書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

寄り添ったふりはタチが悪いと思うのだ

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フジロックの第1回目、サマーソニックも初回だったか2回目だったか、はっきりと覚えているいちばん昔で2002年開催は行った身としては、おっ!と飛びついてしまったのがこの記事(↓)。

headlines.yahoo.co.jp

 

またしても、あ〜あ、な気持ちになったのは、スペシャルズポール・ウェラー(現在は訂正され、ジャムのポール・ウェラーになっています)となっていたこと。

 

新聞社って、取材先に内容確認をとらないんだよね〜。

取材対象を持ちげない、ってのが理由なようですが、だったら校正なり校閲なりしっかりしてね、って思う。

 

言い間違いだとしたら、そこに気づくのは発信する側の仕事だし、書いた本人だけでなく、世に出る前にほかにも目を通す人がいるはずだよね。

 

そこまで詳しくなくても少しイギリスの音楽を知って入れば、ポール・ウェラーが所属したのはジャムであるってのがすぐ気づきそうなもので、そこに誰も気づかない、ってことは、基本興味がないんだろうし、詳しい人が書くわけでもないんだろうし。
ちょっと調べればわかりそうなことを、たかをくくって、こういうことも取り上げますよ、どう、寄り添っているでしょ、が先に立っているからか、どうしてもそのニオイをどうしても嗅ぎとってしまうんだなぁ。

ポピュラーミュージックを格下と捉えている感が、いまだにプンプン。

 

こういうの、ちょくちょくある。

なんでも体験しないと書けないとは思わないけれど、こんなもんでしょ、こんなことも取り上げちゃうよ〜、が先に立ってトンチンカンな記事を何度も読んだことがあり、

若い頃の私は怒りに打ち震え、思い出すだけでいまだに腹が立つ。

今は、優越感の視点からの市井で起こっていることへのアプローチは、いつまで経っても変わらないんだなぁ、って諦めの境地。

 

こういうパフォーマンス要らない。

わかったふりは要らない。

知ろうとする姿勢はいいのだけど、知ったふりは要らない。

むしろ、知らないなら知らない、でいいんじゃないの。