書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

おかたしノート、始めます!

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今年に入って、どんなに些細なことでも少しずつやる、を実践しています。

何か、っていうと、

おかたし(片づけ)。

 

とっかかりとして、まずは明らかに不要なものを捨てる。

いきなりドカンとやるには荷が重いので、小さなものから。

コスメの試供品とか、冷蔵庫の隅で眠っていたもうほどんど残っていない賞味期限切れの調味料とか、を捨てる。

 

これが少しなじんできて、

もう少し大きなものが捨てるのも抵抗がなくなりました。

 

今年に入って、今日までに捨てたもの(小さいもの除く)

・靴 2足

・マフラー 1本

・本 20冊

・雑誌+小冊子 20冊

 

判断が迷うものは考え始めると時間を取られるので後回し。

でも、そのときに後手に回したもの、目についたものに対し、

ちょっと時間が経つと、これも要らないな、あれも要らないな、が頭をかすめるようになりました。

 

うん、その調子!

 

 

よく、望みは公言するといい、っていうでしょ。

それと似ているかもしれないけれど、

望みの場合は、他者の目にも映るし、それによって手を差し伸べられる場合もある(これ、ほんと!)。

 

でも、おかたし(おつかい、とか、おもたせ、とか、みたいでいい響きだ!)は、

基本、直接的に他者には絡まないんですよね〜。

なので、自分を客観的に見つめて向き合うために、

こうやって公にするって感じかな。

 

もっというと、公にしなくてもいいけれど、自分の中から一回外に出す。

状況だったり、こうしたい、だったりを。

そうすることで初めて、はっきりと“何をするか”が意識づけできるのかもしれない。

 

なので、“おかたしノート”を記録していこうと思います。

(写真もアップしたいのですが、公にすると差し障りがありそうなので割愛。
可能なものが出てきたときには投稿するかもしれません)

Less is More: できることから少しずつ

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年末年始にかけて一緒にお仕事をした方と、ひと区切りついたところで、

新年会と称して、夕食(というか、飲み、ですね)で楽しい時間を過ごしました。

 

その案件では、仕事場として私のスペースを利用。

案件がスタートした際に、うちにいらしたときの第一声。

「うわぁ、(以前より)モノが増えましたね」

「これから大掃除にかかるんです」(実際に、そう思っていた。今ほど真剣じゃなかったけど)と私。

 

で、夕食の席で、ビールを飲み、料理を食べつつ、片づけ真っ最中の話になり、

「不要になった本と雑誌を紐で縛って、収集日を待っているんです」

「靴を2足、マフラー1本を、えいや、でゴミに出しました」

などと言うと、こんな返しが。それに対して、→ 以下が、今の私の状況。

 

「本や雑誌捨てたの? 困らない?(仕事柄資料で必要だから)」

→ 必要かな、ってものはとりあえず保留(捨てて痛い目に遭ったこと、一度や二度でなく。。。特に雑誌。一度手放すと、もう一度見たいと思っても、入手はほぼ不可能なのです)。

確実に要らない、と判断したものは捨てる。決心が揺るがないよう、収集日に出せるよう、紐で縛る。

 

「衣類はメルカリとかヤフオクとかに出せばいいのに」

→ そうも思ったんだけれど、まだ使えるとはいえ使い倒しているし。ボロになって自分がもう要らないかな、ってものは他人も不要だろう、って言い聞かせて、捨てた。気に入っているし、くたびれてもいないし、は保留。

 

 

いずれ、保留にしたものはメルカリとかヤフオクとかを利用するかもしれないけれど、

現時点で、明らかに自分が不要と判断したものは、ゴミとして処分

(「これまでたくさんありがとう」の言葉もかけて)。

 

確かにメルカリとかヤフオクとかに出せば売れるかもしれないけれど、

今は手間と時間をかけたくない。

売ろうと思ったら、売れるまでストックしておくことになり、

そうすると決心が揺らぐかもしれないので、

不要と判断したものが視界に入ってくるのと避けたいな。

 

そして、おそらく、保留にしたものも、しばらく経って見直すと、これも要らない、あれも要らない、になるでしょう(過去の経験から)。

 

 

一度にえいや、はできないけれど、

明らかに不要、と判断したものは、その時点で捨てる行動をとっているのが今の私。

即行動ができるようになった、これだけでも大きな進歩だ!

 

 

 

恵方巻きとロールケーキ

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時期が近づき、今年も物議を醸していますねぇ、恵方巻き。

この恵方巻きの文字を眺めて、普段う〜む、と感じていることが寄せては返す状況です。

 

スポンジケーキに生クリームや果物などをフィリングにくるっと巻いたものを

ロールケーキ

と言いますよね。

 

ここまでは、別段どおってことないのですが、

これをアルファベット表記にして、

roll cake
としているケースが、なんと多いことか!

そして、それを見るたびにモヤモヤが沸き起こるのです。

 

直訳すると、

“巻きケーキ”

 

なんじゃそりゃ。

モノを見れば通じなくはないだろうけど、不思議な感覚を引き起こします。

 

なぜなら、“roll”は動詞だと“巻く”だし、名詞だと“巻いたもの” “巻き”なので、

英語に置き換えるとすれば、

“(sponge) cake roll(スポンジケーキを巻いたもの/スポンジケーキ巻き)”

“rolled cake(巻いたケーキ)”

としないと具合が悪い。

 

実際にイギリスでこの手の巻いたケーキをどう呼ぶか、っていうと、

“swiss roll”

“roulade(語源はフランス語。巻いたもの、の意味で、名詞の“roll”と同じ)”

(一般に“(sponge) cake roll”とはあまり言わない。説明っぽく響くから、かな?)

 

 

スイス・ロールはシンプルにジャムとはクリームを巻いたタイプで、

これがチョコレート味なら、“chocolate swiss roll”になるといた具合。

そして、これを基本に、フィリングなどの特徴を打ち出したいときは、

“swiss roll with strawberry and cream(イチゴとクリームのスイスロール)”

と表現することが多い。

 

“roulade”はポッシュな感じ。

フランスパン(イギリスではフレンチスティック)ではなくバゲットと呼ぶのと感覚が近いか、と。

 

 

どうでもいい! 通じればいい!という声もあり、

日本人だけを相手にお飾りでアルファベット表記する分にはそれでいいのでしょうが

(だったらアルファベット表記をしない方が却っていいのでは、って気がします)、

私自身は、こういう表記に気を配っているお店やメーカーを見ると、信頼できるなぁ、と感じ、

ひとつの指針にしています。

 

 

 

若者の足を引っ張らないようにしたい

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今年に入って仕事でお目にかかった方たち。

若いな!

私の子供世代といってもおかしくない。

当たり前、か。自分がそういう年齢だもん。

 

私は、若い時分に

「第一声はていねいだけど、あとはタメ口」

と言われ、確かにそう、今もそう、な気がする。

これ、年上だから年下だから、っていう意識が希薄だから、ってことが一因。

 

今も年齢は関係ない、と思っていて、

特に仕事では、同じ土俵に上がっている以上、対等でないと逆に失礼、とも考えています。

ただ、相手が若くなってくると、向こうに気を使わせないようにしないとな、とも思っています。

私自身は年齢は関係ないと思っていても、向こうはどう思っているかわからないからね。

単に意見を言っているのが威圧的にならないようにしないと、と気をつけてはいます。

 

若い方々は、概して優秀な人が多いから、

へええ〜、って感心することが大半。

なるほどね〜、って思うこともよくあり、

学んでいかないとなぁ、としみじみすることばかり。

 

一応経験値から、こうしたらいいよ、という提案はできるかもしれないので、

自分が受注される立場の仕事の場合、

彼らの、こうしましょう! こうしたいんです!

の意図を汲んで、そのためにどうするか、バックアップする立場に徹し、

そして足を引っ張らないようにしないとなぁ、とつくづく感じるのです。

 

 

本当に必要か、自分に問いかけていきます

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今のやる気になっている時期を逃さずに、

捨てるものは捨て、徹底的に整理する!

なんて思いがふつふつしているからでしょうか。

こんな記事に出くわしました(↓)。

r25.jp

 

これまでの私だったら、こういう人もいるんだなぁ、だったのが、

やけにビシバシ響く。

まあ、それだけ片付けモードが高まっている、ってことでしょう。

 

トランク1つ分の持ち物で生活していた時期が私にもあったので

(それは、イギリスに住んでいたとき。結果として、だったけれど、4カ月ごとに住居を移っていたから)、

どんなものかは想像がつく。

 

不便だったか、と聞かれると、

あると便利だな、と思うものはあるにはあったものの一過性で、

なくても大丈夫、になっちゃう。

なので、さして不便を感じず、だったんだよなぁ。

今とは大違い!

 

ただ、このときの経験からか、おかなくなったものがあります。

ティッシュペーパー(箱)

・ゴミ箱

・台所の三角コーナー

 

イギリスの家庭ってティッシュペーパーがない!

でも困らない。

今、私はトイレットペーパーで代用(ほとんど使わない。ふきんで十分)、化粧するときなどはポケットティッシュ、たまに口をぬぐいたくなったらキッチンタオル。

 

ゴミ箱と台所の三角コーナーは視界に入ってくると、いかにもゴミ!なのが嫌いな自分に気づいて、おいてない。

ゴミ箱はゴミ袋を机に大きなクリップで留めています。

台所の三角コーナーはイギリスにでも見なくって、直接ゴミ箱に捨てていました。

今、私は排水口にネットを被せ、台所仕事で出る生ゴミなんかは、小さいレジ袋とか新聞紙とかに入れ、適宜ゴミ袋にポイ。

 

 

ないと困るもの、なくて平気なものは人によって違うでしょうから、

これは本当に必要か?の問いかけをしながら進めていこうと、

先の記事を読んで誓いを新たにした次第です。

 

こういう記事、冷静になって読むと、やっぱり突っ込みどころがあり、

そういう自分もいるけれど、

目の前のケオス状態に目をやると、こりゃ、いかん!なわけです。

やる!と決めたときは、自分を催眠状態にかけるというか、

ほかの余計な考えをシャットアウトしないと、突き進めないからねぇ。

こうやって書いているのも、自分への言い聞かせ、です。

 

 

 

そういうもんだから、年齢に抗わないでいたい

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ちょっとぼーっとするなぁ、風邪?

と思ったものの、鼻も喉も熱も異常なし。

 

あっ、そうか、と思いいたったのは生理中なのでした。。。

 

年齢によって、生理に伴う体調も変化してきたけれど、

生理痛は体験したことないし(まれに生理が引き起こす、ぎりぎりと絞られるような腹痛はある)、

頭痛もほぼないし(たま〜に、鈍い頭痛があるけれど、2日ともたない)、

でもおそろしく眠くなるときとおそろしく食欲過多になるときがあり、

これらもそういうもんだ、と思って、基本体が欲するようにしています。

 

体調も、ですが、精神的な変化がないのがありがたい。

妙に落ち込んだり怒りっぽくなったり涙もろくなったり。

自分では気づいていないだけかもしれないけれど、

気持ちの揺さぶりは感じない。

 

 

そろそろ、生理も終わって、更年期に入るんだろうなぁ、とここ5年ぐらい思っています。

30代半ばのある日、知り合いの方から(そのとき、その方は還暦前だったと記憶)、

「40歳前後でプチ更年期があるわよ〜。ない人もいるけど」

と言われ、体も、だけれど、精神的に、自分ではわかっているけれど、どうしようも抑えられないことが起こったら、プチ更年期なんだな、と受け止めるようにしよう、とゆるやかな覚悟をし、

「いつ来るんだろう、いつ来るんだろう」

と思っているうちに、更年期を迎える年齢になり、今度はこっちに対して、

「いつ来るんだろう、いつ来るんだろう」。

 

嫌だ、とか、怖い、とかはなくって、来るべきものが来る、そういうもんなんだろうな、って今は思っているけれど、

実際にその立場になったらどうなるのか。

ただ、こういう時期なんだ、と受け入れる心の準備はしておきたいなぁ、と

生理のたびに思うのです。

 

心の棚卸しをする時期にあるんだろうな

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仕事場をぼちぼち整理整頓していて、

そろそろ大ナタをふるいたいな〜、と思っていた矢先、

本の山から出てきたのは、Netflixでも話題の近藤麻理恵さんの著書『人生がときめく片づけの魔法』。

 

3〜4年前に、よっしゃ、やるぞ!と一発奮起し、

気合い注入のために買ってきたのでした。

 

 

あ〜、そうだったな。あのときの気持ちをもう一度、

そして、やる気になっている今に拍車をかけるためにもう一度読むか、とページをめくる。

 

数ページ読んで、ハッとしました。

これ、以前にはぼんやりとしかつかめなかったことがはっきり目の前に示された気がしました。

 

 

目の前のケオスは、自分の精神状態を映し出しているんだな。

 

あらかさまに落ち込んでる、とか、すさんでいる、とか、

そういう自覚できる精神状態ではなくって(それもあるでしょうが)、

自分でも気づかない根元の部分で。

 

具体的に、こうしましょう、ああしましょう、をやりつつ、

その先にあるのは、心の棚卸しなんだろうなぁ。

 

要/不要の判断、必要な場合はどのくらいの量が、かは人によって違う。

でも、まずは、の目安がないととりかかれない。

技術的なことは本の内容を参考に。

 

でもその先にあるのは、自分の心のあり方、

どうすればより気持ちよく日々を過ごせるか、本当にやりたいことは何なのか、

目の前に混沌とした状況があると、

自分の心の状況も見えにくくするってことなんだろうな。

 

 

ええと、書籍なり、ある程度の大きなプロジェクト真っ只中にあると、

もうね、資料やら紙やら、散らからざるを得ない。

実際、手探りでああでもないこうでもない、と手探りで混沌の中を進んでいるわけだから。

 

問題は終わったときだな。

ここで、混沌状態をほったらかしにしているから、今のケオスにいたっています、私の場合。

(なぜか、っていうと、無事発刊後も、書類仕事とかがあったりするので、つい放置している、という。。。)

 

でも、それは言い訳。

結局のところ、実はいろんな不安がケオスとなって現れているんだな。

そして、それを解決するのは自分でしかないんだな。