書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

アウトプットすると自分の思っていることが客観的に見える

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あ〜、またやっちゃった!

打ち合わせで、出版社のご担当の方、アートダイレクターさんと制作指揮の私とで、

企画の基盤となる共通認識のすり合わせの際のこと。

肝心なことはあらかじめ文書で回していたので、

その上でチェックしておくことや、実際に目で見て認識しておくことのための時間だったので、

時間はさほどかからない。

しかし、例によって、あてのない企画の話とか情報交換で盛り上がる、という、ね。

 

一見、ムダに見えるかも、ですが、私にとってこういう時間も重要。

こういうときって普段ぼんやり考えていて、まだまとまりのないものも言葉にして発し、

そのことで見えてくるものがあるんです。

 

アウトプットすることで客観視できるようになる、というのかな。

あ〜、こうじゃない、

これ、こうした方がいいな

とか。

 

さらに会話のキャッチボールをすることで、より肉付けをされる、というか。

それまで点だったものが線になったりモノクロだったのものがカラーになったり、って感触。

自分を媒介として、アウトプット、フィードバック、インプット、を繰り返し、制度が高まっていく。

 

こういう時間、しょっちゅうあるわけではないけれど、私にとって刺激いっぱい、至福の時間なのです。

人の評価にのっかってはしゃぐのって気持ち悪い

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1990年半ば、私が影響を受けた雑誌に「ウォールペーパー/Wallpaper」があります。

デザイン&建築を軸にしたライフスタイル誌っていうのかな、それまで縦軸だったのを横軸で切り取る視点がおもしろく、グラフィックデザインをやっている人に譲った号もあるけれど、何冊かはまだ手元に残しています。

なかでも97年だったか、に発刊された別冊の北欧特集は、今も私のバイブル。

 

ロンドンでこの「ウォールペーパー」を立ち上げたのがカナダ人ジャーナリストのタイラー・ブリュレ/Tyler Brûlé。

彼が「ウォールペーパー」を売却してから、さらに編集長の立場を離れてからは雑誌のカラーが替わり、とびついて眺める、ことはなくなってしまったけれど。

 

モノクル/Monocle」は、そのタイラー・ブリュレが2006年に立ち上げた雑誌。

「ウォールペーパー」よりも、もっと今のリアル(&理想的な)生活のシーンを切り取った感じ。

世界中にネットワークをはっていて、旅行、というより、暮らしている気分になれる。

これ、ときどき眺めています。

ちょっとがちゃがちゃしているなぁ、表紙が目立つけど私好みでまったくない、のだけれど。

 

世界の住みやすい都市ランキング、っていろんな媒体がやってるでしょ。

モノクル」はアジアの都市からのエントリー率が高く、

日本の某市は、○位に選ばれた!ということを毎回誇らしく言っているけれど、

モノクル」を読んだ、どころか、見たことある、どころか、どういう媒体か、雑誌名自体を知っている人がたくさんいるとは到底思えない!

だって、私の周りのメディアにいるですら、「モノクル」を知らない、見たことない、って人多いんだもん。

いわんや一般の人はだし、経済や行政に特化した内容でもないので、その手の人が眺めているとも思えない。

 

 

う〜ん、なんで無条件にひれ伏し、何の疑いも持たずに、何の確認もせずに諸手をあげて喜ぶんだろう?

そもそも、それって他人の評価じゃん!

 

世界遺産登録も、ノーベル賞も、グラミー賞も、アカデミー賞も、オリンピックも、

日本人が(なかには国籍はすでに日本でない人もいるのに)選ばれて大はしゃぎするのって、必要以上に過剰に報道される、さらにうれしいを強要されるのって何だかなぁ。

それって他人の評価にのっかてるだけじゃん!

 

もっというと、欧米のお墨付きがそんなにエライ!のか?

そんのにはしゃぐのって、自分で自分を評価する能力のないノータリンです!って言っているようなもの、って思わないのかな?

さらにその評価をするのが、アジアやアフリカだったら、ここまで喜ぶのかな?

 

 

東京に、フランスの冷凍食品を扱うスーパーマーケットができ、

さすがフランス!おいしい!みたいな声ばかりが聞こえるのも気持ち悪い。

日本の冷凍食品もレベル高いよ、イギリスの高級スーパーマーケットのレディミールも負けてはいない。

でも、これは間違いなく“グルメの国”を標榜しているフランス発だから、成立するんだよね〜。

フランスというだけでひれ伏すあの感じ。

私はフランスでマズいものに何度も遭遇したぞ!

 

 

メディアとか権威とかステレオタイプの提供するものにのっかるのは安心かもしれないけれど、

それって必ずしも個人の嗜好に一致するとは限らない!のだよ。

自分の好みって、ほかでもない自分で評価するよりほかにない、のだよ。

 

私は夏休みの宿題をとっとと終わらせる子どもだったので

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夏休みまっただ中。

そんななか、夏休みの最後の日に宿題に追われる子ども、ってのがステレオタイプで、

あるべき子どもらしい姿みたいな概念が底辺にはありますが、

果たしてそうかな?

(そもそも、子ども=無垢、ってのはまったく違うと思う。

 そんな単純じゃなく、子ども時代の私は、いろんな感情が深いところでとぐろを巻いていた記憶。

 なので、年齢を重ねるほど、素直になり、人生がラクになっている気がする)

 

私自身はとっとと宿題を終わらせる子どもで、

何だったら宿題をもらったその日に済ませたかった。

 

エリアや時代によって違うけれど、私が小学生のときは、

毎日(この毎日ってのがポイント!)何ページかをこなし、

夏休みの間に1冊終了させる“夏休み帳”ってのがあって、

これを一気に終わらせたかったのだけれど、登校日ってのがあり、

その日に進捗状況を学校に見せるんですね。

なので、登校日までの分しか進められなかったのが、すごいストレスでした。

 

というのも、毎日コツコツやることが“夏休み帳”の目的のひとつなわけで。

ある年、登校日に “夏休み帳”をすべて終わらせていたクラスメイトがいて、

それを担任がほめたんですね。

で、私は心の中で「ねえ、あなたは、本心はともかく、毎日コツコツをすることを教える立場でしょ、その態度は違うんじゃない」と眺めていたという。

 

 

勉強が好き、というよりも、

目の前にあることにすぐにとりかかりたい、どんな問題がのってんだろうって好奇心が強かったんだと思う。

なので、学年があがって、教科書をもらって帰るとき、

国語の教科書とかは本という認識だったから、早く読みたくって家まで待てない、ってタイプ。

 

もうひとつ、目の前のことをとっととやっていた理由は、こづかれたくないから。

あれこれうるさいことを言われたり構われたりするのが、うっとうしくって仕方なかった。

やることやってれば文句ないでしょ、ってなもんで。

学校の算数の時間が顕著で、問題をはやく解きさえすれば、やることやっている限りは、咎められなかったので、さっさと済ませて、自分の世界にどっぷり浸かり思考を巡らせていました。

(今にして思えば、哲学につながる数というものにすっかり心を奪われていて、0(ゼロ)とはなにか、有か無か、3とはどういう数字なのか、みたいなことをぐるぐるぐるぐる考えていたのです)

 

まあ、いろんな子どもがいるもんです。私はしんどい子どもだったなぁ。

ダイバーシティを言うのであれば、子どもにもいろんなタイプがいるってことで。

 

久しぶりの人とチームを組むのも刺激的!

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自分が制作指揮(映画でいうと監督に該当)をとるとき、

責任も負うけれど、裁量を任され、ダイレクション&オーガナイズするのは醍醐味。

デザインを誰にお願いしようか、カメラマンさんどうしようか、といった企画に沿った(かつ、いい意味で裏切ってくれるとうれしい)適任者を考えるのもそのひとつ。

 

今かかっている書籍の仕事で、う〜ん、どうしようかな〜、と考えていて、

あっ、そうだ!と久しぶりの方に打診しました。

承諾くださり、ほっとひと安心。

 

 

いつものメンバーで気心もしれたなかでやるよさもあるのでしょうが、

どうしても馴れ合いになりがちなのが苦手。

自分も変われば人も変わる、同じ方向でいつも動いてるわけじゃないしなぁ。

 

私はそのときの内容でチーム編成を変えたいタイプ。

まず企画に適した人ってのが第一で、

新しい人と組むのは、先が読めない、イチから説明しなければいけない分、

手間がかかることも多いけれど、

自分にはなかった新鮮な感覚にふれられるのは、楽しい。

 

久しぶりの人、ってのは、また違った緊張感があります。

数年会わなかった間に、お互いに経験してきたことが違うので、

へええええ〜ってなるのも、また予測できないおもしろさです。

 

そして、そういう人が集まって、ひとつの企画に向かってチームプレイをするってのは、相乗効果も期待できるってもんで。

それぞれの確固とした個人プレイがあるのが前提だけど、その上でプロ同士がチームを組むのって、やっぱり刺激的!

これ、逆も真なり。

というのも、チームとして力を発揮できるのも指揮官の仕事で、力量が問われるわけなんだけど、私は自分が裁量を持っているときはうまくいかないわけがない、と思ってる“根拠のないおめでたさ”があるなんだなぁ(笑)。

 

自著『イギリス菓子図鑑』、台湾で翻訳本の出版が決定!

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こういうの、他人事だと思っていました。

たしかに、21世紀に入り、出版社に出入りしていると、

台湾、韓国、中国での翻訳版を出す、という話はちょこちょこ耳にしていました。

 

そうだよね、日本だけを対象にいると、まず日本語人口が減少しているわけで、

その対策のひとつとしては当然であり必然か。

実際に、特に台湾では日本の雑誌や本をたくさん、こんなにも!ってぐらい見るし、

24時間営業の誠品書店ってわくわく満載の本屋コンプレックスもあるし!

http://www.eslitecorp.com/

 

 

そして、それが自分の身に起こるとはねぇ。
先日、自著『イギリス菓子図鑑』を台湾で翻訳本を出してもいいですか?との連絡が!

条件を確認し、二つ返事でOK。

 

うれしい!ってのもあるんだけど、狐につままれたような不思議な感覚の中にいます。

私は商業出版である以上、ひとりでもたくさんの人の手元に届けたい!ってのがあり、

世界に出してもに恥じない内容だと自負していますから、

こういうのはガンガンお願いしたい!

 

取り急ぎ要件だけのやりとりになったのですが、

私がどうしても知りたいのは、なぜ『イギリス菓子図鑑』が台湾語版の出版対象に選ばれたのか、その理由。

いくら台湾が親日の国とはいえ、人口は2350万人ちょいと、日本の1/5以下。

日本で出版されているすべての書物が台湾で、ってわけではなく、

セレクトした/されたものが、なわけで、それはリサーチをした上で、ですもんねぇ。

 

今度、出版社のご担当の方にお目にかかったときにきいてみよう。

思いもよらない意外な理由があったのかもしれません。

制作スタッフは生産者と同じ。どんどん顔出しすべし!

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自分の、自分だけの仕事を作りたいなぁ、そのためにはまずは自分の持っている情報をアウトプット、発信することだなぁ。

できるところから着手しようと、ブログの毎日更新をするようにしたのが2012年春。

それはイギリスの“現在進行形”の“リアル”な食情報(当ブログよりずっと長くやっています)。

ricorice.exblog.jp

それももちろん一部ではあるけれど、ノスタルジックなおほほほ〜な世界ばかりが取り沙汰されるのは、違う!と痛切に感じていたから。

 

当初、アクセス数とかあまり気にしていませんでした。

とにかく、今、自分ができることやろう!と。着地点も、どこをどう歩いているのかさえ見えていなかった。

でも、あるとき、情報がひとり歩きするようになったな、と感じるようになり、

それは月刊PV(アクセス数)が万単位になってから。

以降、アクセス解析も意識するようになりました。

 

情報がひとり歩き、というのは、

私という人間を知っていて訪問する、ではなく、最初から情報そのものにたどり着いて読まれているなという感覚。

それまで、お客さんひとりひとりの顔が見える小さなライブハウスだったのが、渋谷公会堂とか中野サンプラザとか東京厚生年金会館とかの規模の大きさのハコ(う〜ん、例えが古いなぁ)になった、というか。

すると誰が来ているのか、ひとりひとりをチェックできない、そういうことです。

 

 

そのとき、ひとつの決断をくだしました。

責任の所在を明らかにするのがいい。こういう人間が運営しています、というのをはっきり見せた方がいい。

そうすることが信頼につながり、自分もいい加減なことができなくなる。

 

それまでず〜っと裏方でやってきて、数多くの一流の方々を取材する機会にも恵まれ、

そのため表に出る意識はさらさらなく、自分はまだまだだなぁ、な気持ちだったけれど、

やるからには腹をくくらないと、次の段階、それが何かは分からなかったけれど、に移れないな、と思ったのです。

 

なので、そのときあてはなかったけれど、プロフィール写真を撮影し、

ブログをしていることを名刺やメールの自分の連絡先にも入れるようにしました。

 

その読みが正しかったのか、そういうタイミングだったのか。

ブログをきっかけに、ヴァージン アトランティック航空のコラム連載(テーマは“イングリッシュワイン”。日本撤退に伴い、サイトは閉鎖されましたが)や自著『イギリス菓子図鑑』の出版、講師などさまざまな機会を得ることができ、今に続いています。

 

 

今、情報がこんなに氾濫しているでしょう。

それを眺めていて、内容もだけれど、誰が発信しているのかがこれからより重要になるな、と感じています。

野菜とか工芸品とかに作り手が紹介されている、あれと一緒です。

誰がどんな思いで携わっているのか。

 

誰が、を手っ取り早く知らせる手段は顔出し。

クレジット表記よりも、格段に有効です。

受け手はへ〜っ、こういう人がやってるんだ〜、になるし、

伝える側は顔が出る以上きちんとしたものを、って意識になる(はず)だし。

 

裏方だからってうかうかしていられない。恥ずかしいとか言っていられない。

責任を負う、ってそういうことなのかなぁ、と自分の経験をふまえた上で、そう考えるのです。

 

大手新聞はいつまでブランケット判(大判)を使うのか

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何で今まで疑問に思わなかったんだろう?

確かに21世紀に入ってから新聞の定期購読はやめたんだけどさ。

 

それは、若い女性の「雑誌は重くてかさばるからイヤ」という発言をみたとき。

そりゃそうだよなぁ。

 

私も海外や日本でも知らない土地に行く場合、

トラベルガイドを持ち歩かなくなったもんなぁ、少なくとも町を歩く時には。

万が一のスマホの不調に備えて、地図ぐらい、か。

だって重いんだもん!

 

で、ふと思ったのは、日本の大手新聞はいつまでブランケット判(大判)を用いるんだろう、ってこと。

イギリスで21世紀に入って、高級紙(The Timesとか)がブランケット判のみならずタブロイド判も発行したんだったよなぁ(日本の女性誌がミニサイズを出してるでしょ、あんな感じ)。

The Guardianはタブロイド判より一回り大さいベルリナー判にして小型化したんだったな。

(ちなみにThe Indenepdentは紙をやめ、オンラインのみに切り替えた)

その理由のひとつは通勤の交通機関(電車とかバスとか)で読むのにかさばるから。

確かアメリカ合衆国やフランスでも同様の動きがあったと思う。

 

 

ええと、説明が後回しになちゃった。

ブランケット判は、朝日とか日経とか、のあのサイズ。

タブロイド判は、日刊ゲンダイとか夕刊フジとか、のあのサイズ。

 

東京の通勤ラッシュとはでは、もはや紙ではなくスマホの方が断然いいんだけど、

飛行機や新幹線を利用するときって、タブロイド判の方が隣りの人の邪魔になりにくいし、

何より読みやすいし、いいなぁ、と思うんだけど。

新聞離れの原因は、内容とか姿勢もだけれど、物理的なサイズってのもあるんじゃない?

 

 

概してソムリエがコルクのワインを重宝するように(ソムリエの仕事はコルクをあけることでも自らの知識をひけらかすことでもなく、お客を楽しませるためのワインの手助けをすることなんだけど、勘違いがいるんだなぁ。会話に割って入ってワインの説明を始めるのが、その最たる例)、新聞社の人たちはあの大きさにこそ自分たちのアイデンティティーがあると思ってるのかしらん。