観客はそんなにバカじゃない!
2018年、ギャリー・オールドマンがアカデミー主演男優賞を獲得した『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』、
日本では、昨年2017年末公開された『否定と肯定』、
これらの日本語タイトルが、あまりにひどい!
そう感じるのは私だけでしょうか。
オリジナルタイトルはそれぞれ、
『Darkest Hour』であり、
『Denial』。
漆黒のとき
現実から目を背ける、ということ( → 歴史認識とは何か)
で、日本語タイトルよりもっともっと重い心理状態を表しています。
直訳する必要はないけれど、これらのタイトルに映画の内容が凝縮されていて、
それと比較するとあまりにお気軽じゃない?
『ヒトラーから世界を救った男』を挿入するなんて、あまりに安易で安直でひどい!
(ヒトラー=悪、(おまけに)チャーチル=善という単純さで話をくくっていいの?)
映画なので大衆娯楽消費材なのはわかるけれど、
そういう善悪やどう感じるかの押しつけって、要らない。
ありがちな謳い文句の
“○○さん大絶賛”
“全米が涙”
“感動の〜〜〜〜”
も要らない。
これって、観客をバカにしてるんじゃない?
何をどう感じるか、そんなことまで指図される覚えはないし、
観客はそこまでバカじゃない、と思うのです。
ボトムライン・ガールであること
私は自分のことを、そこまではバカじゃないんじゃないか、って思っていて、
もう少し言うと、インテレクチュアルでは決してない、
インテリジェンス? これも怪しい、
でも、オブザーヴァントである。これは間違いない。
じ〜っと見ているわけではないんだけれど、
いろんなものがさっと視界に入ってきて、
そっか〜! あれっ?って気づくっていう、ね。
お前は自分を過大評価してるからだろう、と言われればそれまでだけれど、
「あ〜、バカにされてんな〜」って感じることがあります。
あからさまに、ってことは滅多にないけれど、
ちょっとした言動に、それはほんの些細なことだったりするのだけれど、嗅ぎ取ることが多いのです。
私、オブザーヴァントだから。
バカだからバカにしてもいい、ってのは違う、って思っていて、
「あ〜、この人、バカだな〜」でとどめておけばいいだけで、
バカにされるのは、やっぱり気持ちのいいものではありません。
バカにする、ってのは見下す、ってことで、言葉を代えればマウンティングするってこと。
容姿でも、仕事の実績でも、何でもいいけれど、
この人は私より下だ、と思うと安心する、っていうね。
「あなた、何も取り柄がないじゃない」って面と向かって言われたことはあるし、
とりあえずその場を収めるために悪者にされることもしばしば(誰のせいでもないのに、認識違いやタイミングが合わないってこういうことなのに)、
前々から決めていたアポイントメントも、もっと重要なものが舞い込んで来たら、平気でそれを理由に保古にする(物は言いよう、だと思うし、だったらこっちも白いウソ、として受け止めるけれど、真っ正面から、約束したっけ? こっちの方が大事なんだよ!って言ってくるってどーなんだろう?)。
こういうの、私のことを自分より下、と思っているから、
悪びれることなく平気で言うんだよね〜。
今さら傷つく、ってことはないけれど、
こーゆー人なんだな、という私の中の認識ファイルに振り分けるだけのこと。
この人(私のことね)よりはマシ、この人よりは私の方が断然優秀、
そんなニオイをぷんぷん巻き散らかされる私は、
ボトムラインとして認識されているんだと思う。
ただね、歳をとってきて思うんだけれど、
歳上エラい、経歴が長い方がエラい、って空気が蔓延しているこの国では、
それだけで媚びへつらう、意見を言わない、ってこともあるわけで、
だとしたら、バカにされ、好き勝手なことを言われているうちは、
もしかしていいのかもしれない、なんて思ったりもするのです。
Lost in Translation(日本にいても)
大学入学と同時に上京。生まれ育った山口県(その間引っ越し6回)を離れ、
その後今まで国内外10回引っ越しをし、
移動が多い人生なので、新しい環境で過ごすことに抵抗がないのかもしれません。
旅行でも訪問先にすぐ慣れる。むしろ元に戻すのが大変だったりする。
適応能力が高い方、だと思うので、
言葉も、使える/使えない、理解できる/できないはおいておいて、耳に慣れる。
方言は語尾変化に一番表れると思うのですが、
意識したわけではないけれど、すぐに東京の言葉になりました。
その方が断然コミュニケーションがとりやすいわけだし。
ではあるのですが、苦労したこともあり、
それは仕事柄(食関連が多い)でもあるのですが、
魚の名称
築地市場で取材を何度かしたことはあるし、レストランで魚のメニューをうかがったこともある。
そのたびにヒヤヒヤしていました。
というのも、私が知っている名称と違うんですよね〜(ブリがいい例)。
一瞬、これって東京(一般的)には何て言うんだっけ?というのが頭の中をぐるぐる。
意識することなく、東京の言葉に移行したせいか、
ということは自分が使う言葉にイチイチ意識を向けていないがために、
適応していないこともあり(言葉を使う仕事をしているので自覚はしています)、
それは鼻濁音ができない、とか(意識しないとできない)、
ときどきアクセントや語彙が違う、とか。
先日、“綿あめ”を“綿菓子”と言って
「西の人だねぇ〜」と指摘されました。
驚きました。
今まで全然知らなかったよっ!
“綿あめ”という呼称は東日本が、“綿菓子”が主流だとは。
あ〜、そういうこといっぱいやっているんだろうなぁ。
いい悪いじゃなくって、どこに向けて発信するかによって日本語でも言葉や表現を使い分けているから、もっとアンテナを張らないとなぁ、と思ったのです。
本=読み物の概念なんてとっぱらちゃえ
書籍制作の仕事は、私のなかで長く携わっている仕事で、
今も、3冊の食書籍の制作指揮をしていて、
そんな中にいるとついつい引きずられてしまいがちですが、過去の感覚にとらわれないようにしています。
私はいったん世に出たものは、もうこちらの手の届かないところに行ってしまったわけで、
何があってもそういうものだ、と受け取るようにしています。
いちいち言い訳して回るわけにはいかないし。
商業出版の場合、お客さんが対価としてお金を払ってくれるので、これは完全な商品。
なので、パッケージデザインともいえる表紙のデザイン、写真、タイトルは大事。
まずは何だろう?と思ってもらわないと、手にとってすらもらえないわけで。
あるとき、取材先で、私が手がけた本が何冊も飾ってあり、
「うわ〜っ、ありがとうございます!」と伝えると、
「実は、中はあまり読んでいないんです。でもパラパラみて欲しいな、って思って、お店でインテリアとして飾るのにちょうどよくって(笑)」と。
その方は申し訳なさそうにおっしゃいましたが、
私自身は、読もうが読むまいが、買ってもらったこと、それを飾ってもらっていること(一種のPRですから)がうれしい。
そうなんです、いったん世に出たものは、買った人が好きなように使えばいい。
インテリア小物でも、重石代わりでも、なんでもいい。
小説とかの読み物は、まだ本=読み物の意味合いが強いでしょうが、
私が手がけるのは食関連の書籍が多く、
となると見せる、という要素も大きく、
ときどき引っ張り出してパラパラめくる、ユーザーの大半の方はそっちになるの、かなぁ。
近年、最初から最後まで順を追ってがっちり読むかしら?という疑問はますます強くなり、
通しでどーの、よりもページを開いたとき、または数ページでのまとまり感を高くし、
それを束ねるやり方(その上で1冊通して一貫性をもたせる、だけど)、
ちょっと違うけど、ビートルズのホワイト・アルバム(原題:ザ・ビートルズ)をお手本にする、っていうか。
一曲一曲はバラバラ、それでいてアルバムとしての完成度が高い。
それぞれの曲をバラで聞いてもよし、アルバムを通して聞いてもよし。
個々が個性が立ちながら、一貫性がある、っていう、ね
(ホワイト・アルバムは一見雑多なものを集めた感じだけれど、
それはそれで、テーマ性のあるアプローチとは違った別のまとまりがある、っていうね)。
もはや、本は読むものではなく、眺めるもの、アロマのように身近において、一瞬別の世界へ誘ってくれるものでもいいわけだし、ユーザーが自分で書き込んだり、再構築したりしたって、音楽でいうリミックス用の元ネタでもいいわけだし。
本は紙を綴じたマテリアル、ぐらいの感覚で、なるべくまっさらな状態から、書籍を作っていきたいなぁ、なんて強く思う今日この頃です。
音のない音に包まれる時間を持ちたい
今年の1〜2月は雪や吹雪に見舞われて、3月はヨーロッパの大寒波。
私は寒いのは好きじゃないけれど、
雪が降っているときの、音のしない音は好き。
まわりの音をすべて吸い取ってくれながら降り積もるようで。
テレビのない生活なので、
いつもはPCからBBCやAMラジオ、iTunesに入れている音源、YouTubeを音を流すことも。
朝起きてから寝るまで音に取り囲まれているけれど、
たま〜に音を排除したいことがあります。
雪のしんしんと降り積もるときのように。
集中したい、というよりも自分と対峙したい、ときかもしれません。
イギリスのクッカリーコースで一緒だったMP(国会議員)の方がいて、
彼は食生活をヴェジタリアンに切り替え、
食に向き合うようになり、自分でも作りたい、って思うようになって、
それがきっかけでクッカリーコースに来ていました。
その方が、毎朝5分(30分だったかな?)音を一切遮断して瞑想している、
いろんなことが俯瞰で見渡せ、同時に自分が真っ白になって、
結果、一日おだやかに過ごせる、って言っていたのを
当時はへぇ〜、ぐらいに思っていたのですが、
最近よくこの会話を交わしたことを思い出すのです。
自分と対峙する時間って大事かも。
今、私に必要、ってことなのかなぁ。
そしてそれには、音がない、ってのが絶対条件、なのかも、です。
すいすいすい〜と車を使えたら
IDカードがない日本では、
運転免許証がその役割を果たすのにもっとも便利なわけで(これって、変よねぇ)、
もう四半世紀、運転をしていない私も、
免許証はキープしているのです(おかげでゴールド免許)。
東京を離れ、車がないと不便だなぁ、と思う場面にしばしば出くわし、
ペーパードライバーコースに通おうかなぁ、と一瞬思うものの、
そう頻繁なわけではないので、
ほったらかしにしています。
それが、ここ数年では、
あともう少し、おそらく2020年頃に自動運転車が一般化するだろう、とふんでいて、
だったらそれまで待つか〜、な現状です。
っと、そうなった場合、運転免許証ってどうなるんだろう?
現行と同じでいいの、かなぁ。
もっとゆるくしてもいいんじゃないの?
ただでさえ、更新のスパンは短いし、
そもそも運転免許証を取得するのに、そこまでお金が要るの?だし。
まあ、自動運転がなかなかスムーズにいかなければ、
ウーバーがあるじゃないか!って気分ですが、
それも日本ではウダウダで、今後もこのままなのかなぁ。
タクシー?
道を知らない(当たり前のようにこっちにルートをきかれても、運転しないから知らないんですけど。。。舌打ちされても、ねぇ)、
カーナビが使えない、カード決済すら嫌がる。
ドライバーさんとの話はおもしろかったりするんだけれど、
完全の基本的なところが、はぁ?ってこと多いんですよねぇ。
ワクワクすることばかり!
ここのところの私は、基本籠って3冊の食書籍の進行にうんうん唸っているわけですが、
気持ちが盛り上がることが一気に襲い、
これがあるからず〜っとこの仕事に携わっているんだろうなぁ。
(私は、一生何かを続ける、とか強い意志、のようなものはなくって、
興味が抱けるものをやればいいし、途中で軌道修正しても、まったく別のことをやってもいい、と思っています。
なんとなく続ける、って向いていない、みたい)
1冊はデザインの大半が上がってきたこと
1冊はあらかた撮影が終わり、写真が届いたこと
1冊は骨子ができ、ご一緒するスタッフの方と具体的なアイディアを出し合っていること
最初のものは、一気にどん!ときて、うわうわうわ〜!と興奮状態。
もちろんフォーマットとして数ページはチェックしていたけれど、一度にメインのページが揃うと、圧巻!なのです。
2番目は、撮影にも立ち合っているし、その場で確認もしているけれど、
写真として形として上がってくると、いいじゃん!いいじゃん!とにやにや。
最後のものは、いよいよの幕が切って落とされ、
実際にどうしようか、あーしたい、こーしたい、と話をするのは夢が膨らむ瞬間。
書籍の制作、というのは家内制手工業、というか、
今の時代的ではないなぁ、とつくづく感じ、
アナログな要素、手間がかかることがとても多く、ひいひい言うことの連続ですが、
また〜に、こういうエクスタシーがあるわけですよ。
これ、代え難い。
代わるものに今のところ出逢ってないから、今も続けているんだろうなぁ。