結局、量なのかな、と思う
編集の仕事を始めて30年近く経ちました。
必然的に、書く、ことも付きまとい、時にライティングだけ、という仕事もしています。
2010年代、書くことが怖くなりました。書けなくなりました。
いや、ちゃんと納品はしていましたよ。
一応、一定の質で持って、ではあったと思うけれど、
本人としては、今ひとつしっくりこない、消化不良が残っていたのです。
それまでは、おそらく素直に書いていたのでしょう。
でも、続けているうちに段々と欲が出てきて、もっと上手に書きたい、と思うようになり、
同時に、自分の書いたものも客観視できるようになり
(まあ、これは編集者として仕事をしているから、かもしれないけれど)、
ジレンマが始まったのです。
文章の綴り方(テクニック)、みたいな本を何冊も読みました。
正直、目新しいことはなくって、普段意識的であれ、ぼんやりであれ、感じていることが整理されている、って感じ。
その長い、いわばスランプの状態が、ここに来て、ようやく脱出できたようです。
ある程度肩の力を抜いて、素直に文章が書ける。
技術はあった方がいい(かもしれない)。
技術を持ってすれば、それなりのことはできる。
“そんなもん”と割り切って、とにかく量をこなすのであれば、「上手になりたい」なんて思わずに、ひたすらこなす。むしろそれでいいのだろうし。
でも、自分で書いたものに納得しながら続けるには技術じゃ足りない。
テクニックはあくまでライティングをするための手形にすぎない、んですよね。
では、どうすればいいのか、って言うと、
とにかく書く、とにかく読む、その中で考える。
アウトプットしてインプットして考えて、その繰り返し、の中で培われる、っていうのが実感です。
語学なんかがわかりやすいのですが、ごく稀にその道に恐ろしく適性がある人がいます。
そう人はさしたる努力をしなくても、すいすい会得して、あれよあれよと言う間にできる人になるんですよね。
でも、一般的な人はそうはいかない。
じゃあ、どうするか、っていうと、とにかくやる、ひたすらやる。
なぜなら、やる量に比例から。
ひたすらやる日々で、できるようになったって実感するのは、少しずつ、ではないんですよね。
やってもやっても変化がないように思える期間が続き、ある日突然視界が開ける。
その繰り返しで、少しずつ力がついていく。
そのためには、日々ひたすらやる(ときどきまとめてドン!ではなくってね)、に尽きる、と思うのです。
書く、ことも同じ。
小手先のテクニックだけで書いてある文章は、一見できている風なので、クライアントさんはよし、とされるのかもしれませんが、それらしい言葉が散りばめてあるだけで、いち読者として読んだときに、ちっとも響かない。
そもそも書き手が読者を向いていないわけですから、響くわけがない。
テクニックの先にあるもの。
それは自分で掘り起こしていくしかないし、人によってもまったく違って、そうして個性につながるんだろうなぁ、って感じています。