書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

こういうことを言える場があるのがいい

f:id:ricorice:20200514100708j:plain
 

私自身も、親も、達観している(いた)というか、どこか突き放して見ているところがあるので、ここまでシリアスではないにしても、多少なりともこういう思いをさせていたんだろーなー、というのが、これを読んで(↓)、真っ先に抱いた感想。

news.yahoo.co.jp

 

私の場合、いい大人になってなお、「こんなブサイクな人は見たことがない」と両親と私に向かって大マジメに言われたこともあるし、

容姿だけじゃなくって、「あなた、何の取り柄もないじゃない」という言葉も何度となく投げかけられたし、

性格も難あり、

と、まあ、不良物件というか、低スペックを画に描いたような、

“この人よりはマシ”を露骨に出される、ボトムライン・ガールなわけです。

 

ただ、それで苦悩したか、というと、そこまでではなくって、どこか客観視しているところがあるので、

「自分が自分であることを受け入れるしかないんだなぁ。

それに、人間関係ってスペックだけじゃなく、可視化しづらい、タイミングとか相性とかもあるからなぁ」と思っています。

 

でも、上記のような自分に対する他者の視点が、自分だけでなく、自分に近しい人(パートナーとか、(いないけど)子供とか)に向けられる可能性を考えると、躊躇もすれば動揺もする。自分のことは自分のところで完結させたい、と切望する。

なので、リンク先の記事で書かれていることは、そうだよなぁ、と頷いてしまう。

 

 

この記事を読んで、いいな、と思ったのが、

他人にとっては些細なことでも、本人にとっては大きな問題だ、と指摘していること。

「考えすぎ」という本人の思いを否定するような言葉や、「そんなことない」という毒にも薬にもならない慰めで提案していないこと。

ただ、共有といっているけれど、共有はできない。

でも、わかろうとする態度、ただただ耳を傾けてくれることで、どんなに慰められることか。

 

それと、こういう思いを吐き出せる場がある、ってのも安心させるなぁ。

こういう思いを抱いている人って、こういう思いを抱くことに自己嫌悪を抱き、負の感情のループにはまる、と思うんだよなぁ。

こういう公にしづらい思いを抱くのが自分だけじゃない、とわかるだけで、救われるってこともあるよね。

 

こういう場があることが大事なんだと思う。