書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

宵っ張りなんだなぁ、とつくづく

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もともとそういうきらいはあったのだけれど、生死を彷徨った後で早寝早起きに軌道修正しました。

といっても、それまで3時ごろ寝て、10時ごろに起きていたのを、

日付けを超えたらなるべくすぐ寝るようにして(だいたい1時ごろ)、8時ぐらいに起きる

(そしていずれの場合も、何もなければ昼寝を1〜3時間)、

を軸としたのに、ここのところ、今まで以上に昼間が眠くて仕方がない。

そして、夜は10時過ぎぐらいから、妙に目も脳も醒めている、という。

 

結果、3〜4時ごろ寝て、9〜10時ごろ起きて、昼間に2〜3時間寝ている、という。。。

あれぇ、昔に戻ったみたい。

 

今はこのリズムがしっくりきているから、それでいい、とは思っているのだけれど、

やりとりで時差が生じるのが、どうかな、下手すると1日ズレそうで、

一応、一般的なビジネスアワーには合わせないとなぁ、なんですよね。

 

でも、そういうリミッターを外して、本能の赴くままの方が作業効率がいいのかな。

もっというと、四六時中眠くて眠くて仕方のない時期もあれば、比較的規則正しく折り目正しく、って時期もあり、

こういうの含めて、体が欲するままにしておくのがいいのかな。

 

体が欲するままに寝たり起きたりする。

そんな実験をちょっとしてみるとしますか。

 

 

片づけながらしまいながら、記憶を行ったり来たり

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おかたし進捗。

体調や精神状態があまりよくなく、とりあえず目の前のことをやるのにいっぱいいっぱいだった時期を経て、おそらく気持ちに余裕ができたのでしょう、ふと見渡し愕然とした日から、おかたしに再びギアが入ったところ。

 

書類と資料の見直し、という大きなハードルはあるものの、

服とか日用品とかはあらかた終わり(そもそもそんなに所有していたわけではない)、

日常的に使うものではないけれど、大事にしておきたいものを箱詰めして、しまったりもしています

(なぜ棚とかに戻さないか、というと、引っ越したいので、荷造りも兼ねて)。

 

あまり目標を決めず、今日は書類、今日は点検、今日は箱詰めといった具合

(と書くと、すごく進んでいるようですが、実際にはまとまった時間ではなく隙間時間にやっているのでペースはゆっくり)。

 

 

困ったなぁ。

本を見直していて『自虐の詩』をン年ぶりに読み返して、またしても号泣(何年かおきに読み返して、そのたびに泣いているのだ)。

やっぱり、これは一生ものだなぁ、私にとっての聖書だなぁ。

 

今、おかたし真っ最中、ということもあって、ふと、これいつ買ったんだっけ?と思い出したら、2001年にイギリスから帰国し、しばらく実家で社会復帰へのリハビリを行い、再び上京して、生活が軌道にのるようになった、と同時だった。

 

イギリス滞在時、またにロンドンの知人が留守の際に、フラット&キャットシッターなるものを引き受けることがあり、本棚にあったのを読んだら止まらなくなって、ぐさぐさ心に刺さって、どうにも忘れられなかったんだよなぁ。

自分用を手に入れようと思いつつ、すっからかんで帰国し、何のあてもなく上京して、とにかく目先の生活優先だったので、すぐに買えなかったのだ。

 

で、困ったなぁ、は、『自虐の詩』は捨てない!のはわかっているのだけれど、マンガ読みたい!熱に火がついちゃったんだな。読み耽りたいんだな。

(ついでに、SF小説読みたい!熱も)

 

ううううう〜ん、困った!

今、マンガ喫茶に行ったら通いつめそうだし、かといって1冊でも買ったら歯止めがきかなそうだし。

うううう〜む、どうしたもんか。。。

 

 

ところで、『自虐の詩』を持っていたロンドンの知人に「おもしろかった、泣けて泣けてしょうがなかった、と言ったら、ヘぇ〜、私はよくわからなかった」と不思議そうな顔をされた。

自分で買った後で遊びにきた友人がうちにあるのを見つけ(というか、モノがほとんどなかったので、イヤでも目についたのでしょう)、「『自虐の詩』ねぇ、おもしろいかぁ?」と半笑いで言われた。

 

そんなこともぼんやり思い出し、人の感じ方ってほんと、いろいろよね。

 

ギャグマンガは最高のグルーヴ感を与えてくれた

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私は1969年2月生まれです。

ベルサイユのばら」、萩尾望都竹宮恵子の主にヨーロッパを舞台とした大河ストーリー、そして絵柄が苦手で、読まずにきたんのは、世代的に少し遅れたから、と思っていました。

 

でも、それは違うのかも、と最近思い始めまして。

 

竹宮惠子の『少年の名はジルベール』は、ううう〜ん、って思うところが随所にあるし(編集者が書き手の才能を潰す、ような書き方はまったくもって違う!と思う)、こんなこと知れてうれしい、ってのも特段ないのだけれど、

それらを補って余りある、萩尾望都への嫉妬と羨望を吐露した箇所、それだけで読む価値あり。

山ちゃん@南海キャンディーズの「しくじり先生」に匹敵する、すばらしさ!

黒い闇の部分は誰にでもある。

それを、しかも深淵の部分が表現されたことは感嘆しかないのです。

こうやってアウトプットできるまでの歳月を思うと、そしてそれは大なり小なり一生つきまとうことであることを思うと、業の深さを感じつつも。

 

 

で、『少年の名はジルベール』を読み返したら、24年組が気になり、そしてあれやこれや見たり読んだりして気づいたのは、

あっ、私の感じ方の原点は小学校1〜2年で確立されたんだな、ってこと。

それが上記の少女漫画が読めなかったことにつながるのではないか、と。

 

 

小学校1〜2年(厳密には小学校3年の前半まで)で何があったか、というと、

このときの私は人生の中で最高に幸せだった時代のいち時期で、住んでいるところ(引っ越しがそこそこあったので)や周囲の人たち(同じ場所でも保育園時代はイマイチだった)をはじめ、周囲とのすべてと相性がよかった。

小学校に入って間もなく、近所の習字教室に行くようになったら、この習字教室が天国でして(笑)。

 

どう天国か、というと、この教室は先生の家の自宅の庭に面した大きな2部屋を教室として開放していて、この部屋には縁側があり、突きあたりにトイレがあって、このトイレのスペースが広くて、お手洗いの洗面台がオープンスペースとしてあって、2畳ぐらいだったかな。

ここにマンガ雑誌が30冊ぐらい積み重ねてあって、活字中毒だった私は、小学校と市立図書館で本を借りまくり、自分家でも人の家でもそこにあるものを手当たり次第読み、その同線上にマンガがあったのです。

 

私はこの時まだ、自分でマンガを買ったりしていなくって、家にマンガがある環境でもなかったのだけれど、この習字教室にはたっぷりの漫画があって、なんせ読み放題!

誰が買っていたのか、教室の先生ではなくって、多分、通っていた子供達がおいていっていたんだと思う。当時は、マンガはNGって家庭がまだあったもんな〜。

 

ありがたいことに教室の先生はとても寛容なおばあちゃん先生で、私は月に一度の課題提出の前以外は、それこそマンガを読んだり、墨汁で絵を描いたり(怒られるどころか、褒めてくれて大事にとってくれた絵もあったんだよねぇ)、おやつを食べながらおしゃべりしたり(おばあちゃん先生はときどき大きなやかんにお茶を作ってくれていた)。

今風にいうと、完全に私にとってのサードプレイスだったのです。

 

で、この教室、火曜とも木曜の夕方、土曜の午後にあって、基本週に一度通うことになっていたのだけれど、いつでも好きなときに来ていい、ということで、土曜の午後にも行きつつ(この時間に来る子どもが多いからワイワイできた)、人の少ない木曜の夕方にも行っていました。

なぜ、人の少ない木曜の夕方かというと、心おきなくマンガを読めるから。

 

縁側にあった、籐でできたロングチェアに寝そべり、傍にマンガを積み上げて、読みふけっていたのです。

クラスメイトの1歳上のお姉ちゃんも頻繁にこの時間を狙ってきていて、2人でロングチェアを使う順番を交替しながら、それぞれ黙々とマンガを読んでいたという。

ときどき、お菓子を食べながら少し話をするものの、このマンガおもしろいね!と言い合ったりはしない。

2人ともおとなしいわけではないけれど、マンガに没頭という暗黙の了解のような時間でした。

 

 

このとき圧倒的に好きだったのが「週刊少年チャンピオン」。

1975〜77年で、今にして思えば「週刊少年チャンピオン」の黄金時代に合致するんですよね〜。

がきデカ」「マカロニほうれん荘」が大好きで、あとは「ゆうひが丘の総理大臣」「ブラック・ジャック」とか。「750ライダー」もあったなぁ〜。

週刊少年サンデー」の「まことちゃん」も大好きだった。「がんばれ元気」はよくわからなかったけれど、記憶にあるなぁ。

週刊少年ジャンプ」も「東大一直線」とか「すすめ!!パイレーツ」とかあって読んだなぁ〜。「ドーベルマン刑事」も印象に残っている。

 

で、最近あれやこれや見たり読んだりしていたら、小学生に「がきデカ」「マカロニほうれん荘」が本当にわかったのか、という発言があって、当時小学校1〜2年だった私の感覚からいうと、マンガの内容を理解しできたかどうかは重要じゃなかったんですよね〜。

現に「がきデカ」に散見された性的表現はまったく理解できていなかったし。

 

じゃあ、何にそう惹きつけられたのか、っていうと、破茶滅茶でガンガン突き進んでいる疾走感がたまらなかったんだと思う。

意味なんて求めていなかった。

ページどころかコマごとに急展開していく様がほんと、気持ちよかった。

 

これが私が人生で最初に体験したグルーヴ感、だと思う。

週刊少年チャンピオン」は連載といえど読み切りスタイルをとっていて、私は単行本でなく雑誌で読んでいたので(当時の小学生は雑誌を買って、周囲と回し読むのが主流、だった、と思う。単行本を買うこともあったけれど、日常的じゃなかった)、短い時間でバシッと完結するスタイルも、短時間でガツンと気持ちが高揚するのに合っていた。

 

 

となるとですね、長い話とかストーリーとかは、当時の私はたるくて読めないわけですよ

(これにはもうひとつ個人的な理由があって、物語は物語として文章、つまり本でさんざん読んでいたから、それをマンガに求めていなかったんだとも思う)。

少女マンガの瞳キラキラ、お花背景、は、なんだ、これ!だったし。

 

小学校3年のときだったと思うけれど、「コロコロコミック」が創刊され、そこでクラスの男の子が「ドラえもん」がおもしろいよ!って貸してくれたのだけれど、「ドラえもん」もダメだったなぁ

のび太の他力本願と意思表示のできなさ加減にうんざりした。ドラえもんは必要以上にのび太を助けるなよ〜、だから彼はいつまで経ってもひとりで何もできないんだよ〜、共依存か?って感じたんだよなぁ。

ついでに言うと、ドラ焼きが好き、って設定にもなんじゃそれ、年寄りか、と思ったし(当時の私はどら焼き(幼少期の私は和洋折衷スタイル含めて和菓子の類がまったくダメだったからかもしれない。。。)を昔の食べ物を思っていて食べたことがなかったからだ、と思う))

 

 

同時期に、NHKで夕方にジョブナイル小説のドラマがあって(それこそ習字教室から帰って観ていた)、衝撃的というかトラウマになるほど怖くて、かつ目が覚めるほどおもしろかったのが、小学校1年の秋から年末にかけて放送された「なぞの転校生」。

これでSF的なおもしろさに目覚めたのかもしれない。

 

 

そう振り返ると、私の感覚が確立されたのは小学校1〜2年で、マンガを心おきなく読めるサードプレイスとしての習字教室の存在は大きかったんだろうなぁ。

 

 

で、繰り返すけれど、ギャグマンガが大好きだった小学校低学年の私は、内容なんて求めていなかったのです。

これが小学校中〜高学年であれば、また違ったのかもしれないけれど。

社会の通念も、マンガの文法も、既成概念をぶち壊す(ように見えた)、あの疾走感にやられてしまった!のです。

数年前に夢中になった「ペンギンの問題」もそのおもしろさは、前後の脈略のないところでもたらされる疾走感が自分の中で再現されたからかもしれないなぁ。

一気に5000字を書き上げてしまったよ。。。

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たま〜に、ですが、具体的な企画以前の大枠の考え方や方向性の見解を求められ、意見をとり交わす、ってことをやっていまして。

 

その場合、至急、ってことはないので、お互いにある程度まとまった時間がとれたときに長いメールをやりとりするのですが、

今回ふられた内容が、こりゃメールじゃ収まらないな、という予感があったので、ある程度落ち着いた時間が取れるのを待って、テキストを作成することに。

 

1時間かけて一気に書き上げたら、5000字近くになっていたよ。。。

5000字といってもピンとこないかもしれませんが、400字詰め原稿用紙で、10枚以上(12枚)。

そういえば大学の卒論が50枚以上だったな。。。

きちんと引用などを肉づけすれば、(準)論文にできるかも。。。

 

一応、誤字脱字だけは確認して、提出。

ブレスト以前の身内のアウトプットの見せ合いなので、勢いが残っていても、むしろ、息使いが感じられる方が、こちらの思いが伝わるだろうから、まあ、いいか。

 

 

こういうときって、楽しいんだよね〜。

考え始めたら数珠つなぎのようにどんどん自分の脳の中にアイディアの引き出しが次々と開かれて、

あれもできる!これもできる!ってパワーが湧いてきて、妙にやる気がみなぎっちゃうんだよなぁ。

いつまでとっておけばいいのか、思案中

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主に取材で、仕事で記録をとるのに使っているのは、無印良品のA5サイズ、6mm横罫、糸綴じのノート。

私は無印良品はさほど好んで使わないのですが(持っていて楽しくないので)、このノートは20年来愛用。

 

このサイズ、糸綴じ(リングは書いているときに引っかかるので使わない)、罫のトーンも邪魔をしないので(罫に沿って書くわけではなく、むしろ無視しているのですが、無地だととっかかりがなく、それはそれでつらいのです)、いいんだよなぁ。

 

おかたしをしていて、この取材・仕事ノートがどどんと目の前に現れ、さてどうしようと思案中。

見返すことがないのはわかっている。十分にわかっている。

情報は古くなるし、急いで書いていて相当崩したり流したりしているので自分の字が読めない。

もう、要らない。

 

じゃあ捨てればいいじゃん!

なんだけれど、捨てられないんだよなぁ。

 

別に感傷に浸っているわけではないのだけれど、踏ん切りがつかない。

生理が詰まっている、ってことなのかなぁ。

 

さて、どうしよう。

しばらく、じわじわ考えます。

こんなにも違うのねぇ

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あっ、なかった!となって、慌てて買いに行くのが好きでないので、

日用品の消耗品は、新しく使い始めた時点で、ストックを買うようにしています。

 

生理用ナプキンもそのひとつ、だったのですが、

今年に入って、量も減り、3カ月なかったので、これで終わりか、と思いきや、大暴れ!(↓)

ricorice.hatenablog.com

 

閉経前にどど〜ん!と来ることがある、なんて知らなくって、

これにて終了!のつもりで、ストックを備えておかなかったら、

あっ、足りない!となり、ターミナル駅を利用するついでに買おうとドラッグストアに入ったら、高くてびっくり!

 

いつも私は、食料品の買い出しと一緒にスーパーマーケットで買うのだけれど、そこで買うより、1.5倍ぐらい高い印象。

 

これって、ターミナル駅やその界隈で生理用ナプキンを買うのは、緊急事態発生時で、日常的でない、ってことで、こういう値づけなのかな?

2袋パックのスペースも狭いし。

 

歴然とした理由があるはずだよね。

知りたいなぁ〜。

 

青木まりこ現象じゃないけれど

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その傾向は私にもあったけれど、言われれば確かにそういうことあるな〜。

本屋さんに行くとトイレに行きたくなる(しかも便意)。

 

本屋さんだけでなくレコード屋さんもそうだったなぁ。

私の場合、匂いに誘発されるのかなぁ、って気はしているのですが。。。

 

 

ここ数年顕著なのが、通話中。

短時間だとそんなことないのだけれど、30分以上におよぶと、その率がぐっと上がる。

プライヴェートの通話だと、トイレ行きたくなった/行ってくる、って言えるのだけれど、

仕事だとなかなか辛い。でも、自然現象には勝てないので、いったん電話を終わらせる。

 

なんでだろー。

これが対面だと、別にそんなこと、ない。

電話だと起こるんだよね〜。

 

電話は声しか頼るものがないから、

自然と声に力が入り、ということはお腹に力が入るから、

そして時間が長くなるとすっかり刺激される、ってことなのかなぁ。

 

 

先日も仕事の電話をしていて、1時間経ったところで、襲ってきたよ。。。 

一区切りついたところで、長くなったので続きは後日にしましょう、と打ち切りました。。。

お行儀悪いけれど、我慢できることじゃないから。

 

っと、これって私だけ?