書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

過去の栄光にすがりたがるってことか!

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 わ〜い。また、かわいい、って言われちゃった。

 

人生は不思議だ!

50年生きてきて、私は物心ついたときからすでに容貌含め、完全に不良物件にカテゴライズされてきたのに、50歳を過ぎてから、いきなり容姿を褒める人が続出(は大げさ、か)とは、これいかに!

 

私自身は変わっていないのにね〜。

着るものや好みは20代の頃から変わってないし、現にその頃の服をいまだに着ている(若い頃よりもヴィヴィッドな色のものを着るようにはなった)。

化粧もほとんどしないままきているのも変わらない(だって化粧してもしなくっても大差ないんだもん)。

 

もちろん、しわ、たるみ、白髪などは増えたよ。

もともとがたいがよく体が丸く、かつ体型が変わらないのと、髪の毛が多く白毛があまりなく、染めてもいない。

私が浴びせられる、かわいいが、年齢の割に、ということであれば、見た目の加齢の速度がゆっくりなんだろうか。

 

 

とはいえ、そもそも私は、アンチエイジングに興味がなく、加齢の何が悪い!とも思っていて、

なぜ、世の中は、若さの持続にせっせと励むのだろう、と不思議ですらあります。

 

 

が、今、自分が容姿を褒められるようになって(しょっちゅうではない。大げさな言い方だけど、便宜上ね)、

でも、それまでがず〜〜〜〜〜っと蔑みだったり引き立て役だったり、まあ、ボトムラインにいる身だったわけで(もちろん、今でも大方の見立てとしては、そっちの部類に入れられることは、自分でわかっている。ただ、なぜか、そうでない人も出てきた、というね)、

両方の立場を経験して、気づいちゃったね。気づいちゃったよ!

 

アンチエイジングや年齢に負けない!なんてほざいている人たちは、

過去の自分の美しさやかわいらしさに留まりたいんだ〜。

そして、それは、本当に留まりたい場所は、かつて持っていた美しさやかわいらしさではなく、

それを通して、チヤホヤされていた自分に、なんだ〜。

 

そりゃ、褒められるってのは悪い気はしないもの、褒められる経験がなかったゆえに猜疑心が強いというか、ふ〜ん(よう言うわ)、口がうまいなぁ、はいはい、と流してしまう私でさえ。

 

若い頃チヤホヤされていた人は、本当に蝶よ花よのチヤホヤだったことでしょう。

そうされているの、はたでたくさん見てきたもの。

もちろん、それを意識して、さらにブラッシュアップをかける天晴れ!な人も一握りだけれど、確かに存在する。

 

でも、ほどほどきれい、かわいい、は若き日の一過性というか、次の世代にとって代わられちゃう。

きれい、かわいいも、消費されちゃうのだ。

 

年をとると、もうチヤホヤはしてくれないのよね〜。

そんなときにどう現実を認めるか、折り合いをつけるか。

 

いや、認めたくないんだと思う。

だから、過去のきれい、かわいい、自分にすがるってことなんだろーなー。

悲壮さを通り越して笑っちゃうまでの、必死感満載のアンチエイジングの意味がわかった気がするよ。

 

 

SNSの投稿で、やたら上目遣いをしたり、過去の自分の(本人的には、イケてた時代)写真を投稿したり、お姫様ドレスとかのコスプレ(に私には、見える。もともとそういうファッションポリシーの人は別。これはこれで天晴れ!なのだ)写真を投稿したりして、

同じ穴のムジナのおばさん同士が、かわいい、きれいを言い合っている画は、気持ち悪くておぞましいですぞ。

 

一般的にはもはやそうは思ってくれないのに、若い頃のきれい、かわいい、(あの頃のチヤホヤをもう一度、若い頃はモテモテだったんだから〜)を引きずっている人にとっては、いまも褒めてくれる、そういうぬるま湯コミュニティは、同士の集まりで気持ちいいんだろうなぁ。

 

 

歳をとってやってはいけないことを、

“説教”“昔話”“自慢”

って言ったのは高田純次だったかな。

 

ジェンダーで分けるのは好きではないけれど、“自慢”の女性版、形を変えたものがアンチエイジングや、うわぁ!って思ってしまうSNSなどでの写真投稿ってわけだ。

きれい、かわいい、と言われた過去の栄光をもう一度!であり、(無意識にしろ)周囲にチヤホヤして〜と言わんばかりに、その言葉を要請する、というね。

 

現実を直視しろ、だなぁ。

過去の栄光にすがっても何も生まれないよ、痛々しいだけで。

 

 

あ〜、いつもに増して敵を増やしてしまいそうです。