私は夏休みの宿題をとっとと終わらせる子どもだったので
夏休みまっただ中。
そんななか、夏休みの最後の日に宿題に追われる子ども、ってのがステレオタイプで、
あるべき子どもらしい姿みたいな概念が底辺にはありますが、
果たしてそうかな?
(そもそも、子ども=無垢、ってのはまったく違うと思う。
そんな単純じゃなく、子ども時代の私は、いろんな感情が深いところでとぐろを巻いていた記憶。
なので、年齢を重ねるほど、素直になり、人生がラクになっている気がする)
私自身はとっとと宿題を終わらせる子どもで、
何だったら宿題をもらったその日に済ませたかった。
エリアや時代によって違うけれど、私が小学生のときは、
毎日(この毎日ってのがポイント!)何ページかをこなし、
夏休みの間に1冊終了させる“夏休み帳”ってのがあって、
これを一気に終わらせたかったのだけれど、登校日ってのがあり、
その日に進捗状況を学校に見せるんですね。
なので、登校日までの分しか進められなかったのが、すごいストレスでした。
というのも、毎日コツコツやることが“夏休み帳”の目的のひとつなわけで。
ある年、登校日に “夏休み帳”をすべて終わらせていたクラスメイトがいて、
それを担任がほめたんですね。
で、私は心の中で「ねえ、あなたは、本心はともかく、毎日コツコツをすることを教える立場でしょ、その態度は違うんじゃない」と眺めていたという。
勉強が好き、というよりも、
目の前にあることにすぐにとりかかりたい、どんな問題がのってんだろうって好奇心が強かったんだと思う。
なので、学年があがって、教科書をもらって帰るとき、
国語の教科書とかは本という認識だったから、早く読みたくって家まで待てない、ってタイプ。
もうひとつ、目の前のことをとっととやっていた理由は、こづかれたくないから。
あれこれうるさいことを言われたり構われたりするのが、うっとうしくって仕方なかった。
やることやってれば文句ないでしょ、ってなもんで。
学校の算数の時間が顕著で、問題をはやく解きさえすれば、やることやっている限りは、咎められなかったので、さっさと済ませて、自分の世界にどっぷり浸かり思考を巡らせていました。
(今にして思えば、哲学につながる数というものにすっかり心を奪われていて、0(ゼロ)とはなにか、有か無か、3とはどういう数字なのか、みたいなことをぐるぐるぐるぐる考えていたのです)
まあ、いろんな子どもがいるもんです。私はしんどい子どもだったなぁ。
ダイバーシティを言うのであれば、子どもにもいろんなタイプがいるってことで。