書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

家の中に社会が欲しいと思ったのだ

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2021年7月現在、1年以上続くコロナ禍。

2020年2月頭に引っ越して8年7カ月ぶりに東京に戻り、ほどなくしてコロナで外に出ない生活を要請されるようになり。。。

 

もともとリモートで仕事をしていたし、そもそもが内向型なので、これからどうなっちゃうんだろうという不安はあったものの、最初の数カ月は平気だった。

買い出しにすら1週間ぐらい外に出ない、ってこともあった。

仕事はたいしてしていなかったけれど、フリーランスには波がある。じたばたしても仕方がないことは、経験として知っている。

 

内向型で友達もいるんだかいないんだか。なので、基本ひとり行動。

不規則な生活をしていることもあり、プライベートで人に会ったり、電話やメールといったやりとりすらほとんどしない。

 

ずっとそれで問題なかった。

問題なかったので、コロナ禍になっても生活スタイル自体はほとんど変わらなかった。

 

だけれども。。。

 

 

たま〜に用事で外に出ると、例えば銀座とか渋谷とか、昼間なのに人がいない。電車もすいている。そして、静か。

ピカピカできれいな高い建物はたくさんあるのに、人の気配がしない。

まるで、ディストピアの世界に紛れ込んだようだった。

 

これは果たして現実なんだろうか。

久しぶりに東京に住居を移して、感覚がずれてしまったんだろうか。

 

リアルがどうにもつかめず、おそらくこの辺りから精神の均衡を失っていったのだろう。

それが2020年夏。

 

フリーランスは末端で、何かあれば真っ先に切られる。

なんの言い訳も連絡もなく、いきなり梯子を外されたり、仕事の中でそれまで受けたことのなかった罵声を浴びせられたり。

 

こういう時に人間がわかる、ちょうどいいリトマス試験紙で、そういう人には縁を切る、優雅な生活が最高の復讐である、と思いつつ、

やはりサンドバックになったのは、無意識のうちに、どこかしらショックだったんだろう。

なんとなくすっきりしない気分の中、仕事先で倒れたことが原因で、

あっ、私、このままいくと、コロナ鬱だ!と自覚する。

 

 

私には、耐性というものがない。

その昔、『おしん』というドラマが流行ったときに、あまりのブームに、こういうドラマをほとんど観たことがなかったのだけれど、試しに何度か観て、首を傾げてしまった。

主人公の世界中の不幸をひとりで背負おっているような姿は自己満足にしか見えなかったし、

どうして周囲の人に助けを求めないんだろう、と感じた。

 

まずは、仕事。

自分の中でできること/できないことを整理し、取引先の方に連絡して相談。できないことの助けを求めた。

嫌な顔ひとつせず、協力くださった方々には、感謝しかない。

 

そして、これを機にかかりつけの心療内科を持とう、と思った。

探している間に、目の前のことに追われてそのままになってしまったけれど、こういうときはプロに、日常生活とは関係のないところで心情を吐き出せる場所が欲しい、と考えたのだ。

 

 

なぜ、コロナ鬱手前までいったのか。

“自主的”にではなく、半ば“強制的に”おこもりになったことが非常に大きく、同時にそれまであったほんのわずかな社会との接点、それは飲食店でちょっと会話を交わしたり、とか、もっというと、一言挨拶するだけ、そういう些細なこと、一方的ではないやりとりが奪われたから。

 

それに気づいたときに、

“家の中に社会が欲しい”

と痛烈に思った。

これから同じようなことが襲ってきたときのために、また、これからの毎日を少しでも機嫌よく過ごすために。

 

まったく知らない人とのシェアハウスでもいいし、生活上のパートナーと同居(それは結婚とか事実婚といった、恋愛を伴うものでなくてもいい。むしろ、そのぐらいの距離感があった方がいいかも)でもいい。

コワーキングスペースというやり方もあるだろうけど、仕事よりも日常の場で社会性を帯びている方が、私には向いているだろう。

 

“家の中に社会が欲しい”。

この想いは今も変わらない。

さあ、どうするか、どうしようか、大きな課題だな〜。