書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

今の自分の生活のあり方を基準にする

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“おかたし”真っ只中の私。

今週手放した、おもなものは以下のとおりです。

 

・テンガロンハット 1個

・バッグ 1個

・ブルゾン 1着

ティーポット(大) 1個

・マグカップ/蕎麦猪口/グラス 6個

・電動調理器具 1個

・プリンタートナー 数個

 

プリンターは酷使するのでインクのストックを備えているのですが、

昨年買い換え、新しいプリンターとはインクが異なるので使えなくなり、

でも未開封でもったいないし、誰か必要な人が、と思ったけれど、

今の私にはヤフオクやメルカリに出す手間や時間が惜しい!

このままではいつまで経っても行き場のない状態が続くな、と確信し、さようなら!

 

 

上記リストにおいて、経年寿命となったバッグ以外は、

このプリンターインクもそうかもしれませんが、

今の自分の生活のあり方で必要ないもの。

 

テンガロンハットやブルゾンは気に入っていたけれど、

出番がなかったんですよね〜。

食器類も、大きなティーポットはイベントなどでは確かに重宝したけれど

(私はイギリスの食研究家として講座やイベントに登壇し、お茶をふるまうことがあるんです)、

日常生活では要らないんですよね。

滅多に使わないのであればレンタルという手もあるし、

使用頻度が高まって常備しておいた方がいい、とこの先なったとしても、

自分の嗜好も変わっているだろうから、

必要が生じれば、そのときにいいと思えるものを入手すればいい。

 

 

なぜ手放すことになったのか、考えながら“おかたし”をすると、

自分のライフスタイルが客観的に見ることができますね〜。しみじみ。

帰宅してすぐ、お湯を沸かす間にできることをする

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こういうことは直接“おかたし”には関係ないかもしれないのですが、

意識をすっと立たせる、という意味でね。

 

私は帰宅したら、お茶(紅茶だったり、コーヒーだったり、ハーブティーだったり)を飲みます。

夏場も、温かいものを飲む傾向にあります。

 

で、そのとき、って当然お湯を沸かすんですよね。

これまでは、帰宅し、お湯を沸かし、その間、ぐで〜、としていて、

確かにひと呼吸は必要なんだけれど、

お湯が沸くのを待つ数分の間に、

・化粧を落とす

・(着替えて)上着をハンガーにかける

・掃除機をかける

なんてことができるんじゃあ、と思ったわけです。

 

これまでは、化粧を落とすのは寝る前、

上着を脱ぎ散らかす、ってことはなかったけれど、なんとなく邪魔にならないところにおく、

私はよっぽどの横がない限り、毎日掃除機をかけるので、出かける前にかけていない場合はそのままになってしまったり日が暮れて掃除機をかけ始めたり(日が暮れてからの掃除ごとは好きじゃない)、

だったんです。

 

ふと思い、お湯を沸かす数分でできることをやって見たら、

オン/オフの切り替えもパンッとでき、

日がとっぷり暮れて、あ〜、これもあれもやってないままだ〜、って自分にうんざりすることもない。

 

帰宅したら疲労困憊していることもあるので、毎回は無理だろうけど、

こういうこその積み重ねで、自分が変わっていくんだろうなぁ、と感じています。

 

 

 

自分が受けた行為はループする

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初老といっていい年齢ですから、別段驚きはしないのですが、干支がふた回りと数年、25歳以上も若い方とお仕事でご一緒しました。

若いから、年上だから、という意識が希薄なものの、ちょっと時間があったので、他愛ない話をすると、若い方の感じ方とかいいな、おもしろいな、へぇ〜、そうなんだ!に満ちていて、刺激を受けるわけです。

 

そして、かわいいな、ではなくって、何というか、一生懸命さが心を打つ、っていうのかな。

がんばってやっているから、それを壊さず、バックアップする恰好で、一緒に仕事をしていきたい、と。

 

 

年齢を重ねた自分が、親子ほども年が違う若い方たちにこんな感情を持つとは思っていなくって、だからといって、妙な敵対心や距離感を抱くとも考えてはいなかった。

自分がどういう態度に出るか、何も予想していなかったんですね。

 

近頃の若いモンは!みたいな声を聞くと、そんなことない!と反駁したくなる。

なんでかな?って考えてみたら、自分がうんと若いときに、今の自分と同じような態度で周囲の方々に接してもらっていたことに気づきました。

 

それは、時代の空気感や職種にも関係しているのでしょうが、一言でいうと、

“のびのび”

させてもらっていたんですね。

 

要領は悪かったし、行き届かないことだらけだったけれど、

一生懸命やっているし、いっちょ協力してやるか、

みたいな心境で接してもらっていたんだと思います。いろんな方に協力していただき、かわいがってもらったのは実感としてあるし。

 

 

で、ふと、人間って自分が受けたことを他人にも施すんだなぁ、と思ったわけです。

そうよね、だってそれが前例、経験として自分の中に組み込まれちゃうわけだから。

自分がされて嫌なことは他人にしない、と思うときは、意識しているから、そういう行動に移すわけだけれど、そうでない無意識の行為というのは、こうやってループされるものなんですね。

 

なんだか、大発見をした気分です。

 

 

やればやるほど、自分に足りないものが見えてくる

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普段書かないタイプの文字原稿を8000字(ペラ40枚、400字詰め原稿用紙で20枚)書いたら、

原稿に向かう姿勢を通常に戻すに時間がかかりました(↓)。

ricorice.hatenablog.com

 

 

いつもとまったく違う原稿を書いた後、通常引き受けているタイプの原稿を書いていて、

何か違うと感じつつ、自分では解決できなくなり、担当の方の助力を仰いだ次第。

 

そうして、ようやく通常の感覚を取り戻したものの、

次に着手した文字原稿で、またもやうんうん唸る始末。

 

このときは、さすがに自分で解決できたのですが、

書いて寝かし、大きく書き直し、また寝かし、大きく書き直し。

ようやく書き上げて、お渡しして、OKが出たのでホッ。

 

 

商業ライターとして文章を書くときは、自分が書きたいことを書くわけではまったくなく、

企画の意図を汲み、それに沿って、自分を媒介として、文章で伝える。

これが、すんなりできることもあれば、大いに悩むこともある。

 

でも、一晩寝かせると、つまり時間を置いて客観的に見直すと、自分で気づくんですよね。

何ができていて、何が足りないか。

 

気づいたからといって、これだ!という言葉を探し当てて、文章で的確に表現するのは容易ではなく、

10年前、20年前の方がスラスラ書けていた気すらします。

先日、通常態勢に戻れなかったこともあり、

やればやるほど、改めて、伝わる文章を書くむずかしさを痛感します。

 

 

郵便物はその日のうちに処理する

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少しずつ、少しずつ、“おかたし”を進めている日々です。

 

モノは自分が買い物するだけでなく、舞い込んで来たりもします。

プレゼントがそうだし、お試しもそうですね。

 

郵便物も、舞い込んでくるモノのひとつ。

これをその日のうちに内容を確認して処理するようにしました、意識的に。

 

まずは開封

返事が必要なものはその日のうちに返信を綴り、投函できるようにする

(至急でないない限り、翌日出かけるときにポストに入れればいいので)。

読み終わって不要なものはその都度捨てる。

 

いかにも当たり前のことでしょう。

この当たり前のことができていなかったんです、私。

 

正確には、できていた時期もあったんです。

そのときは、やっぱり部屋も(自分の心も)きちんとしていました。

 

10年前、5年前に比べても郵便物は減少しているし、

何が届いたかも察しがつく。

だからといって、量が少ないからといって、放置しておいていいわけではない。

少ないからこそ、その日のうちに整理する。

当たり前のことを取り戻します。

なぜなのか、理由を突き詰めないと次に進めない

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書籍や雑誌を作ったり、ウェブに関わったり、していると、

自分が指揮を執るときは「なぜ、これをするのか。そのためにこういうやり方をとりたい」と伝えるようにしていますし、

受ける立場の場合は、意図を汲み取るようにしています。

 

なぜ、これをするのか、理由がないと、どう動いていいのかわからないからね。

 

 

“おかたし”を粛々と進めていて、

少しずつ大きなものを手放せるようになりました。

 

たとえば、こんなの。

・靴 2足

・マフラー 1本

・本20冊

・雑誌+小冊子 20冊

 

そこで気づいたこと。

ただ捨てるだけではなく、なぜゴミになったのか、その理由を考えて、

自分の頭と体に刻まないと、

ただ捨てるだけでは、作業に過ぎないから、

きっとリバウンドしちゃうな、と思ったのです。

 

靴やマフラーは明らかに経年によるくたびれ(今までありがとう! お疲れさま!)

本や雑誌は、とりあえず現時点で私が保留にしているのは、資料性が高いものと思いが詰まったもの。

 

では、本や雑誌では何を捨てたか、というと、

・ちょっとした隙間時間用に読んだ本や雑誌(再読はしない)

・トラベルガイドやタウンガイドなど、情報が古くなったもの

(資料性を帯びるものもあるけれど、明らかに情報が消耗されたもの)

 

前者は、いわばひと時の娯楽用。今後は読んだ端から処分を心がけるか、Kindleに移行するかにします。

後者は、明らかに情報を得た時点で要らなくなる。

実際に香港のトラベルガイドを捨てたのですが、何年かに一度の割合でしか行かない場合は、そのたびごとに情報を刷新しないと意味がない。

そもそも手に取った時点で過去の情報であって、最新じゃないわけだし。

地図や地下鉄の路線図なんかも、マニア心をくすぐりますが、やっぱり変わっていくものなので(上海の地下鉄の増え方がいい例)、さようなら、です。

 

ということは、まだまだ続く“おかたし”の中で

これらのものは躊躇なく捨てていい基準にもなるのです。

 

 

理由づけを仕事には求めていたけれど、

自分自身の行動に対してはぼんやりしていたんだなぁ、と改めて。

理由のないところには、意思は築けないし貫けないからなぁ。

 

 

通常態勢に戻すのに手間どった件

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いつもとはまったく違う、

もしかしたらこれまで書いたことのないタイプ(テーマも媒体も)の

文字原稿を8000字(ペラ40枚、400字詰め原稿用紙で20枚)書いたら、

脱稿後もその空気感がまとわりついて、

通常かかっているタイプの文字原稿にとりかかると、なんだかしっくり来なくって、

なんか違うなぁ、

と思いつつ、翌朝読み返し(私は至急でない限り、一晩寝かせます)、整理しても、

なんか違う、

がぬぐいきれず。

 

自信がなかったので、まずは見てもらおうと、締め切りより早く渡したら、

やっぱり、ぼんやりしている、という指摘を受け、

一言助言をもらって、

あっ、そうそう!

となり、ようやくいつもの感覚を取り戻せました。

 

 

マルチタスクで仕事をしていて、それが苦じゃなく、

むしろその方が、ひとつのことにがんじがらめにならなくって、

やることが多くても精神的にはラクで、

切り替えもパッパッとできるのに、

今回は、まったく慣れないことの、比較的ボリュームがあったからか、

なかなかリセットできなかった。。。

いつもはスイスイなことに、スムーズに戻れなかった。。。

 

こういうことってあるのねぇ。

当たり前のことにびっくりするほどすっと戻れなくって、ご一緒に仕事をしている方の助言がありがたかった!

新人に戻った気分。

こういう矜持を正す経験は、たまにはあっていいのかもしれない。