やるかやらないか、それだけのことだと思う
私が6年前に東京から福岡に移ったとき、何のあてもありませんでした。
東京は今でも大好きだし、楽しいし、今も仕事の大半は東京だし、ですが、
そのとき、「あ〜、ここはもう私の住む場所じゃなくなったな」と痛烈に感じ、
そんな気持ちのまま暮らし続けるってことが考えられなかったので、
(いずれ戻るにせよ)離れる判断をくだしたのです。
じゃあ、どこに住む?
いいタイミングだから、本当は海外がよかったけれど、
そこまでの財力と気力が体力となく、
う〜ん、と迷った末、福岡に。
なんてことをいうと、
・フリーランスだから
・手に職があるから
(・英語ができるから)
って言われますが、そんなことまったく関係なく、環境を変えるってことは自分も変わるだろうから、すべてをいったん白紙に戻してもいい、って思っていたのが正直なところ。
そのときの優先順位は、住む場所の移動にあったわけで、
なかなか不況を脱出できない日本ではありますが、
アルバイトやパートはあるでしょ、いざとなればリヤカー引いて働けば少なくとも食べてはいけるでしょ、糊口をしのぐことはできるでしょ、な心境だったわけです。
ブログを、しかも2つも、毎日更新して運営しているのは、
・ライティングを仕事にしているからでしょ
って、これも、まったく違うんですよね〜。
仕事として受けて書くのとブログで書くのは全然感覚が違う。
フランス料理のシェフが毎日家でもフレンチを作るのか、
漫才師がいつも会話で漫才をしているのか、
そうじゃないよね(そういう人もいるかもしれないけれど)。
インスタグラムがいい例で、利用者の大半はプロのカメラマンじゃないのと同じこと。
いちいち訂正しないけれど、勝手な理由づけをされると心の中でささやかな抵抗があります。
(もっと言うと、そういう発言をする人の、その人のできない理由の言い訳をかぶせていること、ママあるんですよね〜)
能力とか技術とかそういうことではなくって、動機はごくごくシンプルなんだけどな〜。
卑近な例の私ですらそうであるのだから、仕事(取材)で一流の方々に接することが少なく、その経験からも、実のところトップの人たちも案外そんなもんじゃないか、って感じる。
要は、やるかやらないか、続けるか続けないか、それだけのことだと思う。
あ〜、残念! なんとも残念! 本当に残念!
先日、まさか、まさかの日本初上陸で、意気揚々とチケットをとって出向いたのは、
で、ここであったのは、マシュー・バーニーとジョナサン・ベプラーによる映画『River of Fundament』。
6時間もの映像オペラで、YCAMは音響設備がずば抜けていいので、極上の時間を過ごしたのでした。
このYCAM、映像、音楽、ダンスなどメディア・テクノロジーを用いた新しい表現を軸にした、アートコンプレックスで、1階の半分は市立図書館になっていて、本を読むもよし。
artじゃなくてartsなんだなぁ、と思ってみたり。
YCAMへはたま〜に行くことがあり、山口中央公園という広い敷地の中にあることもあり、
ここにYCAM同様、唯一無二のおもしろい飲食スペースがあるといいのに、とずっと思っていました、が。。。
『River of Fundament』でYCAMを訪問して、びっくりしたのは、スターバックスのドライブスルーができていたこと。
超がっかり!
いえね、スターバックスは何ら悪くないんですよ。
私とて、もともと田舎の子ですから、全国展開しているものが地元にも欲しい、この心情は分かる。
でも、ロンドンに住み東京に住み、私の人生において大都市での生活の時間が長くなり、
かついろんなところに住むと、視点は大きく変わる。
地方再生とか地方活性化とかいいながら、
安易に(と私の目には映る)全国で知名度のあるチェーン店を持ってくるってどうなんだろう。
どうして、そこにあるものを、でもほかの土地にはなくって、なものをもっと掘り下げようとしないんだろう。
チェーン店っていくらそこの店限定を作ったとて、基本全国どこ行っても同じ。
それって何の魅力も感じないんだけどな。
全国展開しているチェーン店お断り!ぐらいの気概をもってそれをアピールする地域があってもいいと思う。
そこならでは食材、そこでしか食べられないメニューを提供する飲食店を、それこそ自治体も力を入れてやればいいのに(でも、やるなら、変に迎合した中途半端はやるなよ!)。
うちには、○○も○○も○○もないけれど、でも△△っていうほかのどこにもない素晴らしい店があるんだ!って胸を張れるような、ね。
そもそも行き来がしやすくなっていて、店がなくても人は移動するので、どこででもありつけるものをわざわざ持って来ても、ねぇ。
もいっこ、こういう時代だよなぁ、と思ったのが、
近くにいた20代とおぼしき地元カップルが
「今、スターバックスって、顧客満足度低いんだよね〜」と詳細を話していたこと。
だからといって、どんなものか見てやろうか、といった嫌みな感じではなく、コーヒーでも飲もうか〜、という実に淡々としたものだったけれど。
そうだよねぇ、今の受け止め方ってフラットなんだと思う。
エリアが誘致したのかスターバックス自らが来たのかはわからないけれど、
情報はすでに知れ渡っていて(主にネット経由でしょう)、
今さらスターバックスをありがたがらない、んだよねぇ。
いいも悪いも可視化できちゃうからね。
だから、付和雷同的にこういうのを無条件にありがたがるって、もう今の感覚ではない気がする。
受け身じゃなくって攻めてみてよ。
このあたりの認識のズレも感じたりしたのでした。
せっかく唯一無二ともいえるアートコンプレックスがあるのに、
直近の飲食スポットがスターバックスという、どこにでもあるお店ってのは、
なんとも残念! がっかりしたこと、この上ない! あ〜あ!
大いなる矛盾。いまだにこれが目的なの?
女性誌の類を読まず、20代向けのものはなおさら
(というか、そもそもその世代は雑誌を読むのかしらん?)。
先日、百貨店のデパ地下用小冊子をめくっていてのけぞりそうになりましたよ。
“ひとり暮らしの彼に、パパッとメシ。”
ラーメンとかカレーとか若い男性が好きな(と思っているらしい)メニューの食品を紹介するためのもので、
“ほら、私って気がきくでしょ”
がアピールできる、らしい。
うわぁ〜、いつの時代の価値観なんだ?
若い男性 → ラーメン、カレーが好き
若い女性 → 料理をする&気をきかせる立場( → モテのため)
いまだにモテが大事なんですかね?
そのために気をきかせる? 料理をする?
こういうの女子力って呼ぶらしいけど、
要は、都合のいい家事能力+αってことだよね?
他人じゃなくって、自分が心地よければいいんじゃないの?
家族それぞれの立場でおみやげを選ぶ、ってコンセプトらしいけど、
ほかにも主婦(お母さん)が選ぶのは、調味料とか、
いつまで昭和のステレオタイプを引きずってんだ、って話。
こういう会社って、古い価値観の上に立つ一方で、
働く女性のために、みたいなこと平気で言うんだよね〜。
なんたる矛盾!
この大いなる矛盾は、提供する側だけでなく、受け手も同様。
モテたいがための女子力なるものに踊らされている女性は、
男性に選ばれるために家事能力+αを身につけ、それでもってパートナーを獲得するのであれば、
自分が選んだ相手が家事を手伝ってくれない!と文句を言うな、って言いたい。
(もっと言えば、パートナー選びって、そういうスペックありきじゃないよね?)
そもそも家事が好きでないのに、家事能力を身につけ、それをウリにしたら。
それの役割をずっと担わないといけないんだよ。
そんなの何の意味があるんだろう?
一時的な目的のために、相手が好みそうなものに沿うって、自分が疲れない?
でもって、こういうその場その場の情報に踊らされる人に限って、
女子力+αなるものでパートナーを探し、
次はそのパートナーが家事を手伝ってくれない、って文句言うんだよね〜。
家事能力+αを自分からアピールしておきながら、なんなんだ?
自分でまいた種じゃないのか?って話。
『半島を出よ』をきっかけに
ボリュームのある本を読むのはまとまった時間がとれるとき。
腰を落ち着けて、というよりも、移動の時間を利用することが多い。
『半島を出よ』(村上龍)は買ってはいたものの、
出だしをパラパラ読んで、時間かかりそうだな〜と思って放っておくこと数年。
昨年渡英の際に持参し、往路の飛行機から読み始め
(大韓航空を利用したので、リアル、とまではいかないけれど、より情景が見えるようでもあり)、
滞在中も移動のバスや電車の中でず〜っと読み続けたという。
個人的な感想はさておき、
上下巻で印象がまったく違い、どっひゃ〜、ではありますが、読み応え充分。
自分は何も知らないんだなぁ、ということを真っ正面から突きつけられ、
今こそ、『半島を出よ』で使われた膨大な資料から、
刊行されてから時間が経過しているので、さらに追加で
読めるものを読んでいきたい今日この頃。
『半島を出よ』には参考文献一覧が掲載されており、ありがたい。
この小説がエンタテイメント性を備えているから、手に取れたんだと思うと、
きっかけとなってくれたことに感謝!だなぁ。
昭和の歌謡曲はそんなに高尚なものだったのか
久しぶりに雑誌「東京人」を買って読む。
特集は“阿久悠と東京”。
いや、別段思い入れはないんですけどね、
ひとりの作詞家/作家を通して見る東京って切り口はおもしろいなぁ、って思って。
テレビ番組「スター誕生」の審査員であり、
ピンク・レディーの仕掛け人のひとりであり、
「瀬戸内少年野球団」(読んでも観てもないけど)であり。
いい歌詞、というか、歌詞と曲と歌唱が一体となってものすごい歌だなぁ、と呆然としたのは、
「ざんげの値打ちもない」。
でも、これリアルタイムじゃない。
吉田秋生の漫画「河よりも長くゆるやかに」(彼女の作品ではこれだけが突出して好き!)に出てきて、
なんとなく覚えていて、ある日テレビかなんかで聴いて衝撃を受けてしまった、という。。。
あと、彼の作詞家デビューとなった、モップスの「朝まで待てない」も好きだなぁ。
もっともこれは詞というよりも、曲、演奏、ボーカルがうまく融合した曲だという認識。
(もっとも、私は鈴木ヒロミツのヴォーカルがものすごく好き、ってのがあるんだけど。
“俺、うまいだろ”の暑苦しい熱唱系でなく、歌の世界に入り込む役者系でもなく、
突き放した、絶妙な距離感が持つやさしさがいい。なかなかこうは歌えない)
でつらつら読んでいて引っかかったのは
寄稿原稿のなかに「昔の歌謡曲はよかった。歌詞が素晴らしい。今のはつまらん!」みたいなのが枕詞のように導入されているものがあること。
ううう〜ん、そうですかね?
歌謡曲はよくも悪くも時代を色濃く反映させるから、
単に時代が変わった、ってことじゃないんですかね?
今の歌の歌詞は意味がわからん!って言ったって、
阿久悠の歌詞にもそーゆーのあったんじゃないのぉ?
そして、今の歌詞がわからん、ってのは、
表現形態が変わった、ってことに他ならないと思うんだけど。
でもって、今振り返るから時代を切り取った価値が浮き彫りになるわけで、
されど、ではあるけれど、たかが歌謡曲、
あぶくのように浮かんでは消える運命にあるわけで、
それをさも高尚なもののように言うのはなぁ。
確かに時代を切り取りつつ、普遍性を携えたものが今も歌い継がれているのだけど。
絵文字にしろインスタグラム(の写真表現)にしろ、独特の省略言葉にしろ、
それが今の時代の言葉もしくは言葉に類するコミュニケーション手段であり、
それを否定するってどーなのかなぁ。
今の日本語の乱れ(私はゆらぎ、と捉えていますが)をことさら声高に言う人や、
昔の歌謡曲の歌詞はよかったって嘆く人って、
自分はきちんと日本語使えます!知ってます!が根底にあり、
他者をマウンティングしているようで、あ〜って気分になる。
でもって今の時代についていけません!を公言しているようなもんじゃないの?
必ずしも理解する必要はないけど、今はこうなのね、というフラットな認識でいいんじゃないのかなぁ。
政治家や芸能人にとってSNSは仕事、じゃないの?
Brexitにしろトランプ政権にしろ、
なぜこれらが本流になったのかを検証し、じゃあどうするを検討するのが筋だと思うのだけれど、
いまだにこれらに対して、頭ごなしに否定する風潮は困ったもんだ。
こういうに賛同しているのはバカ、
普通に考えたら拒否するのが良識のあるマトモな人間のやること、
って頭で、自分がバカと思われる側に立ちたくないからでしょう、
安全地帯として、さしたる考えもなく
(どうみても自身で熟考したとは思えない、上っ面なあの感じ)、
頭ごなしにBrexit反対、トランプ政権反対の立場をふりかざす人って、なんなんですかね。
(確かにおいおい!なことは多々あるけれど、
私は正直よくわからない、だから判断するにはもっと知らないとなぁ、なのですが。
クリントンの方がある意味トランプより危険だし、
だいたいオバマって何かしましたっけ?って思っています)
で、こういう人たちって、坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い、なのか、
やることなすことすべて批判するんですよね〜。
トランプがツイッターを利用しているのは広く知られるところで、
ある日、コメンテーターだったかMCだったか、そういう立ち位置の人が、
「ツイッターやるヒマがあったら仕事しなさい!」って言っていてのけぞりそうになりましたよ。
政治家にしろ芸能人にしろ、公の立場にある人にとって、
公式のツイッターやインスタグラムやFBの投稿って立派な仕事の一環じゃないの?
自分が今現在している仕事の報告とか告知とか、これって大事なPR活動じゃないの?
テレビとかラジオとか既存のメディアにいる人が
ネットを下に見ているのがこういうところで垣間見られるんですよね〜。
でもって、トランプが短く、平易でわかりやすいテキストで投稿していることに対しても、バカ呼ばわり。
これって明らかに意識的にでしょ? トランプって相当インテリなはずだよ。
そもそも勝因のひとつが、こむずかしい言葉を使わず、誰でも理解できる言葉を選んだところにあるんじゃないの?
政治的な内容はおいておいて、私はトランプのツイッターは非常に、本当によくできていると思います。
今、何が起こっているのか、何に関心があるのか、たとえそれが目くらましだとしても、よく分かるし、なんせとってもわかりやすい言い回しなので、英語の勉強にもなる。
“To know your enemy, you must become your enemy.”って言ったのは孫子だったっけな〜。
“The opposition occupies the benches in front of you, but the enemy sits behind you.”って言ったのはチャーチルだったっけな〜。
デイヴ、よくぞ言ってくれました!
細かい部分では、私の意見と違うところはあるけれど
(日本のニュース番組のレベルが高いとは、私には到底思えない)、
本筋としては、そのとおり!なのが、
デイヴ・スペクターのこの意見(↓)。
これ、テレビ番組だけじゃないよね、
メディア全般にいえるよね。
ウェブメディアは、随分熟したとはいえ、まだまだ成長がある分野だから事情がまた違うけれど(だからこそ、玉石混淆なわけで)、
既存の出版とかまさにそうじゃん!と感じるのです。
共通しているのは、
・視聴者や読者を見ていない
・いいものを作る気概がない
・とりあえずこなす(創意工夫が見られない)
で、どこを向いているか、っていうと、
・クライアント(広告主)の顔色をうかがう ※広告が入るかどうか含めて
・すでにあるものの焼き直しをしようとする(新しいことでは広告主を説得できない、と思い込んでいる)
広告じゃあるまいし。
だったら、広告主のための仕事しなよ、
一般視聴者や読者向けじゃなくってね。
これじゃなぁ〜。
テレビ離れ、雑誌離れ、の理由はいろいろ言われているけれど、自分たちのなかにあるのは火を見るより明らかでしょ!