ぱっと見でそれとわかるデザインの優秀さ
ある日、仕事で訪ねた会社で、仕事の話はひととおり終わり、他愛ない話をしていたときのこと。
「へぇ〜、イギリスの食の仕事もしてらっしゃるんですね。そうそう、私、ミニに乗ってるんですよ〜」
「でも、今やドイツ車ですからねぇ」
「いやいや、私のはローバーミニですよ!」
「おお〜っ、それはすばらしい! あのデザインはやっぱりそそられますねぇ」
「もう20年乗っていて、相当走っているんですが、すこぶる順調なんです!」
現在のミニはドイツのBMW傘下でミニの権利も同様。
クラシックなデザインのミニはイギリス時代のもの。
実際に乗りたいかどうかは別として、一目でミニってわかるし、このデザインにはほれぼれ。
同じくイギリス車で好きなのに
モーリスマイナートラベラーがあります。
もうね、木枠がたまらないの!
これもぱっと見でモーリスマイナートラベラーってわかる。
なぜかロンドンのノッティングヒルで遭遇することが3度あり、
思わず写真に撮ってしまう私。
私、免許は持っているけれどバリバリのゴールドだし、車に興味があるわけじゃないけれど、
これら2つはもうね、デザインが好き! 頬ずりしたいほど。
デザイナーは同じ人だったような。。。
ミニと同じく小型車のチンクェチェントとか、シトロエン2CVとかも、ぱっと見でそれとわかるいいデザインだよなぁ。
余談:イギリスはヨーロッパであり、ヨーロッパじゃない!を痛感したのが、イギリスから初めて海を渡ってヨーロッパ(フランス)に入ったとき。
街中に曲線があふれていてびっくりした! イギリスって街にあふれているデザインが直線的なの。でもフランスは丸みを帯びている、そもそも入り口であるシャルル・ド・ゴール空港がそうだしね。
車も同じだなぁ〜って感じます。
こういうのって研究はすでにされているのかもしれないけれど、目に映る線が違いそれが作り出す視覚的感覚の差に、あまりに驚いたので。
車に限らず、だけれど、デザインってなんだろう。
ぱっと見でひきつけることも大事、遠目に見てそれとわかることも大事、長く愛されることも大事、普遍的であることも大事。
私はモダン建築(ブルータルってカテゴライズされるタイプですね)が大好きなので、これらの代表的な建物を例に出すと、ル・コルビュジエのロンシャンの教会は今見ても新しい、これから先もずっと進化し続けるように感じられます、でもゴールドフィンガーのトレリックタワーは時代に追い抜かれちゃった感が否めない。
その違いって何なんだろう。
時代も変われば受け取る人も変わるから、作るときに絶対的に盛り込むことはできないけれど、やっぱり意思のあるもの、迷いのないものが強いのかなぁ、って思ったりして。
名刺を新調して1カ月以上経ちました
昨年末からとりかかり、新しい名刺ができたのが2月中旬。
かれこれ1カ月以上が経過しました。
私が名刺を渡すことがもっとも多いのは取材先。
雑誌などの短いスパンの編集やライティングに関わっているときです(書籍や連載など大きなものはスタッフが固定されて動くので、最初に挨拶するときだけですもんね)。
その場で名刺をまじまじと見て、ということはないのですが、
なんとなくちょっと間があいたときとか、ちょっと席を外されたときとか、ひととおり肝となる話が済んだときとか、
なんとなく場がほぐれたときに、名刺を見て具体的な質問をされることが俄然増えました。
どっちが取材してんだか、になるので、そこは軽く話をするに留めますが、
興味をもってもらえるっていうのはうれしいもんです。
変化球の質問を受けたりもして、こういうことが気になるんだ〜って思ってもみたり。
名刺一枚で反応って変わるんだなぁ、を実感。
アウトソーシングして客観的にやってもらってよかったよ!
で、これはある程度、私が望んだとおりですが、
へえええ〜〜〜〜〜っ!なのが、同じく編集やライティングをしている人に名刺を渡したときの反応。
いわば同じような仕事を一緒にしている方に直接会うことって、実はほとんどありません。それでもたまに「初めまして、いつもメールでは」な方々がいらっしゃいます。
20年以上この仕事をしているので当然といえば当然で、盛ってるわけではまったくないけれど(むしろ随分整理して端折ったんだけど)、実績などをみていたく恐縮されると、うううう〜〜〜ん、まいったな、という気分に陥ったりもします。
これは盲点だったな! まさかこんな反応がくるとは!
加えて「こんな仕事ですみません」って言われたけれど、“こんな仕事”と思っていれば引き受けていない、もしくは打診があった時点で交渉するわけだし、引き受けた以上そこは対等なんじゃないの、ってのが私の感覚なんだけど、な(それに“こんな仕事”って謙遜かもしれないけれど、自分の仕事をそんな風に言うのって悲しくならないのかな)。
後者のケースで名刺を渡す比率はうんと低いし、だからといってどうのはないのだけれど、こういうのってまったく想像していなかったので(想像の範疇になかった。。。)、やっぱり物事はやってみて初めてみえることがあるんだなぁ、を身をもって確認した次第です。
「いただく」と「頂く」と「戴く」と
以前、こちらの記事(↓)を書いたら、反響が大きく、ひらかなや漢字の使い分けって迷いつつ、もしくは知らずに使っている人が多いんだなぁ、と認識。
この「ください」「下さい」に通じる部分も大きいのが、今回取り上げる
「いただく」と「頂く」と「戴く」。
まずはひらがなと漢字の使い分けをみるとしましょう。
このルールは、「ください」「下さい」と同じ。
(初見&忘れた!って方はチェックしてみてね!)
ひらがなを使うのは、ほかの動詞にくっつけて尊敬・丁寧表現する言葉(補助動詞と呼びます)の場合。
・ケーキをとっていただいた
たとえば、ブッフェなどで手が塞がって、一緒にいた人が手伝ってくれたときなどに使いますね。
このルール、“補助動詞はひらがなを使う”は「いただく」も「ください」も一緒です。そしてほかの言葉の場合も、これは適応されます。
では、「頂く」と「戴く」では?
- ケーキを頂く
- ケーキを戴く
この2つ、漢字によって意味が変わります。
おわかりでしょうか。
別の言葉で言い換えましょう。
- ケーキを頂く → ケーキを食べる
- ケーキを戴く → ケーキを(ありがたく)受け取る
1の“頂く”は“食べる” “飲む” “摂る”の謙譲語です。
もうひと言付け加えると、“食べる” “飲む” “摂る”という動作に重きがおかれています。
では、2の“戴く”。
こちらは、物品や品物に関わる場合に使用されます。
わかりやすいところでいうと“いただき物”は“戴き物”となるのです。
ちなみに、「頂く」は常用漢字なので、漢字で使ってよし、とされる言葉です。
「戴く」は常用漢字外。ひらがなの方がふさわしいかな、といった言葉です。
ただし、私自身は、「いただく」と「頂く」と「戴く」はいずれも場合も、今はすべてひらがながいいのでは、と感じています。
お礼状などであれば「頂く」という漢字でいいのですが(あらたまった、かしこまったぐらいでちょうどいいので)、これが雑誌やウェブで一般化した言葉として登場すると一気にかた〜い文面になっちゃうんですよね。
(ただ、“食べる” “飲む” “摂る”を(そこまで恭しくする必要のないものにまで)“いただく”とする現象には、私自身は違和感があります。いちいち「させていただく」(↓)と言うのに通じるものを感じます)
なので、一応のルールをふまえつつ、その場にふさわしい言葉の使い方をすればいいのではないでしょうか。
新聞で一番おもしろいのは書評
新聞を定期的にとらなくなったのは、イギリスから帰国した2001年。
ネットでニュースが拾えるようになったし、それでもときどきは駅の売店やコンビニで買ったりしていました。
それが、今では、たま〜にしか買わなくなって、出張先のホテルや帰省したときに読むぐらいです。
いつだったか、新聞社の記者の方が、「母体の新聞社がなくなったらライターぐらいにしかなれない」と冗談まじりにおっしゃったことがあって、ライターという職業を随分となめた発言だなぁと思ったものです。
なめた、というよりもライターという職業に対する大きな誤解。
新聞の記事は、起こったできごとを伝えることが軸です。5W2Hを押さえることが最重要。
しかし、同じ紙媒体でも雑誌や書籍の場合は、“読者の興味を想起させる”、つまり“読ませる”ことがより重要です。
そのために取材をし(私の感覚だと1伝えるために10情報を得る)、調べものをしたり、とにかく手間がかかります。
ライターの仕事の書く作業は全体の3〜5%じゃないでしょうか。
大半は調査に費やされ、ほかにも校正ややりとりなどの作業が発生します。
今、新聞を読んでいて一番おもしろいのは書評。
自分が興味がない分野を知ることができ、本のテーマに対しての興味もあるけれど、それよりも書評を書いている人がプロの書き手だからじゃないか、って思うのです。
本によっては、評論の対象となった本そのものを読むよりも書評の方がいいんじゃないかって気もします。
スタンスが違うから当然ですが、前述したように新聞記者の書き方とは明らかに違う。
ニュース自体のピックアップはネットの方が断然便利。
じゃあ、新聞で有利なことって?
抜本的な改革をしないのであれば(私自身は一度今のシステムは、流通含め解体すればいいと思っています)、何気なく目にしたものを読ませる力(これが書評ですね)、こういうのがもっと重きをおくのがいいんじゃないかな。
きれいが過ぎると、スキがないと、どっと疲れる
うちにはテレビをおいていません。
なのでテレビを観るのは、ホテルだったり(出張がそれなりにあるので)、誰かの家だったり。
ホテルだとそう感じないけれど、人ん家でテレビを観ると、地デジに移行して画面が大きくなったこともあるんだろうけど、なんか疲れる。
これ、画面のオキさだけじゃなくって、画面がきれいなことも関連しているような気もします。
某百貨店。私にはスキがなさすぎて、行くとどっと疲れる。
某雑誌。有益な情報満載なんだけど、眺めているとどっと疲れる。
いずれも優秀なんですよ。
いいものを作ろうとし、それが実現化したのに、受ける側の、少なくとも私としては、遊びがないというのかなぁ、息苦しくなっちゃうんです。
先日、私が名刺を作ったとき、今ウェブサイトを制作中で、そこで繰り返し言っているのが、
「デザインし過ぎないで!」。
多少ださくても(作ってもらった名刺がださいわけじゃないですよ!)、わかりやすさを優先して欲しい。
(それと実質的には同じだけれど、ダメな部分も開示して構わない、と。)
一昨年秋、イギリスに行ったとき、大型スーパーマーケットで
フリースペースを設けているのに気づきました。
以前は売り場だったところにソファを設置。
店内のカフェで買ったドリンクを持ち込んでもいいし、
買い物をしたスナックを食べてもいい。
それだけでなく、おそらく外から持ち込んでお咎めなしでしょう。
特にきれいにしているわけでなく、とりあえずソファがある、ぐらいなもんで。
別段、居心地いいわけじゃないし、長居しようとは思わないけど、
ちょっと買ったものを整理したり、スマホチェックしたり、どうにも喉が渇いて飲み物を、なんてときは、変にこじゃれたところじゃなく、こういうところがむしろちょうどいいのです。
一億総デザイン、ステキな憧れの暮らし、みたいなものが素晴らしい!とされる風潮があるけれど、それって本当に本音かな?
実際のところは、多少のスキや遊びがあった方が人間って落ち着くんじゃないかなぁ。
逆に言えば、将来的にはわからないけど、このスキや遊びの加減を見極めるのが人間の仕事なのかなぁ、って気もしますのよ、私。
私がブログを続けていることを本気でほめてくれる人たち
このブログのほかに、ライフワークであるイギリスの食についてのブログを運営しており、毎日両方のブログに記事を投稿しています。
1日最低2つは記事をアップしている、ってことです。
これ、気づいた方は感心なさいます(えへへ)。
そのなかで心底感嘆される方々がいらっしゃいます(と、本人は思っている(笑))。
その方達は、自身が書くことに携わっている方々。
編集者だったりライターだったり、といった人たちです。
なぜって。
一般の方々は大きく勘違いをしていらっしゃいますが、
ライターは書くこととそれに付随する技術を売ることを生業としているわけで、
書くことが好き、というのとは違う。
そもそも好きなことを書くわけでも書けるわけでもなく、
・40〜50代の食べることが好きな男性向け
・20代後半のプチプライスでかわいい食べ物が好きな女性向け
・これから料理人になりたい若者向け
といった具合に、同じ店を取材して同じメニューを書く場合も、その対象によって書き方がまったく変わる。
そう、求められていることを文章で表現するの仕事なんです。
ブログを綴る、というのは、とても自由な場です。
自分でテーマを決めていいし、好きなように書いていい。
仕事で書くことをしていると、こういう自由なところにいくと、どうしていいのかわからない、というのが実情です。
いつも制限のあるなかで書いているからね。
自分の自由な時間を使ってまで書きたくない、ってこともあるし。
なので、仕事で書くこととブログで書くことはまったく違うスタンスです。
文面も違うえば、内容も違う。
もちろん、私が運営している2つのブログはそれぞれ
- (ハレばかりではなく)地に足のついた今の日常のイギリスの食情報を伝えたい
・メディアにいる視点をからめて、伝えるためのtipを届けたい(情報発信のサポートをしていて共通して聞かれることとか)
という思いありきなのですが、
同時に私自身の書く訓練をしているのです。
ライティングにしろ編集にしろダイレクションにしろ裏方の仕事です。
でも、ネットメディアは自身をちゃんと表に出すってことも大事。
それを痛感しているので、ブログは私だけの毎日道場です。
ライティングに関わる仕事をしている人たちが、私がブログを運営しているのを心底ほめてくれるのは、こういうことなんですよね〜。
私は苦労とか努力とかとは思わないけれど、試行錯誤をしてうんうんうなっていることもちゃんとわかってくれる(それを見せるつもりも見せているつもりもないけれど、彼らはやっぱわかるよねぇ)。
まあ、何より認められるってのはうれしいもんです!
このブログのほかに、ライフワークであるイギリスの食についてのブログを運営しており、毎日両方のブログに記事を投稿しています。
1日最低2つは記事をアップしている、ってことです。
これ、気づいた方は感心なさいます(えへへ)。
そのなかで心底感嘆される方々がいらっしゃいます(と、本人は思っている(笑))。
その方達は、自身が書くことに携わっている方々。
ライターだったり編集者だったり、といった人たちです。
なぜって。
一般の方々は大きく勘違いをしていらっしゃいますが、
ライターは書くこととそれに付随する技術を売ることを生業としているわけで、
書くことが好き、というのとは違う。
そもそも好きなことを書くわけでも書けるわけでもなく、
・40〜50代の食べることが好きな男性向け
・20代後半のプチプライスでかわいい食べ物が好きな女性向け
・これから料理人になりたい若者向け
といった具合に、同じ店を取材して同じメニューを書く場合も、その対象によって書き方がまったく変わる。
そう、求められていることを文章で表現するの仕事なんです。
ブログを綴る、というのは、とても自由な場です。
自分でテーマを決めていいし、好きなように書いていい。
仕事で書くことをしていると、こういう自由なところにいくと、どうしていいのかわからない、というのが実情です。
いつも制限のあるなかで書いているからね。
自分の自由な時間を使ってまで書きたくない、ってこともあるし。
なので、仕事で書くこととブログで書くことはまったく違うスタンスです。
文面も違うえば、内容も違う。
もちろん、私が運営している2つのブログはそれぞれ
- (ハレばかりではなく)地に足のついた今の日常のイギリスの食情報を伝えたい
・メディアにいる視点をからめて、伝えるためのtipを届けたい(情報発信のサポートをしていて共通して聞かれることとか)
という思いありきなのですが、
同時に私自身の書く訓練をしているのです。
ライティングにしろ編集にしろダイレクションにしろ裏方の仕事です。
でも、ネットメディアは自身をちゃんと表に出すってことも大事。
それを痛感しているので、ブログは私だけの毎日道場です。
ライティングに関わる仕事をしている人たちが、私がブログを運営しているのを心底ほめてくれるのは、こういうことなんですよね〜。
私は苦労とか努力とかとは思わないけれど、試行錯誤をしてうんうんうなっていることもちゃんとわかってくれる(それを見せるつもりも見せているつもりもないけれど、彼らはやっぱわかるよねぇ)。
まあ、何より認められるってのはうれしいもんです!