書くこと、編むこと、伝えること

編集者、ダイレクター、ライター、情報発信サポーター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

A Day in the Life: 2011年3月11日(金)

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その当時、私は東京は文京区目白台に住んでいました。と言ってもピンと来ない方も多いかと思うのですが、山手線内にあり、近くには日本女子大学田中角栄邸、椿山荘、和敬塾がある、静かな邸宅街です。

最寄駅は有楽町線護国寺駅。この日、私は午前中、東大病院で定期検診の予約があり、一般的には護国寺駅からいったん池袋に出て丸ノ内線に乗り換えて本郷三丁目駅で降りるのでしょうが、有楽町線丸ノ内線は寄り添うように走っていて、なんだか来た道を戻る感じが嫌で、護国寺駅を通り過ぎ、ちょっと長く歩いて茗荷谷駅から丸ノ内線に乗る、ということをしていました。

定期検診が早く終わったら、五反田に行きたいところがあったのでちょっと寄ろうと思いました。その五反田もきちんとした格好で行く必要がなかったので、歩くし、病院だし、で、スニーカーとジーンズ、ノーメイクという非常にラフな出で立ちで家を後にしました。

定期検診は早く終わり、じゃあ、五反田に行こう、と東大病院からJR御茶ノ水駅に歩いて出ることに。あ〜、こんなところにうどん屋さんできたんだ〜、と、目についた、開店してまだそんなに経っていないうどん屋さんでお昼を食べ、近くのオガワ洋菓子店に寄り、春だもんね、と思いながら、イチゴシャンデを買い、もぐもぐ食べながら駅へ。


五反田の用事を済ませ、駅に向かい、五反田駅の直前で信号待ちをしているときに、ぐにゃんと揺れたような気がしました。貧血でぐらっとするときのような直接的なものではなく、包み込むようなぼやっとした大きな歪みでした。その数年前、私は出血過多の大貧血で緊急入院しました。その後もしばらくの間、ときどきふらっとすることがありました。
幾度となく体験した貧血のときの感じ方とは何かが違います。
一体、自分が揺れているのか周りが揺れているのか。

でも、周囲は何もなかったかのように日常が続いています。車は普通に走り、人々も普通に歩いています。
JRの五反田駅の改札をくぐりホームに出てしばらくすると、駅から撤去するようにアナウンスがありました。

そのときに、さっきの歪みが地震だと知りました。日本は地震が多いから、と言っていた外国人の友人を思い出し、地震で駅から出るよう言われちゃった、とメール。こんな経験をしたことがなかったので、そのことをシェアしたかった、ただそれだけの気持ちでした。


五反田駅近くのエクセルシオール・カフェでしばらく待機することにしました。
ここでもいつもとなんら変わらない日常が流れていました。待ち合わせの人、仕事をしている人、おだやかなGBMの中、コーヒーをすすっています。
時折、窓の外を見やると電線が揺れています。体感としてはない。でも、電線の揺れは余震だと思えたので、あ〜、これはしばらくは電車は動かないな、と確信しました。

はっと、この日が金曜日であることを思い出し、あっ、18時回ると会社勤めの人たちの帰宅時間が始まるからタクシーがつかまらなくなっちゃう、とエクセルシオール・カフェを出たのは17時ごろでした。


駅の反対側のバス乗り場やタクシー乗り場はすでに長い行列でした。
タクシーを待つ行列に並ぶこと30分以上。でもタクシーは一向に来る気配がありません。来たところで一体いつ自分の番になることやら。
これは歩いた方が早いな、暗くなって寒くなる前に帰ろう、と踏んでと歩き出しました。今日はスニーカーにジーンズで本当によかった、と思いながら。

五反田あたりの地理は詳しくありません。ただ、ざっくりと思い描くと、五反田から目白台まではひたすら北上すればいいということは分かります。
多分直線で10kmぐらい、でも歩く道だとプラスα、ということは迷わなかったら3〜4時間かな、まあ、迷ったところで今日中には帰れるだろう。

私は、文京区の前に世田谷に住んでいた期間が長く、その界隈は戦争時に爆撃を受けていないので街が自然発生的に大きくなったので、車だと一方通行が多いし、路地は入り組んで行き止まりになるところも多いし、を体験していたので、住宅街に入り込まず、大きな道を辿ることにしました。
そうすれば、途中途中で地図も出ているし、現在地も確認できます。

歩きながら、携帯で実家に電話をしました。地震みたいよ、交通機関マヒしてるみたいだから、歩いて帰ってるの、と。その後、一度電話してるからいいやと思ったものの、何度か電話をしました。でも、つながりませんでした。
サラリーマンやOLの方に途中、道を訊かれたりもしました。

夕方ですから、そろそろお腹がすいてきます。そういえばローソンのプレミアム ロールケーキってまだ食べてないから、いい機会だから食べてみようかな、と思い(一世を風靡してしばらく経ったころだったと思います)、寄ってみたけれど、ありませんでした。

ふと、大きな道路沿いって高いビルが多いよね、そこを歩いて帰っているのが災いして、ここで大きな地震が起こったら、イチコロだなと思い、であれば、最後の晩餐にせっかくだからどこかでとびきりおいしいものでも食べよう、という気持ちになりました。
麻布十番あたりを歩いているときでした。しかし、でも、その日の私はファインダイニングに立ち寄るにはあまりにラフ過ぎました。お店に悪いなと思っておとなしく帰ることにしました。食べてくつろいだら、歩いて帰るのが一気に億劫になる気もしたのです。


途中、ちょうど半分ぐらい歩いた神宮外苑あたりで、ものすごい人数の人が歩いている姿を見下ろす形で見かけました。うわぁ、こんなにたくさんの人が歩いているよ!と写真を撮ろうかと思いました。
でも、何かに、私の中の何かに憚られ、写真を撮るのはやめました。別段殺伐とした雰囲気があったわけではありません。そこにあったのは今日は仕方ないな、歩くとするか、ぐらいの空気感でした。

ようやく早稲田鶴巻町に出て来ました。もうこっちのものです。あとはよく知っている界隈で、この道で合ってるかなどと考えることなく、スムーズに帰れます。
まだ閉園していないのをいいことに、それが近道とわかっていたので椿山荘の庭園を横切り、ラフな格好で申し訳ないと心の中で思いながら建物をくぐり抜け、自宅に戻ったときは21時頃でした。
後日、地図を確認したら、ほぼ最短距離を歩いて帰ったことが分かりました。


まだ夜は寒く、さて、引き込みタイプのガスヒーターを点けようとしたら、点きません。引っ越してきた時に、災害時に自動停止装置が働くと東京ガスの方が言っていたことを思い出し、元栓を開け、暖房を入れました。

床においていた雑誌10冊ほどが雪崩を起こしていました。台所のオープン棚にあったティーポットが床に落ちて割れていた以外は被害はありませんでした。
冷蔵庫の上にオーブントースターをおいていて、その上に卵のパックをおいていました。その卵のパックは落ちて、冷蔵庫と壁の間に挟まれていました。驚いたことにひとつも割れていませんでした。
ふと森茉莉さんがなにかのエッセイで、卵を搬送している車が事故があったけれど、卵が無事だった、ということを書かれていたのを思い出し、卵って本当に不思議、生命の神秘だなぁ、と思ったりしました。


当時、私は月刊の食雑誌の外部編集スタッフもやっていて、その仕事がその月もこれからいよいよエンジンがかかるというときでした。デザイナーさんと進捗などを連絡し合ったときは(向こうもまだ事務所にいらしていた)、地震でしたね、今歩いて戻ったところです、ところで、○○の件ですが、とえらく淡々としたものでした。

ひととおり、やることが終わって、FBにアクセスしたら、外国人の友達からメッセージがいくつも入っています。
当時私は、FBを外国人の友達とのやりとりのためのツールとして使っていて(日本人の友達はほとんどいませんでした)、彼らがメッセージで、ツナミがツナミが、とよこしています。
津波? そりゃ津波も起こるだろうけど、地震じゃなくって?と不思議に感じました。

そんな中、映像を送ってくれた人もいてそれを観て愕然としました。慌ててテレビを点けました。
ようやくこの日の午後、一体何が起こったのか。なぜ彼らが津波と言ったのか、なぜ歩いて帰っているときに携帯がつながらなかったのかを知りました。

 

この後、あるときまで、4年前の2011年3月11日(金)の記憶が五反田から始まっていて、午前中の記憶と分断されていました。同じ日なのにまったく違う日の記憶として存在していました。

ずっと何をどう書いたらいいのか皆目見当がつかず、それ以前に書くということに考えがいたっていませんでした。
別段何かを言いたいわけではありません。記憶が風化する前に、トータルとして1日としてつながった2011年3月11日の記憶が歪曲する前に、東京に住んでいたひとりの人間の記録として残しておこうと思った、ただそれだけです。
不謹慎なことや不適切なことも綴っているかもしれません。でも、これが私が体験した正直なところの2011年3月11日(金)です。


改めて、亡くなられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に、心よりお見舞い申し上げます。