書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

これまでの、でもすでに崩壊している既成概念でものを見るアホらしさ

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www.nikkei.com明治安田生活福祉研究所による、アラサー世代(25〜34歳)の結婚に対する調査結果だそう。

 

あまりに突っ込みどころ満載で、この国の意識は大丈夫かいな。

 

結婚を前提の真剣な交際
→ 結婚を前提としてなくても真剣な交際をしている人たちはたくさんいると思うけど。

   昨今バッシングの嵐となっている不倫の中にも、真剣交際ってことはあると思うけど。

   結婚が必ずしも、真剣で神聖なものとは限らないと思うけど。

  (もっと言うと、真剣ならいいのか、適当でもいいんじゃないか、という問題もある。)

 

アプローチは男性からという考え方が主流
→ 別にどっちからでもいいんじゃないの。

   女性の力を、とか口角泡飛ばしているクセに、まだこーゆーこと言ってるの?

 

共働きしても構わない女性
→ 結婚したら専業主婦っていつの時代の話だ?

   (もちろん、専業主婦が一種の仕事のような人はいて、それは別)。

   共働きしたくない、専業主夫になりたい男性だっているんじゃないの?

 

ついでに付け加えると、

結婚できる 結婚できる/できない、ではなく、結婚する/しない、だから。

 

 

こういう調査は社会動向を知るために必要だと思うよ〜。

でも、設問や結果の導き方や、寸評が、あまりに前時代的で驚愕!

(真剣交際して結婚しないのは嘆かわしい、ってのが底流に見える)

 

もうさ〜、結婚制度そのものが崩壊してるんだよ〜、誰しもが通る道ではなく選択肢のひとつに過ぎなくなっちゃたんだよ〜、そのことに気づく方が先じゃない?

一夫一妻制も、一生添い遂げる(終身雇用制度みたいなもんですね)も、結婚 → 子ども

って図式も無理があるんだよ〜。

 

 

子どもにしろ老人にしろ、社会ではなく家庭で面倒見るべし!

みたいなのが根強くあって、それが正しいという意識がベースにあって、

それがために、“結婚して家庭を”のそれとはなしの意識操作を感じるのは、私だけでしょうか。

 

身近に見えて、一見手が届きそうなものが、“いい”の基準なのね

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身近なところで、手に届きそうな(でもなかなか届かない)ものを

“いい!”って思うんだなぁ。

改めて、認識。

 

先日、18歳の女性に仕事を手伝ってもらい、

ちょっと時間があいたので、そうだ!と資料を渡して、以下のことを依頼。

「いいな、って思うものにふせん立ててくれる?」

「いいですよ。あっ、でも私、外国語ダメなんです」(渡した資料が洋書だったので)

「文章は読まなくっていいの。写真だけで、考えずにぱっと見で判断してね」

「OKです!」

 

で、ふせんを立て終わり、「なぜ、いいと思ったの?」と訊き、

その答を集約したのが、

・身近に見えて、ちょっとのばせば手が届きそうな(でもなかなか届かない)ものを“いい”と思う

ってこと。

 

あからさまに日常生活とはかけ離れた、センスもお金もふんだんにまぶしてどーだ!ってものじゃないんだね。

こういうのって憧れはあるかもしれないけれど、はなから別世界なんだなぁ。

 

 

インスタグラムで活躍しているインフルエンサーって、まさにそうだもんね。

芸能人とかじゃなくって、手の届きそうな身近なことの一歩先にいる人たちをお手本にする、ってのと同じ心理だよなぁ。

 

そんな合致に、改めて開眼した思いで、ついでに質問。

「インスタやってるの?」

「自分でも投稿してみたことあるんですけど、今はやってないです。見る方専門」

「見るのは見るんだ〜」

「いちばん頻繁にチェックして情報を入手するのって、インスタですね」

 

うん、そうかぁ!

生きた声って大事ねぇ。

民泊を国際交流と捉える不思議さよ

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民泊=悪、を前提となっている節があり、

そのひとつに宿泊する外国人のマナーの悪さ、が挙げられるのですが、

じ〜っと眺めていると、マナーを説明せずして、

自分たちの常識の範疇を外れるものをマナー違反というのは何なんだろう?と首を傾げてしまいます。

 

それに日本人は礼儀正しい、という前提にもなっているけれど、

はあ、そうかぁ?

マナーに欠けた行為をしている人、

海外や国際線の中で、お願いだからこういう人は外に出さないで欲しい!と

目を覆いたくなる人を幾度となく目撃したけれど。

 

 

その一方で、民泊を推す言葉として“国際交流”ってのがあって、

マジックワードのように使われているけれど、

“国際交流”を前面に押し出されてもなぁ。

だって、利用する方は“安いから”泊まるわけで、
提供する側は“部屋があいているから” “生活の足しにしたいから”部屋を貸すわけで。

 

こういうことを言っている人たちは、

民泊、B&Bを利用したことがあるのかなぁ?

こういうの一度でも体験していれば、“国際交流”は第一義じゃない、ってわかると思うけど。
チェックインして、カギの受渡しと使い方、簡単なルールをきいたり質問したりすれば、あとはホテルなどと同様、それぞれの時間となる。

ただホテルと違って狭いし、顔を合わせる機会は通常のホテルよりは多いのは事実だけれど。

 

 

安いB&Bでは、子どもが独立してその部屋があいているから、というケースも少なくなく、

シャワーやトイレが共有だったりもする。

おばあちゃんが、シングルペアレンツがひとりで切り盛りしているところもあって、

となるとB&Bはひとりで運営しているため、

こっちのチェックアウトの時間と合わなければ、

カギは○○においておいて、とか、隣りに言っておくから預けておいて、とか、

チェックインのときも、今日は○時まで不在だから○時以降に来て、

と言われたりもする。

 

お互いのスケジュールをすり合わせて、それぞれ無理のないなかで解決策を見出すという、ね。

 

民泊におけるやりとりを国際交流を捉えるのって、

それが第一義じゃないし、なんだか大仰な感じがして、違う、って思うんだけどな。

なんだか、私が忌み嫌う “おもてなし”と呼ばれる“親切の押し売り”をしましょう!の号令をかけているようで気持ち悪い。

 

 

もちろん、夕食どこで食べるといい? とか、ここに行きたいけど、どう行けばいい?とか、は訊いたりするし、

先のチェックイン/アウトのすり合わせじゃないけれど、会話を交わしたりするけれど、

それは“国際交流”のためではなく、“お互いが気持ちよく空間を共有”するため。

B&B、民泊というように、“人の家に泊まる”には、まずは相手先のルールを確認するというね。

 

 

都合のいい解釈で、都合のいい認識が先行しているようで、うんざりする。

B&Bを利用したことない人たちに、これまたB&Bを利用したことのない人たちが踊らされているように(こういうの知っている私って、今の時代をわかっているでしょ、これからは国際交流よ!みたいな)、私の目には映って仕方ないんですけど。

 

民泊=国際交流と捉えている人は、民泊はおろか、シェアして暮らす、って体験をしたことがないんだと思う。

だから、こんな発想になるんだと思う。

10年近くぶりの邂逅となるか?

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付き合いのある会社の方から連絡が入り、

「うちのこの仕事、10年近く前になさったんですよね。がっちり携わってらしたんですよね」

 

確かに。

当時のご担当の方は、すでその会社をお辞めになって数年経っているし、

ご連絡をくださった方は詳細をご存知ないし、

でも残っていた情報からおおよその見当をつけてご連絡くださった次第。

 

「そうですよ。でも、そのとき私のキャパが足りなくって、最初の立ち上げ、骨子と要所要所ならということで、お仕事したんです」

 

 

どうも、そのプロジェクトの続き、といった感じのことをやる、かもしれない、らしい。

それが決まれば、ご担当は別の方になるけれど、

以前の経緯もあるので、まずは最初に声がけしたい、と。

 

 

こーゆーの、うれしいですねぇ。ちょっと感動。

ご連絡をくださった方はご自身の担当の仕事じゃないし、

前回のプロジェクトから10年近く経っているし、そのときのことを知っているわけではない。

なので、その会社のなかで勝手に進めてもなんらおかしくない。

そんな状況ではあるのに、まずは一報を入れてくださったのが、ね。

 

 

お願いされて、連絡したにも関わらず、うんともすんとも言ってこないのはよくあることで、

それをいちいちどうこうは思わないけれど

(うっかり、ってこともある。そういう性質の人や組織だってこともある。後者が多いかな)、

連絡を入れてもらえるのはやっぱりうれしい。

結果、仕事につながらなくてもね。

ちゃんと気に留めてもらって、気を遣ってもらっていることが、ありがたいわけです。

 

 

さて、この案件、プロジェクトとして確定して、動く、かな。

その仕事をしていたときの、さまざまなことを思い出して、ちょっと高揚感。

10年近くぶりの邂逅となり、ブラッシュアップをかけたおもしろいことができるといいなぁ。

 

どうしようもない羨望と、底沼のような嫉妬の苦しさと

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文章や構成をはじめ、編集者や彼らを擁する出版社や、社会やそもそも働くことに対する認識の描き方も、今ひとつ甘いなぁ、もう少し練った方がよかったのになぁ。

編集やダイレクション、ライティングを生業としている私はそう感じ、やや残念な読後感だったのですが、それを補ってあまり余りあるのが、人間の嫉妬や羨望というものをこんな風に正面から綴った点。

こんなの、滅多にお目にかかれないのでは。もうね、読んでて胸が押し潰されそうになる。

それだけで読む価値がある本です。

 

竹宮惠子著『少年の名はジルベール』。

私は1969年生まれですから、このタイトルのもととなった漫画『風と木の詩』をリアルタイムで読んだ人もいるのでしょうが、

私の場合、最初(小学校にあがってから)にふれて、夢中になって読んでいたのが少年漫画で、少女漫画は小学校中学年から。

少女漫画の世界には、すでに身近なリアリティを感じさせるもの、繊細な心理描写を描いたもの、私にも描けそうな絵の漫画が出てきていて、そういうのが好きで、竹宮惠子萩尾望都はまず絵になじめず、壮大なドラマに食指は動かず(同じ理由で『ベルサイユのばら』を読んだことがないし、思い入れはまったくない)。

ただ、情報としては知っていて。

 

 

先日、ラジオ番組で、この本が紹介されていて、いてもたってもいられなくなり、すぐに購入した次第。

竹宮惠子のデビューから『風と木の詩』の連載を開始するまでが内容のほとんどで、

「大泉サロン」と呼ばれた梁山泊の中心人物だった増山法恵竹宮惠子萩尾望都の関係性についても当然ふれてあります。

 

私は後追いで、30歳を過ぎて初めて萩尾望都の作品を読んだんですね(竹宮惠子の作品はいまだ読んでいない)。

どの時代の画風もやっぱり好みではないのですが、でも圧倒的にうまい。

絵もうまいければ、構成や展開も、なにより話がおもしろい。よくこんなストーリー思いつくなぁ、なわけです。

この人は漫画が好きで好きで、漫画もこの人の才能が好きで好きで、その幸せな融合なんだろうなぁと感じずにはいられない(だからこそ今も現役なんだろうなぁ)。

それを天才と呼ぶのかどうかはわからないけれど。

 

 

こういう人はひたすら自分の内に向かう、んだと思うんですよね。

他人の作品を眺めても、評価を耳にしても、

“ああ、そうね、こういうところはいいわね”

って気負いなく、淡々とありのままを受け入れるんじゃないのかなぁ、って思う。

 

でもね、フツーの人は、これやるんだ、やりたい!という天啓も受けないし、

他人の評価もおおいに気になる。

竹宮惠子だって充分に能力があった漫画家だと思うのですが、

でもほっといても勝手に体が動く、アイディアがあふれ出る、天才型じゃないんですよね。もっと理知的。もっと計算する。

 

頭が勝っているからこそ、

萩尾望都という存在とひとつ屋根の下にいて、

本能的なその仕事ぶりを目の当たりにして、文字どおり、狂いそうなほどの、想像を絶するほどの複雑な感情を抱いたんだろうなぁ。実際に心身に異常をきたしたわけだし。

そのあたりが綴られています。

そしてこれを書くのに40年もの歳月がかかった、というのが、その深さを物語っていますね。

この嫉妬や羨望むき出しの感情を辿ることこそ、この本の価値だと思います。

 

 

ゴッホゴーギャンモーツァルトサリエリ

才能あふれる人物と、同じ世界にいて、身近にいて、高い能力はあったものの(だからこそ才能を見抜く力のあったわけで)天賦の才に恵まれたわけではない人物との関係性。

そんなことに思いをはせて、深いため息をついてしまうのです。。

 

まったく違う視点からの質問に答えるとき

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普段まったく接点のない仕事をしている人たち、

もしかしたら子どもであればあるほどいいのかもしれないけれど、

その人たちと仕事関連の話をしているとき、

こっちが知らないことを質問するのと同じで、

こっちも質問を受ける。

 

お互いにとっては当たり前のことを聞き合うのだけれど、

当たり前のことという認識ゆえ、いつも自分の周辺にいる人もそれを土台の上に動いているのでそれを質問し合うことはないのだけれど、

まったく別のところにいると、それはまったく当たり前ではない。

 

質問を受けて、知らない人にわかりやすく説明する、ってむずかしいなぁ。

でも、それって自分のやっていることを客観的に見直す機会なわけで、

気づくこともたくさんあります。

一流の人は他人にやさしい

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美人が好き!

って言うと、ファミニストな方々から総スカンを喰らいそうですが、

だって本当にそうなんだもん!

 

いったんその定義はおいておいて、どうあがいても美しいものは美しいわけです。

見ていてうっとりしゃちゃうわ!ってのもあるんだけれど、

本当の、生まれもっての神がこの世に与えた美人は、

なんといってもすれていないのがいい!

彼(女)らの素直さは一緒にいて心が洗われるようです。

 

生まれつき美人にとって美しいのはあらかじめ備わっていたもので、努力目標じゃない。

すると他人と比較しないんですね〜。

よって、私の方が!ってマウンティングをしない。

ばっちりメイクして着飾っているのも美しいし、

昨日飲み過ぎで今日はすっぴんよ〜、のジャージ姿(しかもリアル。すっぴんという名の薄化粧ではない)もまた美しい、というね。

 

本当の美人かどうかを見極めるには

「いつ見てもきれいだね〜」という言葉をかけてみるといいよ。

そこで、「そんなことないですう〜」というのは美人が努力目標の人、人と比べて出し抜きたい人。

うふふ、と笑って肯定も否定もしない人は、ナチュラルボーン美人。

生まれながらの美人にとって、「きれいだね」は、「おはよう」「またね」と同じ挨拶レベルでしかないわけだから、それに対して過剰に反応したりしない。

 

 

私は仕事柄、一流、超一流の方々や、わかりやすいところでは芸能界の第一線でずっと活躍していらっしゃる方々の取材をすることがあるのですが、

プロ意識と呼べばそれまでだけれど、

そういう人たちはおしなべてやさしい。

気遣いも素晴らしいし、こちらを試すようなこともしない。

(ひと言付け加えると、それなりに下調べをしてから臨むのは当然。

 そこで初めて対等に仕事ができるわけで、

 怠慢の不勉強で行ったら追い返される、もしくは次はないと思います)

 

もちろん本当の顔はわからないし、限られた時間での、しかも仕事だから、

だけれど、これが二流三流の人、お山の大将や井の中の蛙タイプは横柄。

不要なまでの空威張りでもって、自分を誇示しようとするんだなぁ。

そして、そんな必要はまったくないのにマウンティングしてくる、というね。

 

 

美人と一流のプロフェッショナルと並列に語るには無理はあるけれど、

両者に共通しているのは、他者視点で生きていない、ってこと。

向かうのは自分の内側。

そういう人たちは他人をマウンティングしないので、親切だし同じ空間にいて心地いいよ!