感謝! 感謝! です
いわゆる営業とか売り込みとかをほとんどしたことがなくって、
それは世に出たもの(手がけた書籍だったりブログだったり)がそのまま営業ツールだから。
ただ、仕事ってひとりではできなくって、
じゃあどういう人たちを仕事をしているかっていうと、
それはこれまでのつながりのなかで広がっていったりとか、紹介だったりとか、
それまでの仕事を手がかりに探してもらって連絡がきたりとか。
なかには、最初はこちらが取材をお願いする立場だったのが一緒に仕事を、になったり。
冷静になって見ると、不思議といえば不思議。
いろんな人との出会いがあって、今があるんだなぁ、とつくづく。
感謝! 感謝! です。
今年、2018年もどうぞよろしくお願いいたします。
備忘録。さようなら、『WIRED』日本版プリント版
本作りを指揮したりウェブに関わったり。
そんな仕事をしていると、減少したとはいえ、雑誌を買うことは一般の方々より多い、と思う。
いったん仕事を離れちゃうと、雑誌って本当に買わなくなったよなぁ。
だって、つまんないんだもん!
そんななか、仕事とは関係なく、毎号ではないけれど、おもしろいなと思って買っている(一般に流通している)雑誌は、
『Transit』と『WIRED』。
どっちも創刊の頃からだから、長いつきあいだ!
2017年12月22日(金)に飛び込んできたニュース。
『WIRED』日本版プリント版休止(という名の廃止だろーなー)のお知らせ。
あれ〜っ、現行の号でそんなこと言ってたっけ?
いやいや、発刊後の急なことだったみたいね。
形あるものはいつかは終わる。
残念、という感傷はなく、あ〜、そーなんだー、って感じ
(『WIRED』日本版プリント版に限らずだけれど)。
始まり方よりも終わり方、どう終結するかが、雑誌にしろ何にしろ、その特徴が際立ちますね。
誰でも、ではなく、私を指名してもらいたい
今は嵐の前の静けさかも。
来年、2018年は、私のなかでの出版ラッシュで、
書籍のディレクションが3冊決定して、動き始めています(増えるかもしれない、ありがたいことに)。
イギリスの食研究家としての活動は、ほかでは代替のきかない自身の仕事をしたい、と始めたもので、それはそれで着実に、ではあるのだけれど(これもありがたいことです)
とはいえ、そもそもが書籍や雑誌、ウェブなどの指揮、企画、構成、執筆などの経験が長く、でもこれも、自分で作るか指名されるかの仕事をやりたい、ほかの人でもよくって、ほかの人との競争で、ではなく、これだったらあなたね!と垂直に、と試行錯誤してきたのが、ようやく現実化してきた感じ。
両者ともきっかけは、企画、構成、執筆、スタイリングetc、要は撮影とデザイン(案は私だけど)以外は私がひとりで、映画でいうる監督も主演もみたいなことをした『イギリス菓子図鑑』なんだろーなー。
2018年発刊が決定しているうち、
1冊は私から企画の持ち込み
1冊はこれまで私が手がけた書籍の実績から
1冊は監修とカメラマンの方からのご指名で
とそれぞれ理由は違えど、
何か仕事ありませんか、これできますか(できなかったらほかに当たります)みたいな、代替がきくものではなく、
提案もしくはご指名ってのがうれしいな。
書籍は特に、でき上がりがそのまま営業ツールであるわけで、そこを認められたのもうれしい。
そして、この比重を増やしていかないとなぁ、と切に感じるのです。
誰でも、ではなく、私でしか、の案件を、ね。
あっ、来年、2018年の年明けにお目見えする案件もいい感じの、そして不思議な流れでした。
まったく別件でお目にかかって話をしていたときに、本件が終わり、
その流れの半分雑談みたいになったとき、
「あっ、そーだ! こーゆーのできないかな、ってかねがね思っていて」と説明すると
「へ〜っ、おもしろい! タイミングが合えばうちでやりたい」とおっしゃってくださり、数日度、内容を整理してメール。
でもほとんど期待していなくって、ただ、実際に会議でどういう反応がされるかは知りたかったのだけれど、数カ月後、企画決定のご連絡が!
いや〜、もう1カ月遅かったら、連絡して反応をきいて、ダメならそろそろほかに持ち込むところだったので。
っと、そう考えると、自分エラい!ではなくって(もちろん企画の内容は大事なんだけど)、
それに賛同し、内容を理解し、ちゃんと会社にかけあって、最終的に通してくれる担当の方がエラい!んだよな〜。
だって発行元は私ではなく、その取り引き先の会社なわけで、
そこの社員さん、つまり私の担当の方のがんばりなしでは実現化しないわけで。
本当に、本当にありがとうございます!
書籍の3冊はいずれも東京の商業出版で、今私は住まいは東京から離れているけれど、
それがハンディになっていないのもうれしい。
いや、本当のところはやっぱり不便ではあるのだけれど、そこは
版元のご担当の方、監修の方、カメラマンさん、ライターさん達が協力してくださり、とても恵まれ、本当にありがたく思うのです。
制作指揮という立場なので、お金も含めて管理していて、
自分の交通・宿泊費は、自分のギャランティおよび自分自身の経費から、つまりプロジェクトの経費としては計上していない(トータル金額は変わらないなかでそれをすると、ほかの方のギャランティに皺寄せがいく。東京から遠方に住んでいるのは私の勝手だから)。
なので、次のステージとしては、交通・宿泊費をしっかり上乗せするからやって欲しい、と言われるように、
そう、はっきり現れるのはギャランティ含め条件なので、桁が1つ増えるように、
自分の価値を高める、自分を鍛えていく、なのです。
競争があるところは淘汰され、洗練される
今から30年前、私が高校生だったときのこと。
高校には進路相談ってものがあり、
「編集の仕事をしたいんです」と言ったら、
「だったら東京に行きなさい。その方面には明るくないし、具体的なことはいえないけれど、出版社の8割以上は東京にかたまっている。ほかのエリアではつかめるチャンスもつかめない。まずは東京に行きなさい」と。
(この数字をよく覚えているのは、そんなに東京に一極集中しているのか!と驚いたから。その後、その数字はもっと大きくなったのだけれど)
へぇ〜、そんなもんかな、と思って、それまで大学で東京に、とはまったく思っていなかったのだけれど(関西に、と考えてた)、
どのみち家を離れるのであれば一緒かぁ、ということで、東京へ。
編集の仕事をしたいなぁ(当時は、編集ということがわかっていなかったのだけれど、
音楽でいうと、ギターを演る、ヴォーカルで目立つ、ではなく、
こんないいレコードがあるのよ、みんな聞いて〜っ!!!をやりたい、ってこと)
と思っていて、それは意思としてはずっと存在したものの強い意志ってわけではなく、
大学を卒業して、いったん会社に入ったもののドロップアウトした先(当時、大企業を辞めるのはバカという認識)に編集があった、って結果なんだけど、ね。
でも、その進路指導の場で、東京へ、って言われていなければ、おそらく編集という仕事をしていなかったかもしれない。感慨深い!
ごくごく一部の大手出版社を除いて、編集って仕事は家内制手工業で、それは今も変わってなくって(これ、変えたい!)、
ということは脱落する人も多いのよね。
企画、構成、だけでなく、執筆、校正、簡単な撮影やデザイン、監修の方やスタッフさんとのやりとり、なんでもやる、そして責任もとる。
駆け出しの頃は、リアル・サヴァイバルゲームかと思ったもん(笑)。
神経が相当参っていたと思います。毎日のように、泣きながら新玉川線(現・田園都市線)に乗車していたんだよなぁ。
なんでかっていうと、誰かに何かされて、とかではなく、思うように仕事ができない自分に苛立っていた、ってことなんだけれど。
こんな情報が欲しかった! かつ売れるものを作りたい(商業出版、つまりビジネスである以上、当然)、競合もあるから書店に並んだときに、ほかではなく自分が手がけたものを選ばれたい。
ず〜〜〜〜っとこんなことの繰り返し。これは永遠の課題なんだけれど。
逆にいえば、競合があるから、こうしたらいいんじゃないか、ああしたらいいんじゃないか、って必死で考えるわけです。
選ぶのは読者で、結果として、売上げという形で淘汰されていく。
よく、大手スーパーマーケットが進出したから、地元の商店街がダメになった、って言うでしょ。
これ、全然違う!と思うんです。
もともとダメだったんだけれど、選択肢がなかったから成立していた。
それが大手スーパーマーケットという競合が出現したときに、
こっちの方がいいじゃん、ってお客さんが流れていった、お客さんが既存のものを選ばなくなった、それだけの話。
もし、本当に地元の商店街に魅力があれば、一時的にはお客さんは流れても、戻ってくると思うんですよね〜。
観光客が多い一部のエリアを除いて、スターバックスがオーストラリアから撤退したのなんか、ほんと、好例。
選ぶのはユーザー。
いくら、商店街がいいものを扱っている!とか、地元を大切に!とか言っても、それは店側の論理で、便利さとかで大手スーパーマーケットがいいと思えば、お客さんは当然そっちに流れる。
でもね、実際のところ、オーストラリアだって、何もしないで地元のカフェが選ばれたわけじゃなく、
もともとしっかりしたカフェ文化があって、それはスターバックスがマネできない、地元にどっしりと腰を下ろし、愛されているカフェが点在しているってことで、そして、そこはそこで競争があり、それぞれが切磋琢磨しているんですよねぇ。
なかには、競合があろうがなかろうが、我が道を行く、熱意を持って黙々と邁進しているとこもあるにはあるけれど、それは本当に稀少。
競争がないと、この程度でいいじゃん、とどうしても思いがちで、やっぱり慢心するのが人間だと思う。
あぐらをかいているだよね、って指摘した人がいて、まったくその通り!
競合があって初めて、いろいろ考え工夫していき、それがユーザーの反応によって淘汰され、結果、洗練されるんですよね〜。
早く日本語対応してね!
数カ月前だったかなぁ、取材でご一緒した方に、仕事が終了してすぐに言われました。
「録音しないんですね」と。
以前は、保険で録音すること多かったのですが、
取材対象が取材慣れしている人でないと、ひるまれてしまうんですよねぇ。
そう説明すると、「あ〜〜〜、わかります! そうですよね!」と。
その方も、「えてして録音が終わって初めて、おもしろい話やききたかったことを喋ってくれるんですよねぇ」。
そんなこんなで、本1冊書くとか、相手の話し言葉で綴るとか、その取材だけで文字数が2500字(400字詰め原稿用紙で6枚)を超えるとか以外は、
録音することをやっていません。
集中して話をきいて(その間、あまりメモもとらなくなったかも)、
取材直後に、重要事項を思い出しながらメモし、
構成を考える、原稿を書く、まで熟成させ、
そのタイミングになったら、熟成の結果、肝と思えることを中心に据えて、一気に骨子を作り、一晩寝かせ、
そのあと冷静に骨子を見て、ようやくメモを見直します。
すると、あっ、そうだった!という気づきやこっちの方が大事じゃない?が出てくるので、肉付けや修正をしていく、というプロセスをふんでいます。
現在、ほとんどの場合、このやり方を使っていますが、いやいややっぱり録音が必要(上記のような場合)ってこともあります。
やったことある方がご存知でしょうが、文字起こしって、大変、っていうよりものすごく時間を喰うんですよ。。。
っと、こんなニュースが!(↓)
朗報です! 早く日本語対応してくれることを願います!
こーゆーのを盗人猛々しい、って言うんだなっ!
私の場合、実際にやっていることはその内容によりそれぞれですが、
仕事の軸は“情報”です。
あるときは“企画”だったり、あるときは“構成”だったり、あるときは“アイディア”だったり、あるときは“経験値”だったり。
具体的な作業、たとえば進行管理や執筆などは、あくまでそれを肉付けするために過ぎない。
こういったものは目に見えないんですよね〜。
困ったことに、21世紀に入って20年近くも経つのに、いまだにモノこそ価値があると思っている人がいて、そういう人たちは目に見えないものはタダだと思っています。
たとえば、
いいお店があるから一緒に食事に行きましょう、と誘われる。ここのお店の予算は○○円ぐらいです、と言われる。行くと、誘ってきた人の知り合いの店で、情報をくれ、くれ、くれ、くれ攻撃をされる(なんかいいアイディアはないですか、今度、東京に行くんですけど、どういうお店に行けばいいですか、うちのお店で直したいところはどこですかetc)。
あの〜、私、こういう情報を扱っていて、そこで対価を得ているんですけど。
なんでこっちがお金払ってまで、情報を提供しなきゃなんないの?
たとえば、
自称、ディレクター(編集者)から、こういうお題目で何かやりたいんです、と連絡がくる。
こちらが企画案を出すと、こーじゃない、あーじゃない、と言い出す。
企画も方向性も示さず、出てものにあれこれ言うのは誰でもできる。
どういう言うのであれば、その分ギャランティを弾む(こっちにしてみれば方向性を変えて仕切り直しになる)。そうでないなら、よっぽど方向性が間違っていない限り裁量を任せる。出てきたものが自分が思っているものと違うからといちいちいちゃもんをつけない(思い描いているものがあれば最初から言えばいい)。
こういう人は、誌面を体裁を整え時間に間に合わせるのが、ディレクター(編集者)の仕事と思っていて、企画やアイディアが肝という頭がないから、お話にならない、日本語が通じない。
こーゆー“たかり”のような人たちとはつき合わないに限る。
大人の事情でやむなく、の場合は、これも仕事、と割り切って、やることだけやって、必要以上に関わらない。分かり合うとか理解してもらうなんて土台無理だから、いつでも逃げられるようにしておく、それだけです。
ふさわしい肩書きを模索中
自身の肩書き&プロフィールを提出する機会が立て続けにありまして。
こういう要請があると、客観的に自分の仕事を見ることができ、棚卸しができる、ので、なかなかに貴重な機会だなと痛感しています。
・イギリスの食研究家
・食の編集者、ダイレクター、ライター
・食のプランナー、アドバイザー
・情報発信サポーター
といったところで、それを媒体に応じて、ふさわしいものに出し方を変えています。
そのなかで、つくづく編集者はわかりづらく、ライターについては地位の低さを感じる今日この頃です。
私の場合は食がメインで、ただそれは、ここおいしいね!みたいなガイド系はほとんどなく、
厨房に入って技術を確認したり、経営の話をきいたりと、深く入り込むので、
相当の仕込み(類書に通す、関連店に行く、場合によっては資格をとる、学校に行く、海外視察もする、語学含め専門用語を習得する)が必要とされます。
それが別段エライとは思わないし、プロであればそういう骨格となる基盤を持つのは当然のことなのだけれど、そういう裏づけのための投資を見て見ぬ振りなのか、ないがしろにされ、
店に行きさえすれば、いや行かなくてもネットでちゃらちゃらって調べれば書けるでしょ、みたいな風潮があるんですよねぇ、なぜか制作サイドに。いや、それより先に書くのって誰でもできるじゃん!ってのもあるし。
専門的なことをわかりやすく、つっかからないように、見せる&読ませるのも仕事の一環だけれど、
だからといって、ちゃかちゃかと簡単にやっているわけではない。
制作サイドがそれを理解していないのは、なんだかなぁ、な気分に陥るのです。
そして、そつなくまとめて進行管理をすることが編集者の仕事だと思っている、自称・編集者も多いんだよなぁ。
編集者の仕事はそれが第一義じゃなく、新しい価値観や切り口を提示すること、なんだけど。
(もらった原稿のチェックをして、これ合ってる?って気づくためには、基盤なしではありえない。右から左に流すのは作業であって仕事ではない。そして、まずは企画を考えて、考えて、考え抜くのが仕事のはず、なんだけど)
読者にとってはこっちの苦労なんかどーでもいい話で、見せる必要もないけれど(知りたい人には開示していいと思うけど)、ね。
で、あまりにも編集者やライターに対する認識&地位が低いな〜、なので、こういう肩書きは使わない方がもはやいいんじゃないか、っと感じる今日この頃です。
編集会議の最新号で、シン・編集力がタイトルなのをみて、
編集と言っている時点で、まったく新しくない、これって古くない?とも感じる今日この頃です。