書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

なんといってもよく眠るので

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多分、1日8時間は寝ていると思います、私。

しかも眠りが深い。

眠れない、ってことがなくって。。。

 

6時間睡眠が続いたりすると、それを補うように、

後日どかんと眠ったりもします。

 

 

これから体が変わっていけばまた変わるのでしょうが、

これはもう変えられない。

 

なので、私は“自分には多くの睡眠時間が必要”ってことを前提に生活しています。

 

たとえば、一日外に出て神経を張りつめたときとか、

帰宅したらどっと疲れています。

そのとき、眠いなぁと感じたら、無理して起きたままでいなくって寝ます。

そのあとでやることがあれば1時間ぐらい、

そうでなければ2時間、3時間近く寝ることも。

 

そうして起きたら、疲れはとれていて、何より頭がシャキッとしているんです。

集中力も蘇っているから、

無理して起きていて2時間かけてだらだらやるのも、

1時間ぐっすり寝て、1時間集中してやるのも、

結果としては同じ。

だったら後者の方がいい、と。

 

 

これ、今の私の場合ですが、

ショートスリーパーの人は違ってくるでしょうし、

仕事場と寝るスペースがまったく離れていたら物理的にむずかしいし、

ただ、睡眠とどうつき合うかというのは

体調や気持ちをいい状態でキープするのに大事なことなので、

たまには考えてみるといいかもしれません。

 

心がすさむ一歩手前で台所に立つ

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家事は好きじゃないし、何より片付けが大の苦手。

断捨離とかていねいな暮らしとはとはほど遠く、

ただ、その一方で、あまりにだらしない生活をしているとそれが仕事にも反映されるように思えるのも事実。

 

 

私の場合、そのリトマス試験紙が“食べること”。

取材とか下見とかが続くと家で食べないし

(これ、脳で食べているので、普通の食事とはまったく違う感覚です、私の場合)、

籠って集中しているときは、

特に締切り前とかは中断したくなくって、とりあえずあるものをつまんだりも。

それが続くと、つまり食べることが疎かになると、

心もすさんできそうで無意識のうちにブレーキがかかります。

 

外食もいいし、中食でも構わないけれど

(コンビニごはんは苦手なんですよ、味じゃなくって、容れ物が。

 食器に移したくなって、だったらお総菜を買う、って発想になっちゃう。

 いっそのこと、機内食みたいにコンパクトだったらそれはそれでいいんだけれど)。

関係ないけれど、学校給食をダイニングテーブルじゃなくって学習机で食べるのが本当に嫌だったなぁ

(お弁当なら気にならないのに)。

こういうの理屈じゃなくって生理的なものなんでしょうね。

 

 

せめて食事の時間ぐらいちゃんと確保しよう。

簡単なものでもさっと作って食べる。

バタバタのときも、できるだけこれをすると気忙しいムードがいったん停止して、

心の均衡がなんとか保たれるような気がします。

 

こういう心のブレーキのかけ方、

私の場合は“食べること(食事の準備をすること含め)”で

当然人によって違うけれど、

信号を感じたら素直に従うのがいいかと。

 

フリーランサーとはフリーターである

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イギリスから帰国したとき。

まだどこに住むかわからなくって(国外転出の手続きをしていたので、住民票もない)、仕事もどうなるかわからなくって(フリーでやっていこうとか勤め人になろうとか、どちらにも強い意志はなかった)、

あ〜、これって、何かあったら、

“住所不定、無職”

って報道されちゃうんだなぁ、って思ったことがあります。

 

そのあと、なりゆきで今日までフリーランサーなんだけれど、

フリーランサーもフリーターも社会的存在としてはまったく変わらないなぁ、というのが当事者の印象です。

 

だって何も、何の保証もないし、まったく信用されていないんだもの。

だいぶ緩くなったかもしれないし、過去の遺物となりつつあるけれど、現実的なところとして、

・クレジットカードが作れない
・ローンが組めない

・家を借りるのが大変

とか。

 

仕事をすることにおいては、フリーランサー/フリーターであることがどうのってことはほとんど感じないのだけれど、

社会的にはまったく信用されていない、という。要は生き方が容認されていないマイノリティーってことなんですよね〜。

まあ、社会から信用されるようになったらおしまいかもしれないので、

これはこれでいいのかもしれないけど(笑)。

看板を掲げる効果は、想像以上に大きい

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メディア、書籍とか雑誌とかの紙媒体の仕事が長い私。

これ、表に出ない裏方の仕事です。

記名記事を書くこともあるけれど、だからといってそこに注意をはらう人はほとんどいないだろうし(文責ってことです。名前が呼び水になるのは有名人であって意味合いがまったく変わります)、映画のエンドロールでクレジットが出るでし
ょ、あんな感じ。

 

この仕事をやってていいことのひとつは、

取材などを通じて一流の方に会えること(同時にそうでない人にも会うけど)。

 

するとですね〜、自分のやってることなんて、恥ずかしくなっちゃうほど些細なことに思えちゃうんですよ。

“まだまだ”“まだまだ”の意識に占められちゃう。

というか、スタート地点が裏方なので、自分が表に出ようという発想が、まずない。

 

私の場合、それが仕事になるとかって最初はまったく思っていなくって、

ただ、世間一般で流布していることと、自分が実際に見聞したことや知りたいことに乖離があって、

イギリスの食についてぽつぽつやっていて、

もしかしたら同じように感じている人がいるかもね、と思い、ブログを始めたものの、公言もしなかったし、別段隠していたわけじゃないけど、黙っていました。

 

 

でも、あるとき、はっと気づいたんです。

とかくある時点のピンポイントにだけ(その時点の、一流だなぁ〜、だったり、ぺーぺー、だったり)目が行きがちだけれど、最初は目を覆いたくなる程度の能力だった人が、メキメキ力をつけていく様も目の当たりにしているってことに。

 

その人たち、短い時間で何で?と思ったら、

“看板を掲げる”

ってことをしているですよね。

ときに大風呂敷を広げるってことも。

 

具体的には、

先にお店を作ったり、名刺を作ったり、公言したり。

 

 

あ〜、これって大事だなぁ。

こうすることで周りにも自分にもプレッシャーをかけるから、無意識にしろ、そういう方向に意識が向かうだろうし。

そして、同時に情報も入ってきやすくなるんですよね〜。

 

しっかり記憶を紐解くと、そういうヒントってたくさん見てきていたのに、

意識がないと素通りしちゃうのね〜。

 

 

とはいえ、意識をガラッと変えることはむずかしかったけれど、

まずは名刺やメールの連絡先に、“イギリスの食研究家”と入れ、ブログのアドレスも記すようにしました。

 

その結果?

やはり看板は掲げておかないとなぁ、でしたよ、本当に。

 

新しい名刺、完成!

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昨年末からとりかかっていた、新しい名刺作り。

ようやくデザインが完成し、あとは印刷!という状況までこぎ着けることができました。

 

現状、私が使っている名刺は表面に肩書きと連絡先を入れていて、

肩書きのひとつ“イギリスの食研究家”が相当珍しいようで、

裏をひっくり返される方が多かったんですね。

実際に、訊ねられることも多いし。

 

同時に、自分がブログをきっかけに自身の仕事を得たことや、その一方でメディアで仕事をしていることもあり、

ブログやウェブサイトなどの文章の書き方やSNSの使い方などをきかれることも増え

(従来どおり、冊子やリーフレットを作りたいってご要望もありますが)、

これも仕事として看板を掲げないとなぁ、と思っていて。

 

でも、自分のことって、本当にむずかしい。

しかも名刺という限られたスペースでエッセンスをぎゅっと濃縮することは。

 

これ、誰の仕事かっていうと編集者、なんですよね〜(↓)。

ricorice.hatenablog.com

 

あなたも編集者でしょ!なのですが、自分のことはできないので、信頼できる編集者に仕事として依頼した次第。

 

結果、とてもよかったです。

普段目の前の仕事であまり意識していなかったことを、打ち合わせをしたり書類を作成して渡したりすることで、自分の棚卸しができるんです。

当然、質問も受け、そこで答えるときに初めて「自分はこういうこと考えてるんだ〜」「自分はこういうことやりたいんだな」ということを言語化でき、認識できる、ってことも貴重な経験でした。

 

 

自分のことってわかっているようで一番わかっていない。

客観視できる機会って、意識的に定期的に作るのがいいんだろうな。

 

“女性のための”って本当に女性のためになるの?

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いちいち性別をつける風潮に首を傾げたくなるのは私だけでしょうか?

ricorice.hatenablog.com

 “女性のための”と銘打ったビジネス塾があったり、優遇制度が導入されているとこもあるとかないとか聞くけれど、

これって本当に“女性のため”になるのかなぁ?

(そして、レディースデイなどど同じく、これを逆差別だ!と叫ばないのはなぜだろう?)

 

だって、本当にやる気のある人なら、“女性”というゲタを履かせてなくってもそんなこと気にせずに突き進むだろうし、

それに社会って理不尽なことの連続で、性差はその一部に過ぎない。

もちろんさしたる理由もなく女性もしくは男性というだけで、門戸を開いていないのは問題だけれど、そうじゃなくって、始めから手取り足取り施すって甘やかしじゃないのかなぁ。

確かに二の足を踏んでいる人の背中を押したり、敷居を低くするにはいいのかもしれないし、そのことは決して否定しないけれど、実践でもっと大きな困難が待ち受けてるかもしれないのに、しかもそれは誰のせいでもない理不尽なことだったりするのに、そのときにはどうするんだろう?

 

くっだらない!(と私には思える)「ダンナのごはんはどーするの?」「きれいにお化粧しなよ」とかいった、おおよそ仕事とはまったく関係のない、女子力という言葉を隠れ蓑にした家事能力+性的魅力を押し付ける風潮は、ほんと大きなお世話だしやめて欲しい、と心底思っていて、ちやほやする制度を整えるよりも、むしろこういった意識をなくすことの方がよっぽど大事だと思うんだけど、ね。

ricorice.hatenablog.com

 

見せかけの形ばっかり作っても、性差による役割分担とか、家族のあり方(子どもの有無、子どもがいて養育者としては異性の両親、同性の両親、シングル、アダプト、祖父母などがあるにもかかわらず)とかで異性に両親に子ども2人という昔のモデルのままで止まっていて、しかもそれを理想とするのをいまだによしとしているから、歪みが生じているんだと思うんだけどねぇ。

 

こないだ見た何かの見出しが「東大卒エリートを捨てた専業主夫」(っぽいやつ)ってあって、これも変だよね〜。「東大卒エリートを捨てた専業主婦」はいっぱいいるだろうけど、それはニュースにならない。

本人が主夫に適性を見出したんならそれでいいんじゃないの? いちいち好奇の目ではやしたてなくっても、そんな人もいるよね〜、ぐらいのもんじゃない?