書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

料理研究家にとって代わる名称が欲しい

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私の仕事は、食をメイン出版などメディアのダイレクター・編集者・ライターで、同時にイギリスの食研究家でもあります。

文献を読み解いたり、現在のシーンを確認したり、話を聞いたり、料理や菓子は自分で実際に作ったりもします。なので、現地のクッカリーコースに行きましたし、今もワンデイクラスを受講したりしていて、自分で実際に作る、日本で再現してみる、ってこともしています。

 

で、私を紹介してもらうときに、料理研究家の、と言われることもあって、それはわかりやすいように、というのはよくわかるのですが、いつもささやかな抵抗を感じています。

 

なぜだろう。

 

ようやくわかりました。

それは、料理研究家、特に女性の場合は、家庭というイデオロギーがつきまとうからなんですね。

私にとって、台所でイギリスの菓子や料理を作るのは、ラボ(実験室)という感覚。

そこには家庭や家事はない。

 

ときどき作って手みやげにすることがあるのは、腕を披露、ではなく、イギリスの食研究を自分が実際に作ることも含めてやっているんですよ、というアピールであり、私が作るイギリスの菓子や料理に対してどういう反応を示すのかを知りたいから。

 

台所に立つのは嫌いじゃない。気分転換にもなるから好き。

でもそれは私にとって家事でも義務でもない。いちばん近い言い方は趣味。

 

なので、料理が好き、が家庭的と思ったら大間違い。

作ったものを食べてくれて、その人たちが喜ぶ顔を見るのはいいものですが、それが第一義ではまったくなくって、自分が作りたいから、料理をしていると一心不乱になれるから、それで台所に立つ。

家事はまったく好きじゃない。十分な稼ぎがあればアウトソーシングしたい。

 

 

男の人をつかむには胃袋、って今だに言われているけれど、

万が一これでつかまえてしまったら、家事としての料理担当を担わされるわけで、たまったもんじゃない。

 

 

料理研究家、料理につきまとう、家庭というイデオロギー

それを払拭できて、料理は単に料理を示す、肩書きを模索中です。