こういうことを言える場があるのがいい
私自身も、親も、達観している(いた)というか、どこか突き放して見ているところがあるので、ここまでシリアスではないにしても、多少なりともこういう思いをさせていたんだろーなー、というのが、これを読んで(↓)、真っ先に抱いた感想。
私の場合、いい大人になってなお、「こんなブサイクな人は見たことがない」と両親と私に向かって大マジメに言われたこともあるし、
容姿だけじゃなくって、「あなた、何の取り柄もないじゃない」という言葉も何度となく投げかけられたし、
性格も難あり、
と、まあ、不良物件というか、低スペックを画に描いたような、
“この人よりはマシ”を露骨に出される、ボトムライン・ガールなわけです。
ただ、それで苦悩したか、というと、そこまでではなくって、どこか客観視しているところがあるので、
「自分が自分であることを受け入れるしかないんだなぁ。
それに、人間関係ってスペックだけじゃなく、可視化しづらい、タイミングとか相性とかもあるからなぁ」と思っています。
でも、上記のような自分に対する他者の視点が、自分だけでなく、自分に近しい人(パートナーとか、(いないけど)子供とか)に向けられる可能性を考えると、躊躇もすれば動揺もする。自分のことは自分のところで完結させたい、と切望する。
なので、リンク先の記事で書かれていることは、そうだよなぁ、と頷いてしまう。
この記事を読んで、いいな、と思ったのが、
他人にとっては些細なことでも、本人にとっては大きな問題だ、と指摘していること。
「考えすぎ」という本人の思いを否定するような言葉や、「そんなことない」という毒にも薬にもならない慰めで提案していないこと。
ただ、共有といっているけれど、共有はできない。
でも、わかろうとする態度、ただただ耳を傾けてくれることで、どんなに慰められることか。
それと、こういう思いを吐き出せる場がある、ってのも安心させるなぁ。
こういう思いを抱いている人って、こういう思いを抱くことに自己嫌悪を抱き、負の感情のループにはまる、と思うんだよなぁ。
こういう公にしづらい思いを抱くのが自分だけじゃない、とわかるだけで、救われるってこともあるよね。
こういう場があることが大事なんだと思う。