書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

より具体的により狭く設定していくのがいい

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アイテム作りの相談を受けまして。

いざ、やろうとしたら、なかなか思うようにいかないのがその理由だそうです。

 

「コンセプトは何ですか?」と訊くと、

「えっ、必要ですか? とにかく、おしゃれなものを作りたいんです」。

「おしゃれなものを作りたい、というのも大事です。でも、何を作りたいかが明確でないと、どう作るかを先行しても、ピンと来るものは作れませんよ」

「う〜ん、何となくですけど、こんな感じです。(かくかくしかじか)」

「なるほど。もう少し、具体的に考えてみましょうか。例えば、〇〇〇〇〇〇〇〇、こういう視点であれば、〇〇〇〇〇〇〇〇、こっちの切り口であれば、〇〇〇〇〇〇〇〇」

 

 

コンセプトという言葉は理念にも置き換えられて、

これが、作りたい、やりたい、の基盤。

これがぐらぐらしていると、どんなに美しく着飾っても空虚に映ります。

なぜなら中身がないから。

軸というか基盤というかがしっかりしたものは、一本筋が通っている、っていうのかな、ブレない。

 

このとき。ぼんやりとしたコンセプトではなく、

より具体的により細かく考えるのが肝要。

なぜかって、そうすることで、具体的なイメージがわくからなんです。

そこまで突き詰めて考えれば、後は、じゃあ、商品に落とし込むか、具現化していくだけだから。

 

 

こういうの商品に限らず、すべてそう。

プロジェクトを立ち上げるにしろ、書籍を制作するにしろ、何かを作り出すときは、

コンセプト/理念がしっかりしたものが、関わる人も理解が速いし、

届けたい人に届けやすいんですよね。

オリンピックとか万博とかはもう要らない

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2025年の大阪万博が決まったようですね。

2020年の東京オリンピックもそうだけれど、そんなにイベントが必要なの?

こういうの、いけいけどんどんの先進国がやるのは、

目標の設定と世界へのアピールって意義があるんだろうけれど、

日本はもう要らないんじゃない?

むしろ税金の無駄使いにしか思えないんだけれど。

 

マスメディアの報道も、「よかった!」「やった!」みたいなのばっかり。

オリンピックの時もそうだったよね。

そうでない意見は排除するような空気で、

もうね、これが嫌!

 

やりたきゃ勝手にやって、でも私の税金は使わないでね。

でもって、「おめでとう!」「よかった!」「やった!」を強要しないで欲しい、頼むから、

 

アートもまずはスマホアプリから

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数カ月前だったか、1年ほど前だったか、記憶が定かではないけれど、

デジタル・インタラクティブな試みがあったような。。。

いや、この告知(↓)だったっけ?

amass.jp

 

アートもまずはスマホでアクセス、になるんだなぁ。

美術館でも所蔵作品をスマホで鑑賞できるようにしているところあるもんね。

その後で実物を鑑賞、になるんだろうな。

 

ん、なるのかな?

まだ体験していないのでわからないけれど、

音楽でやっぱりライブで体験したい、ってのと同じ心理なのかな。

 

もしくは、実物展示とデジタル・インタラクティブは別、になるのかな。

必ずしも、デジタル・インタラクティブを糸口にしなくても、

むしろデジタル・インタラクティブが主流になるのかな。

 

 

美術館も与える立場から、ビジターと同じ土俵に、ってことなのかな。

「これからはオーディエンスの時代だ」と言ったのは、1990年頃のザ・ストーン・ローゼズだったな。

 

 

約20年ぶりにホステルタイプの宿に泊まった!

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先日のイギリス滞在では、さまざまな条件を考慮した結果、

ホステルにも宿泊しました(Airbnbにはこういう宿も登録されているのです)。

 

最後にこういうタイプの宿に泊まったのは2001年4月のフランス・リヨンのユースホステル

市内を見下ろせる小高い丘の中腹にあって、

当時できた(改築した?)ばかりで、最大でも4人部屋。

きれいだし、いいよ〜、とすすめられて、泊まりました。

 

確かに、このリヨンのユースホステルはよかったのですが、

ホステルは貴重品の管理に気を遣うのと、

シャワーブースが狭いので、どこにタイルや衣類をおけばいいんだよ〜、足ふきマットがない!ってのが(コツはあります)、

誰かと一緒、というよりも、私にとってはう〜む、なんですよね。

 

で、今回。

ホステルに泊まるつもりはさらさらなかったのですが、

条件を鑑みると、そのホステルがどうにも都合がいい。

はた、と年齢的に(私は1969年生まれです)こういうところに宿泊できるのも最後かもしれない、と思い、

これも経験、と宿泊するにいたりました。

 

前述のように私が(ユース)ホステルにあれこれ泊まったのは20年以上前のこと。

当時と比べると、大部屋にも関わらず部屋の中が静かだな〜、いうのが第一印象。

そうなんです、各自スマホなりタブレットなりラップトップなりを持ち込んでいるから、なんですよね〜。

なので、当然WiFiはつながり、そして電源もひとりひとつはある、というね。

 

そこのホステルはベッドの下に蓋付きの大きな箱が用意されていて、

そこに自分の持ち物を入れるようになっていました。

建物のドアは開いているか、ベルを鳴らすか、だったので、

渡されたのは、ルームキーとその箱のキー。

 

記憶がないのですが、以前ホステルに宿泊したときにルームキーってあったかなぁ。

少なくとも持ち物を入れる箱は用意されていなかったのな。

 

それと、Airbnbに登録しているからか、つまりユーザーの声が可視化しやすいからか、きれいで明るい。薄暗くない。

ヘタに安い宿に泊まると、擦り切れた絨毯になんだかじと〜としていて、カビが生えそう、、、みたいなよどんだ空気感があって、

それよりよっぽどずっといい!

 

 

とはいえ、私の懸念材料である、貴重品とシャワー問題が存在することに代わりはなく、

積極的に使おう!はないけれど、積極的に排除したいとも思わない。

思うようなところが見つからなければ、使ってもいいかな、と今は思っています。

 

私は海外に行くと、日中外を動き回るせいか、たいがい夜早く、12時前には就寝しちゃうんですよね。

なもんで目覚めるのも早い。

そこからシャワーを浴びるわけで、シャワーブースは混んでるんじゃないか、と思いきや、がら空き。

 

ビジネスで来ているような人以外は、朝遅いようで、

私が7時ごろに起き、ベッドを抜けるときだけでなく、身支度を整え出かける8時ごろでも(外にコーヒーを飲みに行くから)、ほとんどの人は就寝中。

そーだよなー、彼らは夜遅いもんな。

若いもの、夜遊んじゃうよね〜。

 

 

ホステルによって違うだろうし、相部屋になった人によっても違うだろうけど、

なかなか新鮮な体験でした。

やっぱり経験は大事ねぇ。

 

なんか最近、こういうことができるのも最後かも、と思いつつ、やっちゃうことが多く、

いざやってみれば、(本人としては)まだまだ全然いけるじゃん!ってことばっかだな。

 

 

 

 

根本は同じなんじゃないかと思う

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外国人技能実習生、移民に関するニュースがかしましい。

脱走する人の多さに象徴されるように、想像以上の人権を無視したかのような実態にただただ驚く。

 

軍隊みたい。いや、軍隊の方がもっと自由があるんじゃないか。

 

はた、と学校の日本社会に蔓延している“付和雷同”の空気は、

結局、軍隊の発想から何ら変わっていないんじゃないか、と。

上が無条件に正しい、従え、みたいなね。

 

 

無意識に避けてきたからかもしれないけれど、私はずっと抑圧のない(少ない)ところで生きてきたのだけれど、

ここ何年かは理不尽な目に合うことがぐんと増え、

もちろんそれは生きている以上、避けて通れないことなのだけれど、

ただ、ここ数年の出来事は理由がわからなかったけれど、

裸の王様/ムラ社会だから、あなたが女性だから、

と指摘してくれた人がいて、こういうことかぁ、と腑に落ちた次第。

 

ここにも根本にあるのは、程度の差こそあれ、

わけのわからない、理由にならない理不尽さの原因は同じなんじゃないか、と思う。

威嚇して、自分が上だと誇示して、優越感を得たい、みたいな、ね。

 

 

複数人数で仲よく行動するとき  

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1〜2年前だったか、スイス人/フランス人数人と行動を共にした方が、

「この人たち、誰かがやりたいことがあると、それが終わるまでみんな待っているんですよね。日本人同士だとやりたいことあっても、周りを待たせるから、とささっと済ませそうなのに」と驚いた様子で話し始め、

意識したことなかったけれど、頭の中でぼんやりと引っかかっていて、

あっ、こういうことか!と思いいたったのが、今秋のイギリス滞在で。

 

私はさして興味がない人を巻き込むのが苦手なのと、待たせるのが好きではないこともあり、

本当に興味のあることは単独行動に走るきらいがあり、

なので誰かとずっと行動をともにする、ってことはほとんどないのですが、

今秋のイギリスではローカルの友人と朝起きてから夜寝るまでずっと一緒、というシチュエーションが多く、

こういうことを言っているんだな!と深く納得したのです。

 

 

どこかに出かけるでしょ、気になったお店とかがあれば、

「入っていい」と聞いて、しばらくブラウズする。

ほかの人はどうしているか、っていうと、

興味を持てば一緒に入ってくるし、興味がなければ外で待っている。

そこには早くしろよ、みたいな態度はないんですよね。

 

待っているの、退屈じゃない?と思いきや、自分が逆の立場になると、

別にそんなことなくって、

周囲をぼんやり見渡しながらつらつらと考えごとをしたり、

一緒に待っている友人がいればおしゃべりをしたり、

新聞や本を読んだり、今ならスマホを眺めたり。

 

 

象徴的だな、と思ったのが、

友人が「今日はジャンクなファストフードのハンバーガーな気分」と言ったけれど、

私はまったく食指が動かなくって、

でもメニューにのれるものあれば、と思ったけれど、なくって、

「私の今日の気分じゃない。穀物のサラダボウルとかそんなの食べたい」って言ったら、

「じゃあ各自好きなもの買って持ち帰って食べよう」となり、

無事、それぞれが好きなものを食べた、という。

 

 

何が言いたいか、っていうと、

それぞれがそれぞれの意思や嗜好を尊重し、

それに伴う待つetcという行為は、(本人たちは意識していないだろうけど)当然のこととして受け入れている、ってこと。

逆の立場に立つと、自分が待たせるわけだけれど、

そこにも待たせている、っていう意識はないんだろうな。

もし長ければ、そろそろ退屈してきちゃった、みたいなことを言うし

咎めるわけではなく、ってね)。

 

日本人同士だと、関係性が深い場合を除いて、

待たせているんじゃないか、みたいな意識がまず働くように思うんですよ。

なので満足いくまで眺める、みたいなことはしづらいような気がします。

先のハンバーガーがいい例で、ファストフードで妥協するか、

あるいは別のもの食べたい、といったら、ワガママみたいに言われるか、

え〜、なんで?と反応されるか、が大半じゃないのかな

(同調を求められる、というか)。

 

 

みんなで仲よく、と言っても、

個人を尊重するか、場の空気を重視するか、

そのアプローチは全然違うんだなぁ、と感じた次第。

自分では気づかなかったけれど、相手によって使い分けているなぁ、私。

それは関係性にもよるけれど、国(地域)という属性によるところが大きい。

“生きがい”って必要なのかな?

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その理由を、Brexitに代表される将来への不安からなんだろうなぁ、とふんでいますが、

今週のイギリス滞在の本や雑誌を眺めていて、

“心の平静を保つ”みたいなものがより目についた印象です。

 

どストライクの、一種宗教のような本もありますが、

日常生活視点の、北欧の“ヒュッゲ”(“ヒュッゲ”はあまりにステレオタイプ、本当はこれ!みたいなのがあったような。。。)、みたいな。

ニュアンスは違えど、立ち位置としては、日本でいうとていねいな暮らしで心を満たす、といったところか。

 

今年はそこに“生きがい”も加わっていて,

そういえば数カ月前、イギリスの人気ラジオ番組でも“生きがい”の本を紹介していたな、

と思いあたり、そういうことかぁ。

の“生きがい”をテーマにした本だったと思うのだけれど、

“日本のように幸せに長生きする秘訣”と副題にあり、

一緒にいたイギリス人の友人に「ん? 幸せ? 日本は自殺率が高いよね?」と言われる始末。。。
私はただ長く生きればそれでいいのか?という疑問が常にあるので、

う〜む、と腕を組んでしまった。

 

ところで“生きがい”って必要かな?

生きている、それだけでいいんじゃないの? それだけですでに十分に価値があるんじゃないの?

毎日起きてご飯を食べて排泄して仕事をして、それで充分じゃないか、って思ってるんですけど。

 

 

ただなぁ、年齢的なものか(私は1969年生まれです)、

ここのところ、「あ〜、これがミッドライフ・クライシスってやつかぁ」ってことを見聞きするので、

うっかりしたこと、口に出せないなぁ、と感じたりもしています。