書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

昨日、2018年6月18日(月)は京都にいました

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昨日、2018年6月18日(月)は朝から京都におりまして。。。

 

いろんなことのひとつひとつがすべていいように転がっていた、というか

京都市内の移動がすべてバスだった(電車や地下鉄を使わない)etc)、

京都から新大阪移動が新幹線になった以外は(在来線が動いていなかったので)、

予定通りにことが進み、ことの重大さにも気づいておらず。。。

(よくわかっていなかったけれど、京都で足止めを食らったら食らったで、そういうこともあるだろう、ぐらいに受け止めていた)

 

そもそも地震があったときも地震ってわかっていなかった。

京都駅についてすぐで、地上にいて、新幹線の震動かな〜、ぐらいにしか思っていなかった。

スマホが鳴ったのも、最初自分の音と気づかず、えっ、なんで?と。

 

 

今の時点でこんなことを書くのは不謹慎だ、って怒られそうですが、

ピンポイントで現場に入っていても、なんとなく、結果としてことごとく難を逃れ、ぼーっとした人間もいるのです。

 

 

わかったのは、渦中にいると情報って入らないんだな、ってこと。

東日本大震災のときもそうだったけれど(このときも大惨事とはまったく気づいていなかった)、スマホや携帯電話で眺めるニュースのヘッドラインだけだと、今ひとつよくわからない。

ポイントポイントの情報だけで、俯瞰でわからない。

 

 

それと掲示板のアナウンスが日本語だけで、これはまずいなぁ、と

(外国語表記は次の列車の時間と号数ぐらい)。

誰に訊けばいいかわからず警備の人に訊ねた非日本語ユーザーが係員のところに行き直し、状況を確認している様子を見ると、個人の状況による細かいことはそうせざるを得ないとしても、ざっくりとした大きなことは大きく表示すればいいのに。

 

概要が分からないと余計な不安が募る。

それは外国語だと余計にそうだけれど、母国語でも一緒。

全体が把握できれば、あー、今そーゆー状況なのね、って冷静に捉える人が増える、と思うんだけどなぁ。