書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

企画とは気づき、なんだな

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年末に企画の相談を受けまして。

 

企画をあれこれ考えることは、私の日常にすっかり組み込まれていて、

自分の生活の中の当たり前になってしまっているのですが、

こうやって質問を受けると、しかもそれが本職ではない

(本当のところは生きている以上、

こうすればいいのでは、ああすればいいのでは、という発想を持つ以上、

 誰しもが企画ということは日常的に行っているとは思うのだけれど、ここではいったんおいておきます)

気づかされることが多いなぁ、と感じます。

 

なので、今回質問に答えながら、改めて感じたことは、

・企画は気づきである

ってこと

 

 

世の中にはユニーク(日本語の“ユーモラス”ではなく、本来の英語が持つ“唯一無二”という意味の方ね)な企画ってのは確かにあるかもしれないけれど、

それよりも既存のものに今の時代の視点や別の角度からの着眼点で切り込む、とか、

軸としては同じことを言っているのだけれど対象読者を変えるとか(小学校3年生が対象のときは使う漢字に制限があり、できる限り平易な言い方にするとかね)、

ここをこうすればいいんじゃないかな、以外とここの分野をこの読者対象に紹介したものがない、ってのは、気づく、ってことなんですよね。

なので、発明ではなく、発見に近い。

そもそもの前提を疑いたいのです

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ずっとモヤモヤしていました。

ほかのサイトでは、この対応を賞賛する声のようですが。。。

www.huffingtonpost.jp

 

番組を視聴したわけではないし、そこの言葉の前後の文脈もわからないので、なんとも言えないのだけれど、深刻にしろ冗談にしろ、投稿した人の中にはずっと残っている、ということでしょう、

「あんたは幸せになれない」という母親の言葉は。

 

 

私が、記事を読んで、モヤモヤしたのは、番組の締めの博多大吉の発言ではなく、その言葉を紹介したときの反応です(これも番組を視聴したわけではないので、紹介されている文章から推し量るしかないのだけれど)。

 

私が、ちょっと絶望というか、諦めの気持ちを抱いてしまったのは、

「きっと前後のいきさつがあったんですよ」

「そんなに深く考えなくてもいいんじゃないですかねぇ」

という発言が出たことに。

 

 

なぜなら、

 

親は子供を愛するもの

 

という前提がそこにあるから。

 

果たしてそうだろうか?

それが大半としても、みんながみんなじゃないし、その程度についてはバラツキもあるんじゃないだろうか。

 

そもそもそれを(疑わずに)前提として話を進めるから、苦しみが深くなるんじゃないかな。

 

 

私自身のことを言いましょう。

 

親は、よく言われる毒親ではなかったけれど、なんせ折り合いがよくなかった。

仲がよくない、というのとは違って、愛情のアウトプットとインプットが噛み合わない、というか。

子供の時分は、保護者と被保護者という関係で、対等じゃないから、余計にね。

 

彼らは私を理解できなかっただろうし、私もそうだったと思う(それは今も同じ)。

なので、物心ついたときにはすでに、親に対して100%の全幅の信頼を寄せる、ということはなく、どこか距離があって、いざという時に彼らが全力で自分の側についてくれるなんてことは、すでに諦めていた。

 

 

初めての家出は3歳になったかならなかったかのとき。

多分、何かで親と言い合って、こんな家にいられない!と家を出て行った、ぼんやりとした記憶。

幼稚園のバッグに下着とか詰めて、でも3歳だから、頼ったのは大家さんのところだった(当時、借家に住んでいて、大家さんは近くにいた。大家さんのところに行ったことは記憶にない)。

 

ちょうど同じころ、噛み合わなさからでしょう、行く先を憂いた親に

「この子は将来、永田洋子のようになるんじゃないか」という言葉を浴びせられ(これははっきりと覚えている、一度だけではなく何度か言われた)、

当時の私は永田洋子が誰なのか、ちょうど世間を騒がせていたときでもあったから、テレビで名前が上がる人、という記憶はあったけれど、どんな人か知らなかった(永田洋子がどういう人物か知らない方は検索してください)。

永田洋子って誰?」と訊くと「そんなことも知らないの?」と半分怒ったような半分切れたような口調で、3歳の私に返した。

そこの言葉のニュアンスに、いい響きは感じられなかったので、

「ああ、彼らは私に絶望しているのだな」というのは理解できた。

 

それが予言とは思わなかったし、呪いになったかどうかはわからない。

 

ただ、なんとなく引っかかっていて、たま〜に記憶の底から浮かび上がるので、

大学のときだったか、永田洋子がどういう人か調べてみた。

 

ショック、ではなく、ああ、そうだろうな〜、と感じた。

でも、買いかぶりだな〜、とも思った。

そこまでの大物(という言い方がいいのかどうか、ではありますが)じゃないよ、私は。

 

 

違う別の人という感覚だったのだけれど、でも知らせた方がいいだろう、と生死を彷徨ったときに、退院する間際に連絡を入れた。

報告と、輸血をして無理矢理退院するので、その後2週間ほどは臥せっている状態(かろうじて、食事とトイレで起き上がるぐらい)になるのはわかっていて、食べるものの買い出しができない(ほかの家事、料理も洗濯も掃除もしなくても生きてはいける)のはマズイ状況だと。

病院にいる間は、身の回りの世話、という意味では、看護師さんがいるから安心だったけれど、退院してひとりとなるとそうはいかない。

 

最初は友人を頼った。

でも、友達には友達の生活があるし、「来れるんだったら来てもらえないか」と親に言ってみた、おねだりをほとんどしたことのない(言ってもムダだし、変に期待してがっかりしたくなかったので、そういう習性が身についてしまった)、私には珍しく。

 

「仕事があるから」と言って難色を示され(それは突然のことで、至極冷静に連絡を入れたので、生死を彷徨う事態だと説明しても、理解できていなかったんだとも思う)、「こういう人じゃない、そしてこういうことを口にする人じゃない、私も学習しないなぁ、頼んだ私がバカだった、甘えるんじゃない、私。検索は横になっていてもできるから、アウトソーシングの方法を探ればよかった」。

結局、妹を連れて、1泊でやって来た。

 

いつもギスギスしていたわけではない。

むしろ通常は表面上はおだやかだったのだけれど、ひょっとした節にこういったことが起こり、私の感情の中にかたい小さな石となって残る。

 

まあ、自分もやっているんだろうけど、何気なく発した言葉が相手の心をえぐる、ってことを。

何が、ってのはわからないけれど、そういうことをしている可能性については自覚的でありたい。

 

 

親に対して、今の私は冷たいと思う。

やさしい言葉や態度を求められているんだろうけど、それに気づくと、なんだかなぁ、って気持ちになるから。

理解し合えない、というのはこういうことかもしれないし、結局のところ、自分がされたようにしかその人に対してできないのかもしれない、私はそこまで人間ができていないからね。

 

言われた言葉は呪いではないけれど、何かの拍子に思い出す。

その度に蘇るのは、諦念。

親だから、子供だから、血の繋がりがあるから、なんでも口にしていいわけではないのだよ、だって別の人格だもの。

 

 

ええと、親だから子供だからなどの、血のつながりを疑いなく信じない方がいいんじゃないかな。

別の人格を持った人間が、たまたま親や子供などとなって集まったわけで、日々暮らすうちに愛情が増すことはおおいにあるものの、そもそも合わない、ってこともあるわけで。

毒親とまではいかないまでも、親子としての人間関係がしっくりこない人もいると思うのだ、私のように。

 

なので、親だから子供だから掛け値なしの愛情100%を前提とされると、つらい、のです。

家族、家族は仲よし、っていうけれど、それは幻想である人もたくさんいると思うのです。

生まれて初めてカプセルホテルに泊まったよ!

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ずっとサラリーマンのおじさんが利用するものってイメージだったのだけれど、2010年代に入ってからだったか、女性専用も見聞きするようになり、どんなものか使ってみたいなぁ、って思っていた。

 

そもそも、カプセルホテルがどんなものかわかっていなくって、ただただ最小必要源の、それこそカプセルタイプの個室が用意されている、っていうぼんやりとした認識。

となると荷物が大きいとむずかしいかもなぁ。

私の出張の場合、ラップトップ&資料持参、時に撮影に必要なあれもこれも、となるとたかが数日とはいえ荷物が多い。

 

先日、急遽弾丸で宿泊込みでの出張があり、このとき、半分私用のようなものだったので、いつもより荷物が少なく、そして1泊 2日と日数も少なかったので、思い切ってラップトップは持参せず、最低限の荷物で出かけることにして、

今がチャンス!とカプセルホテルを利用しました。

 

 

あっ。そっか! なるほど!

カプセルホテルってホステルじゃん!

 

大部屋に2段ベッドが並んでいて、与えられるのはそのうちのベッドのひとつ。

ベッドスペースにはテレビ(イヤホンつき)や小さな棚が据えられています。

私が泊まったのは2016年開業と新しいカプセルホテルだったからか、コンセントは2口。助かる〜。

ひとつはスマホ、もうもうひとつは私の場合デジカメ(単機能が好きなので、スマホで撮影をほとんどしない)、1口だと足りないのよね〜。

 

荷物はロッカーに入れるのですが、そこまで大きくない。

長期海外旅行で使うような25kgぐらいまでのスーツケースは入らない。

なので、外におきっぱなしになります。

 

海外のホステルと違うのは、そのカプセルホテルだけだったかもしれないけれど、土足厳禁。

靴はトレイに入れて、ロッカーに収めるのが基本で、ベッドの脇においても。

 

トイレやシャワーは公共スペースで、

私は見知らぬ人と入る大風呂が大の苦手なのですが、そこのカプセルホテルは個室シャワー。

よかった!

しかも、海外のそれとは違って、シャワーブースと体を拭くスペースが分かれていて、内側から鍵をかけられる。

女性専用だからなのか、洗面台(パウダールーム)もあって、

新しいところは水回りがいいのがいい。

そして、これも女性専用だからか、そこのカプセルホテルだけなのかはわからないけれど、シャワーブースには、シャンプー、コンディショナー、ボディソープ、アメニティは用意してあって

(私はシャンプーとコンディショナーが一体になったものは苦手)、

かつパウダールームには洗顔クリームや保湿オイル(クリームだったかな?)もあったな。

 

バスタオルと歯ブラシは無料。

ハンドタオル、スリッパ(土足厳禁なので)、パジャマは有料で、2〜300円程度だったかな。

なので、特にパジャマは持参するぐらいなら借りた方が荷物が少なくていいな〜、というのが私の所感。

 

共用で使えるキッチンやコインランドリーもあり。

大きなラウンジがあるので、そこでお茶を飲んだり、本を読んだり、スマホチェックしたり(部屋はどうにも狭いので、当たり前だけれど本当に寝るだけ)。

朝、コーヒーを飲みながら香港から来たという女性と少しおしゃべりをしたのでした。

 

こういうタイプの宿は外国人も多いからか、レセプションの女性は、チェックイン/チェックアウト時は日本語が母語でない人でした。

フレンドリーで親切だったな。

 

 

結論としては、そっか、カプセルホテルはホステルか〜、でした。

 

・荷物を広げられない

・ハンガー(コートや洋服を吊るす)が欲しい

 

のがネックだな〜。

ラップトップのデスクワークなんかはラウンジに行くか外でやればいいのだけれど、

打ち合わせの準備で書類を整理したり、撮影の用意で荷物をひっくり返したりするのには、落ち着いてできる場所がなくって不向き。

 

宿泊自体は全然あり、ですが、荷物が多いビジネスだとやっぱつらいな、です。

なんせ貴重品を持ち歩いているから、ね。

個人のものだったらいざ知らず、仕事のものは取扱注意なわけで、

何かあったときに同室の人を疑いたくないし、ね。

 

 

まっ、なにごとも経験!

とにかく、水周りがいいのと(大風呂でなく)アメニティが揃ったシャワーってのが好印象でした。

 

荷物が少なくって、寝るだけ、であれば、また使ってもいいな〜、と思っています。
そして終電に乗り遅れて、眠いけれど電車がないだけで、下手に朝まで飲んだりするぐらいなら、こういう宿を利用してちゃんと寝るようにしよう、とも。

 

 

ちなみに、今回私が利用したのは、

センチュリオン レディースホステル上野公園

www.centurion-hotel.com

(カプセルホテルで検索して探したのだけれど、なんだ、ホステルじゃないの!)

 

2000年代の7年ほど千駄木に住んでいて、このあたりもときどきぶらぶらして知っている土地ではあったけれど、こんなホステルができていたとはなぁ。

 

年齢という紋切り型のパブリックイメージに対する違和感

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現在私は50歳で、今年は51歳になるので、まあ、年齢だけをみれば立派な初老であり、

実際に更年期だし、しわとかシミとか白髪とか見た目の身体の変化もあるし、老いは確実に現れているわけだけれど、

でも気持ちはいつまで経ってもバタバタしていて、相変わらず些細なことで笑ったり喜んだり悩んだり落ち込んだりして、あんまり変わらない。

 

 

これは、私だけでなく、同じことを言っていた人もいて、

彼らや私の感覚としては、自分の中はさして変わらないのに、自分を取り囲むものが変わっている、というか。

 

 

自分が50歳になって、ますます違和感を感じるようになったのが、

もう○歳だから、○歳からの、と言った年齢によるカテゴリーのあまりにステレオタイプのひどさ。

 

人によるだろうけど、50歳って枯れてないぞ!

わかりやすいところで、ファッションとかがいきなり“品よいおばさま”や“ナチュラル系のダボ服”ばっかりになるのはなぜだ?(もしくはいきなり、おばちゃん)

色もニュアンスのある地味な色ばかりでまったく楽しくない!

 

ウェブにしろ雑誌にしろ、記事に使われているイメージ写真が、えらく枯れた感じで、

見た目こそ年齢は重ねていても、元気いっぱい、ってのが少ないのもなんだかな〜、だし、

そこでステレオタイプで描かれるのも、50歳、まだまだです、ってのもあるけれど、そこにあるのは、“50歳になったら枯れている”が前提で、それを踏まえて“そんなことないよ”っていいたいんだろうけど、、、

 

そうか〜ぁ?

 

 

50歳になっても恋愛を楽しむ(当たり前だ! そんなの死ぬまでだ!)

50歳からでも学ぶ(当たり前だ! 歳をとったからこそ、今の時代に対応できるよう勉強が必要なのだ!)

 

そもそもの前提が間違ってるよ!

 

いちいちいくつだからどーの、っているステレオタイプ切りはもう要らないんじゃない?

歳をとってもその人の本質的なところって変わらない気がするからそれをどう生かすか、そして時代にどう対応するか、それを提示するだけで十分じゃない?

これ、書籍化したいなぁ

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数年前に、それまでときどき訪問して重宝していた、情報が整理してまとめられていたサイトが突然閉鎖され、途方に暮れてしまったことがありまして。

 

そのことを受けて、直後だったか、これはとっておきたいと思っていたウェブコンテンツがあり、プリントアウトしてとっておいたものが、先日部屋の整理整頓をしていたら出てきました。

 

何年も読んでいなかったし捨てよう、と思って目を通したが最後、おもしろくってしばらく読みふけってしまいました。

 

それは、語学学習のポータルサイトアルクにあった“翻訳家が選ぶ洋書、この1冊”。

著者は翻訳家の宮脇孝雄氏。

 

選ぶ基準は、(その時点で)翻訳されていない(だったと思う)英語が原文のものを、

原文を訳すポイントや翻訳者ならではの英語の言い回しなどで気づいた点を紹介したもの。

同時にその本全体の味わいも伝えて、読書案内としてもよかったんですよね。

 

私は読み書きが苦手なので(母語である日本語においても)、英語の文献は自分の仕事に直接関係のあるものに目を通したり、ニュースサイト(BBCやイギリスの新聞や通信社のもの)などを読むのでいっぱいいっぱいではありますが、

でも、もっとうまく書きたい、のであれば、自分の中の語彙や表現の引き出しを増やす必要が感じられ、それは読む、ってことが有効なんですよね〜、私の場合。

 

それと翻訳モノの場合、訳者を通しているので、原文に目を通して、うむ、と腕組みをしてしまうことも少なくないのです。

当たり前ながら、すんなり読める文章とつっかえつっかえでなかなか骨の折れる文章とがある。

日本語でもそうですが、文体と自分との相性もあるしね。

 

私はジョージ・オーウェルが好きで、その内容から原書を読むのはなかなか手強いのではないかと思いきや、原文が平易な表現でわかりやすく、読見やすかったのに驚いた記憶があります。

誰でにもわかる言い方で深く表現する、ってのは私の目指すところでもあり、そういう意味でも、うまいなぁ、と思いながら読んだのです。

(むずかしく難解な文章は、賢そうに見せたいがための武装、と思っている)

 

母語である日本語で読むときと違って、原初の場合は、取り扱っているテーマや内容のおもしろさもさることながら、第一関門は、母語でない言語を、そこまでスムーズでない人間が読むときに、その文章を読み通すのは可能かどうか。

 

なので、 “翻訳家が選ぶ洋書、この1冊”で示してあった宮脇氏の原文サンプルはその判断基準になったのです。

 

そして、“翻訳家が選ぶ洋書、この1冊”は、そのテキスト内で概要について触れられていることに加え、かたい小説から、やわらかいもの、エッセイ、短編、時代などもさまざまで、読書案内ガイドとしてもよかったんですよね。

 

 

プリントアウトしてとっておいた“翻訳家が選ぶ洋書、この1冊”、必要そうなものだけ抜き出して保管しておこうと思ったのですが、読んでいたらやっぱりおもしろくって、それは紹介されているモノに興味が向くか向かないではなく、読み物としておもしろくって、結局1枚も捨てずに大事にしまった次第。

 

プリントアウトしたものはボリュームもあるし、本としてまとまっていたらどんなにいいか。

そう思って、サクッと検索したら、本として整理したものが出ていないじゃない!

 

これ、書籍にしたいなぁ。

そう感じた途端に、ぶわ〜っとデザイン構成のイメージもわいてきてしまったよ。

 

うん、書籍にしたいなぁ。

どこかに相談するとしますか。

 

本年もよろしくお願いします!

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あけましておめでとうございます。

新しい年となりました。

 

昨年、2019年は前半は動こうにも、どうにも足元をからめとられたような停滞期にいましたが、

夏頃から少しずつ動きが出始め、同時に体調絶不調にも陥ったものの、

そういうこともあったから、ようやく今までと違った流れが目の前にやってきて、のれるかなぁ〜、という予感でいっぱいです。なんだか抽象的な言い方ですが。

 

今年は、新しく芽生えそうなあれこれを大事に育てて具現化していく年にしたいな、と強く願っています。

これまでみたことのない風景にもたくさん出合ってワクワク満載の年にできれば。

 

引き続き、へぇ〜、なるほどね〜、といったことはこのブログを通じて綴ってもいきます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2019年の仕事を振り返ってみれば

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私は、やりたいな、と思った企画は持ち込んだりはするけれど(持ち込み、というより、どういう反応をするかみたい、ってのが先、かな)、

そこでグイグイ自分の側に引き寄せたりはしないんですよね〜。

 

仕事自体も、受け身、ってわけではないのだけれど、自分からガンガン行く、というよりも、その時点で良好な関係でやっているものは大事にし、人づてなどで新規のものは、

・高飛車な態度でない
・明らかにこちらに不利な条件じゃないもの

・興味が少しでも引っかかる

・スケジュールに問題がない

であれば、縁があるんだな〜、と思って引く受けるようにしています。

(上の2つは、も主従関係を強いられるからNG。私は仕事という土壌では、誰しも同等だと思っている)

 

 

で、今年、2019年、中盤以降顕著だったな〜、と思ったのが、

・キュレイショーン(コンシェルジュ、指南役)的な役割が増えた

・ウェブメディアへの寄稿が増えた(そこには紙媒体は、もはやない)

 

以前から見られた傾向ではあったのだけれど、これまでとの違いは

精度を求められた、ってことかな。

なんでもいい、誰でもいい、ではなくって、ね。

 

キュレイショーン(コンシェルジュ、指南役)的な仕事については、

以前は(無料で)とにかく情報くれくれ、みたいなところが散見されたけれど、

今は欲しい情報が明確で、そして提供した情報に対して、ちゃんと支払いがある。

 

ウェブメディアへの寄稿は、ただ書く、ではなく、

文字量があり(よってちゃんとしたプロとしての文字原稿が求められる)、クレジットそしてプロフィール(時に顔写真も)も入る記事になった。

 

 

情報があふれている分、特にウェブではより精査された情報へ、ということの表れですね〜。

この傾向は同じようなスタイルで来年、2020年以降も1〜2年は続く、かなぁ、ってのが私の見立てです。