私のブック・オブ・ザ・イヤー2019
爽快にして痛快!
昨年2018年末に発売されたときに、表紙のインパクトも手伝って、気にはなっていたものの、
よくあるブスの自虐エッセイ(前書きで否定してあるんだけどね)、もしくは社会学的な味付けをした被害者意識の高いブス本だと思っていたのよね〜。
あるとき、調べものをしているとき、Cakesにあった、著者の田村麻美さんの記事にぶつかり、調べ物そっちのけで思わず全部読んでしまい、
これは!とソッコーでamazonでポチったのです。
数日後、到着するやいなや(こんなに待ち遠しかったこと、久しぶり!)、すぐに開封して一気に読む。
その後、私は、頼まれてもいないのに、完全にPRと化して推薦しまくっています。
本のすばらしさについては、ブックレヴューなどに任せるとして、
一応、簡単に説明すると、タイトルどおり、ブスを軸としたマーケティングの本です。
机上の空論ではなく、著者の田村さんのリアル体験をマーケティングに落とし込んだところがカギ。
で、私が薦めまくっているのは、同業者、企画に意欲的な編集者です。
この本の成功(と呼んでいいでしょう)は、著者の田村さんの聡明さ、自分をさらけ出した腹のくくり具合(私は、不特定多数を対象に世に出る人、つまり公共の目にさらされる人は、内臓まで見せる覚悟が大事だと思っている。取り繕った、“ええかっこ”は通用しない、と思っている)もさることながら、担当編集者の飛田さん(本書で出てくるので、ここでも名前を出します)が相当優秀だな〜、彼女ありきでこの本は成立したな〜、と。
担当編集者の飛田さん自身が、私と同様、ネットでたまたま見つけて衝撃を受けて、著者の田村さんに打診をなさったようで、
・田村さんを著者としていける!と思った感覚
・社内会議で書籍の企画を提案&通過
・本の構成
ってのが、同業者視点として、おおお〜っ!となったので、推薦しまくっているというね。
もう少し具体的に言うと
・田村さんを著者としていける!と思った感覚
これは、特にブログとかある程度の文字量があって本数があれば、わかる。
書籍としての文章は長い。目安として、10万字、原稿用紙にして300枚程度です。
それを書き通せる忍性があるか。
文章の軸となる視点。ひとりよがりでなく、第三者視点であるか。
よく文章のうまい下手を言うけれど、それははっきり言って関係ない。
なぜなら、書いたものに対して、編集者は疑問・質問を打ち返し、結果、バッサバサ赤字を入れ(この赤字はプロの書き手でなければ、編集者が入れる。そして著者に確認してもらう)、またそのときにその本の企画に合った文体にしたりするから。
つまり、最初に書いた原稿はほとんど原型を留めていないのである
(あっ、作家先生と、その人の存在/名前が大看板で先にありきの場合は別です)
・社内会議で書籍の企画を提案&通過
これは、版元の編集者の強みでもある。
私のようなフリーだと企画の持ち込みになるのだけれど、そこでまず担当編集者を説得する必要がある。版元にいれば、最初に出した企画が通らなくても、そこでの反応や意見を聞きながら、修正ができる。
企画通過のためには、データ(マーケットや類書の売上状況など)も大事だけれど、その企画に対する情熱/熱量(ときにはったり)も外せないのだよ、たとえそれが一瞬でもね。
というのも、自分が愛せない企画をどうして読者になる第三者が好きになってくれるんだろう。
まずは、担当である当事者がファンになることが肝要。その熱意を編集会議で示せれば、企画は通る率が上がる、んだなぁ(多分)。
・本の構成
これは編集者の腕の見せ所。
『ブスのマーケティング戦略』の場合は、
一見意外な取り合わせに思える、“ブス”と“マーケティング”を組み合わせたこと。
この意外性のある組み合わせって、両方に興味のある読者に提供できるし、なにより通常思いつかないものを拾って組み合わせることで化学変化が起こるんですよね。
こういう切り口や視点があったか!
同じことを伝えるにしても、この立脚点だとおもしろい!というね。
そして、やもすると、むずかしくなりがちなマーケティング、自虐もしくは弱者意識にまとわれるブス、を、さらりと飛び越えて、わかりやすく展開したこと。
よくある成功談というのは、他人にとっては、あっ、そう、で終わってしまう、
そこをブスとしての体験談(残念なことが多い)をカラリとした文体で盛り込んだことで、マーケティングなしでもおもしろく読める。
構成をみると、よくできていて、章立てのみならず、扉で、実践と論理の両輪である「行動提案」「マーケティング戦略」も一言さっと盛り込んだこと、
章の最後のまとめや、ブスの作業、表、写真などの差し込み。
文字の大きさや太さや、ほか、ちょっとしかけもいろいろあって、うまい!
これらの体裁については、編集者とそしてエディトリアル(ブック)デザイナーに負うところも大きい。
まっ、そんなわけで、「こういう本を作りましょうよ!」って同業の編集者に推薦しまくっているわけです。
内容が、ってことではなく、企画の立て方とか構成とか、本を作ることに向かう姿勢、という意味でね。
にしても、いち読者としても、読むと勇気凛々になっちゃうんだよね〜。
それは、私がブサイクであること含め低スペック、不良物件であることに他ならないから、ってももあるんだよね〜。
で、自分を見たときに、今の私の仕事、編集者やダイレクター、ライター、もしくはイギリスの食研究者としては、特に資格などは必要ではないけれど、
それでも、現地のクッカリースクール終了、WSET、ケンブリッジ英検、フランス語、チーズなど、そのときどきで資格・認定は取得したけれど、ないよりはマシなレベルだとお話にならないよな〜。
やっぱ、なんだかんだで泣く子も黙る、国家資格もしくか国際資格、だよな〜。
おし、一発奮起、猛勉強して、国家資格という武装をしよう!って思ってしまったよ。
この冬休み、資料を取り寄せてしまいそうです。
料理研究家にとって代わる名称が欲しい
私の仕事は、食をメイン出版などメディアのダイレクター・編集者・ライターで、同時にイギリスの食研究家でもあります。
文献を読み解いたり、現在のシーンを確認したり、話を聞いたり、料理や菓子は自分で実際に作ったりもします。なので、現地のクッカリーコースに行きましたし、今もワンデイクラスを受講したりしていて、自分で実際に作る、日本で再現してみる、ってこともしています。
で、私を紹介してもらうときに、料理研究家の、と言われることもあって、それはわかりやすいように、というのはよくわかるのですが、いつもささやかな抵抗を感じています。
なぜだろう。
ようやくわかりました。
それは、料理研究家、特に女性の場合は、家庭というイデオロギーがつきまとうからなんですね。
私にとって、台所でイギリスの菓子や料理を作るのは、ラボ(実験室)という感覚。
そこには家庭や家事はない。
ときどき作って手みやげにすることがあるのは、腕を披露、ではなく、イギリスの食研究を自分が実際に作ることも含めてやっているんですよ、というアピールであり、私が作るイギリスの菓子や料理に対してどういう反応を示すのかを知りたいから。
台所に立つのは嫌いじゃない。気分転換にもなるから好き。
でもそれは私にとって家事でも義務でもない。いちばん近い言い方は趣味。
なので、料理が好き、が家庭的と思ったら大間違い。
作ったものを食べてくれて、その人たちが喜ぶ顔を見るのはいいものですが、それが第一義ではまったくなくって、自分が作りたいから、料理をしていると一心不乱になれるから、それで台所に立つ。
家事はまったく好きじゃない。十分な稼ぎがあればアウトソーシングしたい。
男の人をつかむには胃袋、って今だに言われているけれど、
万が一これでつかまえてしまったら、家事としての料理担当を担わされるわけで、たまったもんじゃない。
それを払拭できて、料理は単に料理を示す、肩書きを模索中です。
過去の栄光にすがりたがるってことか!
わ〜い。また、かわいい、って言われちゃった。
人生は不思議だ!
50年生きてきて、私は物心ついたときからすでに容貌含め、完全に不良物件にカテゴライズされてきたのに、50歳を過ぎてから、いきなり容姿を褒める人が続出(は大げさ、か)とは、これいかに!
私自身は変わっていないのにね〜。
着るものや好みは20代の頃から変わってないし、現にその頃の服をいまだに着ている(若い頃よりもヴィヴィッドな色のものを着るようにはなった)。
化粧もほとんどしないままきているのも変わらない(だって化粧してもしなくっても大差ないんだもん)。
もちろん、しわ、たるみ、白髪などは増えたよ。
もともとがたいがよく体が丸く、かつ体型が変わらないのと、髪の毛が多く白毛があまりなく、染めてもいない。
私が浴びせられる、かわいいが、年齢の割に、ということであれば、見た目の加齢の速度がゆっくりなんだろうか。
とはいえ、そもそも私は、アンチエイジングに興味がなく、加齢の何が悪い!とも思っていて、
なぜ、世の中は、若さの持続にせっせと励むのだろう、と不思議ですらあります。
が、今、自分が容姿を褒められるようになって(しょっちゅうではない。大げさな言い方だけど、便宜上ね)、
でも、それまでがず〜〜〜〜〜っと蔑みだったり引き立て役だったり、まあ、ボトムラインにいる身だったわけで(もちろん、今でも大方の見立てとしては、そっちの部類に入れられることは、自分でわかっている。ただ、なぜか、そうでない人も出てきた、というね)、
両方の立場を経験して、気づいちゃったね。気づいちゃったよ!
アンチエイジングや年齢に負けない!なんてほざいている人たちは、
過去の自分の美しさやかわいらしさに留まりたいんだ〜。
そして、それは、本当に留まりたい場所は、かつて持っていた美しさやかわいらしさではなく、
それを通して、チヤホヤされていた自分に、なんだ〜。
そりゃ、褒められるってのは悪い気はしないもの、褒められる経験がなかったゆえに猜疑心が強いというか、ふ〜ん(よう言うわ)、口がうまいなぁ、はいはい、と流してしまう私でさえ。
若い頃チヤホヤされていた人は、本当に蝶よ花よのチヤホヤだったことでしょう。
そうされているの、はたでたくさん見てきたもの。
もちろん、それを意識して、さらにブラッシュアップをかける天晴れ!な人も一握りだけれど、確かに存在する。
でも、ほどほどきれい、かわいい、は若き日の一過性というか、次の世代にとって代わられちゃう。
きれい、かわいいも、消費されちゃうのだ。
年をとると、もうチヤホヤはしてくれないのよね〜。
そんなときにどう現実を認めるか、折り合いをつけるか。
いや、認めたくないんだと思う。
だから、過去のきれい、かわいい、自分にすがるってことなんだろーなー。
悲壮さを通り越して笑っちゃうまでの、必死感満載のアンチエイジングの意味がわかった気がするよ。
SNSの投稿で、やたら上目遣いをしたり、過去の自分の(本人的には、イケてた時代)写真を投稿したり、お姫様ドレスとかのコスプレ(に私には、見える。もともとそういうファッションポリシーの人は別。これはこれで天晴れ!なのだ)写真を投稿したりして、
同じ穴のムジナのおばさん同士が、かわいい、きれいを言い合っている画は、気持ち悪くておぞましいですぞ。
一般的にはもはやそうは思ってくれないのに、若い頃のきれい、かわいい、(あの頃のチヤホヤをもう一度、若い頃はモテモテだったんだから〜)を引きずっている人にとっては、いまも褒めてくれる、そういうぬるま湯コミュニティは、同士の集まりで気持ちいいんだろうなぁ。
歳をとってやってはいけないことを、
“説教”“昔話”“自慢”
って言ったのは高田純次だったかな。
ジェンダーで分けるのは好きではないけれど、“自慢”の女性版、形を変えたものがアンチエイジングや、うわぁ!って思ってしまうSNSなどでの写真投稿ってわけだ。
きれい、かわいい、と言われた過去の栄光をもう一度!であり、(無意識にしろ)周囲にチヤホヤして〜と言わんばかりに、その言葉を要請する、というね。
現実を直視しろ、だなぁ。
過去の栄光にすがっても何も生まれないよ、痛々しいだけで。
あ〜、いつもに増して敵を増やしてしまいそうです。
美容院ってやっぱ苦手だわ
髪の毛うざくなったな〜、あっ、時間あいてる、と思い立って美容院に行くので、美容師さんの指名はしないのだけれど、今度から指名しようかなぁ。
私は、カット自体は誰でも別段構わないし、多少失敗しても髪の毛は伸びるからいっか、ぐらいに思っているんだけれど、
何が苦手って美容師さんとの会話が苦手。
あの、意味のない、ふわっとした適当な会話が。
美容院だとぼーっとしてしまう私は、必要最低限の会話しかしたくないのよね〜。
私が行っている美容院は、無駄口を叩かない人が多く、会話をまともにするときは、加齢による髪の毛の変化とかプロならではの知識を教えてくれて、へ〜ってぐらいなもんで、それが心地よくって通っていたのに。
今回当たったのは、やけに馴れ馴れしい、ひたすら話す人。
タメ口でプライヴェートを質問攻めされたり、自分の話を延々したり。
店を出たら、どっと疲れた。
これまで大丈夫だったからタカを括っていたけれど、
今度から予約の時に人を指名するか、言うことにしよう、
余計な会話(詮索)は要らない、静かに過ごしたい、と。
こーゆー、お客さんと話しましょう、ってどっかで習うのかな。
もしくは、今回当たった方はベテランさんだったので、昔のやり方の人、ってことかしら。
ものすごい違和感、ものすごいモヤモヤ
自分ではファニーだと思っているのだけれど、第三者評価でいうと、私はブスなんですよね〜。
しかも、チビでデブで(これも本人はガタイがいい、と解釈しているのだけれど)、
性格も難あり(これは反論できない。小心者で性根は悪くない、とは思うけれど、いい人でもやさしい人でもない)、頭もよくない(これも、周囲が考えているほどバカじゃないと本人は思っているけれど)、
と、まあ、完全に私は“不良物件”にカテゴライズされるわけです。
いい大人になってからも(分別のあるいい大人はこういうことはそうそうしないと思う)、はっきりと
「こんなブサイクはいない」
「あなた、何の取り柄もないじゃない」
「お前ごときに男ができるわけがない」
と言われ、そーなのかー、第三者の目に映る私ってそーなんだー、って認識させられてきました。
「彼がいた/いる」と言ったら、たいていの場合、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をされることが、内心、「お前ごときに男ができるわけがない」と私に対して抱いているってことを露呈してしまうのよね。
見た目とか性格とかは数値化がしづらく、いちばんわかりやすいところでは、“モテ”が指針になるんだよな〜。
ここにマウントが加わると、「この人よりはマシ」とも思われ、よって、私は“ボトムラインガール”なわけで。
これについては、もうね、自分と一生つき合っていく以上、受け入れる、のではなく、
ただただ第三者はそういう目で私を見ているのだ、ということを認識するだけ。
その上で、どう世の中を、自分も他人も気持ちよく渡り合っていく。
すべては現状認識から始まるのだから。
自分への評価を下す他人との関わりのなかで、生きていくわけだから。
「バカ(やブス)をバカ(やブス)と思うのは勝手だけでど、それを理由にバカにするのは違うんじゃないの」と思ってはいるものの、他人に押しつけたりはしないよ、私は。
そういう相手とは、つき合わない、距離をおく、やむを得ない場合は、こちらの対応を変える、しかないわけで、他人(の意識)を変えるなんてことは不可能なのだ。
こういう態度で持って接しているうちに、結果的に変わる、ってことはあるかもしれないけれど、正面切って変えてやろうなんて、勝ち目はないでしょう。
相手の意識が変わるまでの間、生きていかないといけないわけだし。
であれば、自分が不愉快にならないやり方で、まずはやっていくのが現実的なんじゃない。
そんなことにぼんやり思いをめぐらせたのは、こんな記事(↓)を読んだから。
なんか違う! モヤモヤばかりが募る。
あと、差別、マウンティングは、なくならない。
そして人間は生まれながらに不平等なんだよ!
おかしな差別、マウンティング、不平等は是正していくものだとは思うけれど、
今ある課題を解決したところで、また、新しい差別、マウンティング、不平等は生まれる。
だから是正することをやめる、って意味ではなく、そういうもんだ、という認識に立つのは必要かな、と思う。
でもって、
「ブスが悪い」
「ブスは努力しろ」
なんて誰も言ってないんじゃない?
「どうしたらいい?」って聞かれればアドバイス的なことで答えるんじゃない?
ブスのままでいいと思っているならそのままでいいし、お好きにどうぞ、なわけで、選択肢を認めていない、なんてことはないんじゃないの。
だいたい他人は人のことにそこまで興味はないよ。
話は変わって、私は、先天的美人が大好き!
彼女たちにとって美人であることは持って生まれたもので、「美人ねぇ」と言われたところで、「おはよう」「さようなら」のごとくさんざん言われているから、まさに挨拶程度。
努力目標じゃない、ってことは、他人と比較とかもしないのよね。
なので、性格がすれていないというか、素直というか、端的にいうと、いい人が多い。ほんと、性格もいい!
この人は信じていいな、って安心できるんだな〜。
人間、かくありたい、とも思うもん。
それと、働き始めてからは、美人はむしろ苦労が多いと思ったよ。
本人はまったくその気がないのに。言い寄られたり、誘われたり、仕事の話に終始できず、真っ当な評価をもらえなかったり、なんてこともしばしば。
私はフリーランスで、事務所を兼ねた自宅で、仕事柄、男性と2人きりで撮影をしたり打ち合わせをしたりしても、出張で一緒にいる時間が長くても、まず間違いが起こらない。
同じ部屋に泊まっても、発生しないでしょう。
(可能性はゼロではないだろうけど、極めて低い、限りなく果てしなくゼロに近い)
美人だとこうはいかない、ってことは簡単に察しはつくのです。
大変だな〜、って心底思う。
弱者と呼ばれる(とされる)人が声をあげるのは別にいいのだけれど、優位に立っている(とされる)人たちの平等性はどうなのかな、とも思う。
たとえば美人が「すぐに言い寄られて、本当に大変なんです」「容貌逆障害、反対!」って声高に叫び始めたらどうなるんだろう。
タイミングって合うときは気持ちいいほど合うのねぇ
急遽、弾丸で宿泊込みで出かけることに。
メインの予定以外に、せっかくだから、と連絡を入れた方たちとタイミングが合い、
いやぁ、ラッキーだなぁ、と思って動いていたら、
それまで一度も電話で話したことのない方から着信が。
先日提出した案件で急ぎの確認事項かしら、と、思いきや
「いやぁ〜、ちょっとお話ししたいなぁ」と。
びっくり! びっくり!
翌日、私のすきま時間に都合を合わせてくださり、お茶を。
会えれば会いたいけれど、はっきりと予定が見えなかったので、連絡取らずじまいにしていた方に、
あの件は今のうちに顔をつき合わせて話しておきたいな、と思い、連絡を入れたら、
「ちょうど今、用事が終わって帰宅中。だったら夕食兼ねて会いましょう」と。
うわぁ〜、こっちもものすごいタイミング。
食事もおいしく、満足、満腹。
出かける前も出先でもトントントンと見事にきれいに予定が入り、
弾丸のお出かけが終わったときはぐったり、だったけれど、それは心地よい疲れ。
今年は前半は散々だったけれど、夏ぐらいから少しずつ物事が回り始め(体調は絶不調、なかなかスムーズにいかないこともあったけれど)、最後の最後に、タイミングがスパンスパンと合うってのは、いい一年だったな〜、って思えて、
これを来年へのいい助走にしたいなぁ、とじわーっと噛み締めているところです。
年齢こそ重ねていってはいるものの
20代の頃は中年、そして老人になった自分が想像できなくって、
そのせいか、何の根拠もないけれど、50歳になった頃にはこの世にいないんじゃないかなぁ、なんて思っていた、のに。。。
生きてるよ!
全然ピンピンしてるじゃん!
相変わらず、よく寝るしよく食べる。
でも、シワもシミも増え、白髪も生えてきて、更年期を迎え、
年齢は確かに重ねているのだけれど、
気持ちがあまり変わっていないのは、不思議な感じ。
大人になったら、ドンと来い!とばかりに、もっとどっしり構えていられるのかと思ったけれど、
相変わらず些細なことで一喜一憂している。
ちょっとしたことで喜んだり落ち込んだり笑ったり怒ったり。
変わらないなぁ。
いや、もちろん、少しずつ変化はしていっているんだろうけど、いつまで経っても大人になっていない感が。
子供の頃は子供なんだけど気持ちは老成しているところがあったので、
そう考えると、見た目こそ年を重ね、初老の域に入ったけれど、
肉体的なことに比べて、精神的なところは変化の幅が少ないみたい。
これ、私だけでなく、他の人も案外そうなのか、なぁ。