何冊か読んだけれど、私には合わなかった。
でも、これはテーマが気になり、図書館に予約を入れて、ようやく回ってきて、読んだ。
吃音を扱った、自伝な部分も含んでいるであろう、小説。
めでたしめでたし、なハッピーエンドではなく、吃音と対峙し、自分で受け止めてこれから生きていく、という終わり方もよかった。
これは、いいね。
同時に、ごくごくパーソナルなこととして、小説の終盤を読んでいるときに、情景が浮かんできて仕方がなかった。
同じ高校出身とはいえ、学年は5、6つ違うし、そもそもそこをモデルにしていないかもしれないのだけれど、
そこで描かれている図書館が、よく行っていた県立図書館が思い出されて仕方がなかった。
私の通った高校の生徒はこの県立図書館で勉強する者が多かった。
一応、私も勉強するつもりで図書館に行っていたが、目についた本を読んだり空想に耽ったりすることも少なくなかった。
図書館のある緑豊かな通り、エントランス、机、本の匂い。
勉強しに行ったのに、クラスメイトを見つけておしゃべりしたり、席を確保しつつお昼は近くのデパート別館のうどん屋さん(学割うどんが本当に安かった)に行ったり。
当時、学校にはエアコンがなく、夏場、涼しく快適な場所が、県立図書館だったのだ。
ときどき、席が埋まっていると、近くにある県立美術館のエントランス(無料エリア)に行き、そこで本を広げたり長居をすることはなかったけれど、涼んだものである。
そんなことが鮮やかに蘇ってきたのだよ。
県立図書館のある通りの夏の風景、道路脇に植わった木の緑の濃さや、差し込んでくる眩しい光、蝉の鳴き声、自動車や道路のアスファルトが混じった匂い、時折吹き抜ける風の心地よさ。
しっかり記憶の感覚に刻まれているもんだなぁ。
当時に戻りたいとか、帰りたいとか、はないのだけれど(今、いる場所が今の自分にはいちばんいいと、いつも思っている)、
自分のルーツのようなものを、ふとしたきっかけから、こうして確認してしまうのは、老年期に入り(無意識にしろ)死の準備を始めた、ってことなのかも。
そして、これが、コロナ禍の今の、私にとっての帰省なのかもしれない。
どうにもつきまとう、大いなる違和感
東京オリンピックが終わった、ようだ(パラリンピックはこれからだけれど)。
ようだ、というのは、私はまったく見ていないからである。
テレビを置いていない、というのもあるのだけれど、そもそもオリンピックに興味がないので、生まれてから半世紀以上経つけれど、一度も見たことがない。
興味がない、っていうのはそういうもんなんです。
あっ、「楽しんだ」って人を非難する気は毛頭ないです。
それはそれで、「よかったね」なもんで。
そこはお間違えのないよう。
このオリンピック期間中、憤慨したことがいくつもあり(私は在宅時はAMラジオを流していることが多い)
・通常の放送を辞めて特別中継(野球だったか、マラソンだったか)を主要AMラジオを行なった(主要ラジオ局がこぞって行う必要はない)
・いつも通りの番組放送の場合も、オリンピックの進捗状況が逐一割り込んでくる、またはその話題が多い
・ニュース速報やトップニュースとして結果が報告される
・外国籍の選手も日本に関係があるとピックアップしたり、(どうでもいい)日本すごい、みたいな情報を盛ってくる
・選手のプライベートなことにずかずか割り込む
・休日が変更になっていた!
興味がない、見たくない人を完全無視し、これのどこがダイバーシティ?
そもそも興味がある人はテレビなり映像つきの媒体で見てるでしょ、ラジオで放送しなくてよろしい。
ニュースで結果を伝えるだけでいい。
・オリンピックは何にも増して優先
の態度にあるのは、
・スポーツは善
・日本人なら日本を応援せよ
・感動をありがとう
という前提である。
いずれも持ち合わせていないのよ、私。
私はテニスが好きなんだけれど、だからといってオリンピックで見たいとも(フレンチオープンとウィンブルドンが好き)、ことさら日本人選手を応援したいとも(ナダルがお気に入りである)思っていない、好きなプレイスタイルの選手がいれば別だけど(伊達さんは好きだった)。
感動は、自発的に湧き出る感情であって、押し付けられたり与えられたりするものではないし。
嫌でも情報は入ってくるわけだけど、
喜ばしいこととして、今回のオリンピックでは、どうやら若い選手の活躍が目立ったようで、これは何より!
懸念するのは、(オールドメ)ディアがさんざん持ち上げ、くだらないバラエティ番組に出演させて(資金調達やPRの一環として、ということもあるだろう)どうでもいい話題やどうでもいいことをやらせて、
ちょっとスランプに陥ったり恋愛関係などが浮上したりすると(そんなことはあって当然だろ!)、手の平を返したように冷たくなり、バッシングを浴びせ始めることだ。
どうか、どうか若い才能を潰さないでいただきたい。
若い世代で思い出したけれど、ニュースでメダル獲得後のインタビューが流れたとき、
普段より大きい大会だなと思った、とか、楽しかった、という、応答に対して、
なんとかして、“オリンピックすごい”“日本人として”“緊張した”という言葉を誘導しようとしているインタビュアーがいて、聞いていて非常に不愉快だった。
彼なり彼女なり、はそういう心情だった、ことを素直に受け止めればいいんじゃないの〜。
認められたくて仕方のない、後天的美人
ルッキズムはいかがなものか、という声は日増しに大きくなっている。
異論はない。
確かにそうではあるのだけれど、果たして見かけを判断することを辞められるものなんだろうか。
口に出す/出さないの違いは大きい。
マナーとして、人として、口に出さない、ということなんだろうか。
昔、会社勤めをしていたときに、違う部署にそれはそれはきれいな人がいた。
頻繁に顔を合わせたりはしなかったものの、会議などで一緒になると、「この人、本当にきれいだな」と見惚れてしまうほどだった。
ある日「羽根さん、会議中に私のこと見てたでしょ」と言われ、「いやぁ〜、本当に美人だな、って思っちゃって」と返すと、ふふふと優しい笑顔に。
この返し。やはり彼女は生まれつきの美人なのだ。
今、大概の人は美人の範疇に入れられるようになった、ように感じる。
私は、美人には、
・先天的美人
・後天的美人
の2つのタイプがあると思っている。
(それについては、こちらを(↓)。)
世間に圧倒的に多いのは後者、後天的美人である。
彼女たちは、「きれいですね」と言われると(心の中でガッツポーズをとりながら)「そんなことないですぅ」と上目遣いで応える。
これ、謙遜、ではなく、他者を介した自己確認、の作業だと私は思っている。
美人を目指し、メイクを研究し、似合う服を吟味し、ダイエットに励み、努力の結果としてのきれいなので、他者に認められて、初めて目的を達成するのである。
先天的美人には滅多にお目にかかれないけれど、随分前に仕事でご一緒した方がそうだった。
もともとは、他の部署の方とやりとりがずっとあって、「誰かいない」が回り回って、その先天的美人と仕事をすることになった。
その会社がいろいろあったり、私も引っ越したり、で、さほどがっぷり、ではなかったけれど、それでも一時期はコンスタントに仕事をしていた。
彼女は真面目な人で、冷静沈着。やりとりなんかもきちんとしていて、仕事はとてもやりやすかった。
地方都市の中産階級のお嬢さんが大人になったような、とでもいうのか、家のしつけもきちんとされていて、勉強も真面目にやる、習い事も適度にやっていた、学校の成績もよかったんだろうな、というタイプの人だった。
無駄なおしゃべりとか冗談を言うタイプではないけれど、当時は対面する機会が多かったので、少しずつ打ち解けて、時々笑顔を見せたり、ちょっとしたおしゃべりをしたりするようになったときは、なんだかうれしかった。
ある日、そもそもよく仕事をしていた方と他愛ない話をしていた時のこと。
その美人について、顔をしかめて、「枕(営業)やってる」だったか、「役員(上司?)のお手つきだから」みたいなことを吐き捨てるように言った。
ものすごくびっくりした。
びっくりしたけれど、とっさに聞こえないふりをして、相槌も返事もせずに話題を変えた。
びっくりした理由は、
女性性を武器にするような人に思えなかったから。
もしそうだったとしても、仕事自体はスムーズだし、私にはまったく関係がない。
そして、いちばん驚いたのは、普段は人の悪口や陰口を言わない人が、その美人に対しては憎悪とも思える敵意を見せたことである。
相槌も返事もしなかったのは、確証がないし、そもそも私が首を突っ込む話でもないし、もっと言うとそうだったとしても、(セクハラやパワハラでなく)お互い同意の上なら別にいいじゃないか、って思っているからである。
こういう場合に求められているのは、“共感”で、冷静な意見を言ったり反論したりしたら、火に油を注ぐ事態になるだろうし、相槌を打つことで同意と思われたくもなかったのだ。
話題を変えたので、それっきりになったのだけど、どこか引っかかっているところがあったんだろう、ルッキズムが取り沙汰され、思い出してしまったのだ。
“嫉妬”
なんだろうな、と思うである。
それは美人そのものへの嫉妬ではない。
(努力もしていないのに)持って生まれた美人や頭のよさで認められた、ことへの嫉妬である。
自分はこんなに頑張っているのに、努力をしていない人にやすやすと存在が認められ評価が与えられたことへの憤り、だったのでは、と思うのだ。
努力は報われることもあるけれど、必ずしもそうではない。
むしろ、そうではないことの方が多いんじゃない?
先天的美人というのは、後天的美人に(勝手に)敵意を持たれて大変だなぁ、と感じる。
仕事だけを見て(特に同性から)真っ当な評価がされないのは美人ゆえ、だなぁ、と対極にいる私はしみじみしてしまうのである。
私自身は容姿含め低スペック、「この人よりはまし!」と思われるボトムラインガールなので、美人の範疇にいない。
美人枠の外から眺めると、そう思えるのだ。
ちなみに、先天的美人は心根も美しい、他人と比較しない、すれてない人が多いので、彼女たちといるのは大好きである。関係性は対等で、自分までいい人になった気がする。
後天的美人は、そんな必要ないのに、私の方が優れているのよ、ってマウントかけてくるんだよなぁ。
やさしいふりをしていても、小バカにしているのは、ちょっとした発言や態度で露呈されているのだよ。
美人はセクハラも受けやすいだろうけど、先天的美人はさほどでもないかも、と思ったりもする。
あまりにもきれいで、そういう対象にならない、触れてはいけない、というか。。。
ルッキズムに一番とらわれているのは、後天的美人という気がするのだけれど、どうだろう。
彼女たちは自分への投資や気にかけ方もすごい分、人に対しても厳しく、見た目で男性を平気でジャッジするのも彼女たちじゃないか、って思うのである。
(男性は見た目をいじってもいい、ってのも変な話だ!)
嫌なものは嫌なのよ
テレビを置いていないので、ラジオを流している時間が長い。
基本、AMでときどきBBC。
AMラジオのアナウンサーの声質や話し方は、安心できる。
テレビもある局は視覚に重きを置いていることがよくわかる。
声だけが頼りのメディアでは、内容もだけれど、声質や話し方も大事。
私は、鼻息の圧が強い声が苦手、
自分を押し付けるような、調子に乗ったような、また身内のりの話し方も苦手。
それと、すごおく嫌なのに、最近よく耳にするなぁ、と感じているのが、
・食う
・金
という言い方。
・食べる
・お金
と言って欲しい。
ここに性差はなく、むしろ、女性の方が、あたかもそれがジェンダーフリーであるかのように、それなりの年齢を重ねているであろう人も連呼していて、思わず音源を切ってしまう。
日系の航空会社のフライトアテンダントたちの話し方は、時に慇懃無礼に聞こえるように、
何もバカ丁寧に話せ、っていうんじゃない。
おビール、お教室、ってのも、どうも釈然としないし
(私、お上品でしょ、おほほ〜、って言われている気分になる)。
でも、身だしなみはきちんとしている(と思われる)人たちが、それっぽいことを言っているにも関わらず、若気の至りでわざと乱暴な話し方をするのはまだしも、雑(と思われる)話し方をするのは、我慢ならないのよね〜。
所変われば
2020年2月頭に引っ越して、数年ぶりに東京に戻る。
今の住まいは、山の手の下町。
1年半近く経ち、日々快適に過ごしているということは、結局、こういうところがいちばんしっくりくるみたい。
住み始めて間もない頃は、コロナが深刻化し始めたにも関わらず、毎日幸福感で朝起きていたし。
今の住環境は基本、住宅街で、近くには商店街もあり、スーパーマーケットも林立している。
東京に戻ってスーパーマーケットで驚いたのは、
・セルフレジの増加(といっても、支払いだけだけど)
・惣菜&お弁当の充実
特に、惣菜&お弁当の充実ぶりには目を見張ってしまった。
定番の揚げ物だけでなく、ヘルシー系もあるし、バリエーションも豊富。
かつ、スーパーマーケットでは半調理商品や便利なアイテムもたくさん。
庶民のソウルフード的な地方食品もイベント的に扱ったりもする。
お惣菜やお弁当屋さんも多いし、コロナで持ち帰りも増えた。
そして、押し並べて安い。
自分で作る手間とかを考えると、本当に安い。
料理は嫌いじゃない。むしろ好きで、台所に立つのが気分転換になったりもするのだけれど、
食べるのはあっという間で、ひとり分って、作る時間や手間を考えると、なんだか虚しい。
私は、家では基本粗食で、アジの干物に鬼おろし、とか、ローストチキン&ポテト、みたいな作るのも簡単なものを食べていて、時々張り切ってあれこれ作っていたけれど、
中食が充実していると、頼れるものはどんどん頼っちゃお、な気分に。
飲食店も多いから、食べに行ってもいいし。
考えてみれば、これまで商店街やスーパーマーケットが林立する環境に住んだことないので、台所に立つのが当たり前だった、ってのも大きいんだろうな。
環境は人を変える。
おかげでライフワークとしてのイギリスのレシピおさらい&開発はすっかりペースダウンしてしまっている。
『結婚の奴』はひとつの希望に思えたのだ
なぜコロナ鬱寸前までいったのか、自分に足りないものは何か、どうすればこれからの日々を機嫌よく暮らせるのか、そう考えたときに行き着いた答が、
“家の中に社会が欲しい” (↓)だった。
いわゆる結婚やハウスシェアでもいいのだけれど、もっとゆるやかな生活共同体、といえばいいのか、ビジネスパートナーがあるように、家庭の中でもパートナーがいてもいいのでは、と思ったのだった。
そんなことをつらつら思っていた2020年の年末、図書館で、それをすでに具現している本に出合う。
能町みね子著『結婚の奴』
能町みね子はラジオに出演している人として知り、話す内容も、だけれど、声質や口調も相当気に入っている(すっきり!が終わって本当に残念!)、。
(私にとって、(テレビではそうでもないのに)声や話し方がイマイチ、という人は多い。
A Mラジオのアナウンサーの声や話し方は本当に安心する。
秀島史香の声はやはり秀逸だなぁ、と思う。内容よりも(失礼!)、その声を聞きたいがために日曜の朝はFM横浜にしている)
ただ、どういう人かはよく知らなくって、それでもラジオをきっかけに図書館で目に留まった『私以外みんな不潔』『お家賃ですけど』は読んでいた。
作りものなのか実話なのか、その境界が曖昧な、不思議な文章を各人だなぁ、という認識だった。
『結婚の奴』はちょっと話題になっていたような。。。
で、借りてきて読んだら、腑に落ちたような。
私が求めているのは、こういう生活環境なんだな、と思い知った。
恋愛感情を伴わない、生活パートナーとしての結婚、同居。
生死を彷徨った経験があるせいか、死は私にとって身近で、昨秋、倒れたときに打ちどころが悪かったら死んでいたな(そして、そういうことはあるのだ)と思い、またしても死が切迫したものとして自分にかかってきた。
理性がきかない、というか、感覚に従って行きてきたので、あのときあれをやっておけば、という後悔、みたいなものはない。
なんせ、考えるより先に体が動いてしまうのだから。
でも、やり残したことは、ある。
それは恋愛期のふわふわ、みたいなもの(誕生日やクリスマスはいつもと同じ一日、というのはその表れだと思う)。
いきなり倦怠期みたいな風景の一部に化してしまうのだ。
やってなかった、というのは、そもそもその手の才能が自分には備わっていないのでは、という思いがぼんやり頭の中に漂う。
自分もそうかもしれない、そして、そういう人は確かにいるんだ、ということに気づかされた。
なので、恋愛を介在しない家庭生活、というのは私向きなのでは、と思え、それを確信したのが『結婚の奴』だったのだ。
さて、実践するにはパートナーが必要、なんだよね〜。
家の中に社会が欲しいと思ったのだ
2021年7月現在、1年以上続くコロナ禍。
2020年2月頭に引っ越して8年7カ月ぶりに東京に戻り、ほどなくしてコロナで外に出ない生活を要請されるようになり。。。
もともとリモートで仕事をしていたし、そもそもが内向型なので、これからどうなっちゃうんだろうという不安はあったものの、最初の数カ月は平気だった。
買い出しにすら1週間ぐらい外に出ない、ってこともあった。
仕事はたいしてしていなかったけれど、フリーランスには波がある。じたばたしても仕方がないことは、経験として知っている。
内向型で友達もいるんだかいないんだか。なので、基本ひとり行動。
不規則な生活をしていることもあり、プライベートで人に会ったり、電話やメールといったやりとりすらほとんどしない。
ずっとそれで問題なかった。
問題なかったので、コロナ禍になっても生活スタイル自体はほとんど変わらなかった。
だけれども。。。
たま〜に用事で外に出ると、例えば銀座とか渋谷とか、昼間なのに人がいない。電車もすいている。そして、静か。
ピカピカできれいな高い建物はたくさんあるのに、人の気配がしない。
まるで、ディストピアの世界に紛れ込んだようだった。
これは果たして現実なんだろうか。
久しぶりに東京に住居を移して、感覚がずれてしまったんだろうか。
リアルがどうにもつかめず、おそらくこの辺りから精神の均衡を失っていったのだろう。
それが2020年夏。
フリーランスは末端で、何かあれば真っ先に切られる。
なんの言い訳も連絡もなく、いきなり梯子を外されたり、仕事の中でそれまで受けたことのなかった罵声を浴びせられたり。
こういう時に人間がわかる、ちょうどいいリトマス試験紙で、そういう人には縁を切る、優雅な生活が最高の復讐である、と思いつつ、
やはりサンドバックになったのは、無意識のうちに、どこかしらショックだったんだろう。
なんとなくすっきりしない気分の中、仕事先で倒れたことが原因で、
あっ、私、このままいくと、コロナ鬱だ!と自覚する。
私には、耐性というものがない。
その昔、『おしん』というドラマが流行ったときに、あまりのブームに、こういうドラマをほとんど観たことがなかったのだけれど、試しに何度か観て、首を傾げてしまった。
主人公の世界中の不幸をひとりで背負おっているような姿は自己満足にしか見えなかったし、
どうして周囲の人に助けを求めないんだろう、と感じた。
まずは、仕事。
自分の中でできること/できないことを整理し、取引先の方に連絡して相談。できないことの助けを求めた。
嫌な顔ひとつせず、協力くださった方々には、感謝しかない。
そして、これを機にかかりつけの心療内科を持とう、と思った。
探している間に、目の前のことに追われてそのままになってしまったけれど、こういうときはプロに、日常生活とは関係のないところで心情を吐き出せる場所が欲しい、と考えたのだ。
なぜ、コロナ鬱手前までいったのか。
“自主的”にではなく、半ば“強制的に”おこもりになったことが非常に大きく、同時にそれまであったほんのわずかな社会との接点、それは飲食店でちょっと会話を交わしたり、とか、もっというと、一言挨拶するだけ、そういう些細なこと、一方的ではないやりとりが奪われたから。
それに気づいたときに、
“家の中に社会が欲しい”
と痛烈に思った。
これから同じようなことが襲ってきたときのために、また、これからの毎日を少しでも機嫌よく過ごすために。
まったく知らない人とのシェアハウスでもいいし、生活上のパートナーと同居(それは結婚とか事実婚といった、恋愛を伴うものでなくてもいい。むしろ、そのぐらいの距離感があった方がいいかも)でもいい。
コワーキングスペースというやり方もあるだろうけど、仕事よりも日常の場で社会性を帯びている方が、私には向いているだろう。
“家の中に社会が欲しい”。
この想いは今も変わらない。
さあ、どうするか、どうしようか、大きな課題だな〜。