ポマードって何ですか?
先日、ふと気になって、洋菓子店の風貌で働いている20代前半の男性に聞いたら、案の定「何ですか、それ?」との返答。
バターをやわらかくするときに“ポマード状にする”という表現をするのですが、
「そういえばポマードって見たことないなぁ」と思い(聞いたことはあるので、どんなものかは何となくわかる)、
「今の若者はそもそもポマードの存在自体を知らないのでは?」と聞いてみたら、やっぱりそうでした。
ポマードが何かはしらないけれど、“ポマード状にする”はそう表現するものと認識して仕事をしている、と。
“ヘアワックス状にする”だとどう?と聞くと、「食欲が失せちゃいますね」と。
確かに。
まあ、もとの意味がわからなくても、それが用いられている表現だけは残っていく、ってkとは往往
にしてあるので、そんなものかもしれない。
っと、“ポマード状にする”という表現が出たときは、「食欲が失せちゃう」という声は出なかったのかな?
サービス業の人はすごいなぁ
そこのパン屋さんは、現在の私の住まいの最寄り駅にあるわけではないものの、近い、といえば近い。
1時間であれば徒歩圏内の私にとって、歩いて行こうと思えば行ける。
東京に戻って、たま〜に行っていたけれど、
必要なものだけ買ってさっさと帰っていたし、
そもそも、東京に戻ったことをお知らせしていなかったし、
私が面識のある方は厨房にいらっしゃるので、お店を訪ねても顔をあわせることはこれまでなかった。
それが、先日訪ねたところ、気づいて売り場に出てきていらした。
厨房と売り場を隔てているガラス窓から見えたようで、
ふと顔を上げたら、私がいた、と。
いやぁ〜、よくお気づきになったなぁ〜、とびっくり!
マスクをしているから、顔の判別はつきにくいだろうし(知っている人と待ち合わせても、確信が持てなかったりする)、これまでいつもお目にかかっていたときはコンタクトレンズだったのに、この日はメガネ。
そもそもお互いを認識して少し会話を交わしたことは数えるほど、なのに。
それでも、ぱっと分かるなんて、サービス業の人はすごいなぁ、といたく感心してしまったのでした。
風景の一部として存在を打ち消すから、なのかな?
移動時間とか寝る前の30分とか、今年の後半は、働き始めて初ともいえる、
娯楽としての読書を楽しんでいます。
目についた、気になっていた本を手当たり次第読んでいて、その中には小説もあります。
そこでふと疑問に思ったこと。
作者が男性で、主人公が男性の物語の場合、登場する女性は、たいてい“きれいな娘”、そしてえらく特徴的な人なんだよなぁ。
文字に頼るので、美人や特徴的だとイメージしやすいから、ってのはあるのでしょうが、
それだけじゃない気がしてきました。
今は初老のおばさんだから、とっくに娘ではないけれど、
私は、“きれいな娘”じゃないし、だったこともない。
大まじめに正面切って「こんなブサイクな人は見たことがない」と言われるぐらいなので、“きれいな娘”の対極にあります
(容姿に限ったことではなく、あらゆる面でスペックが低いので、ヒエラルキーの底辺にいる、この人よりはマシだわ〜、と思われる“ボトムライン・ガール”なわけです)。
で、向けられる視線や態度を思い起こすと、
蔑まれる、笑われる、がっかりされる、
といったわかりやすいものもあるのですが、いい大人になると、
一瞥して、見なかったことにする、ってのが多い気がするな〜。
人としてカウントしない、視界に入れない、というのかな、存在を打ち消される、というのかな、風景の一部に化す、というのかな。
存在自体を遮断されちゃうから、関心の持たれようがない。
結局、そういうことなのかなぁ、と感じたりするのです。
作者にしてみても、生身の人間だから、ピピッとアンテナに引っかかったものは記憶から取り出せるし、蓄積も多いから、キャラクターを組み立てやすい。
でも、そもそも視界にすら入れないタイプの人間については、想像力を想起させるにも、その元となるもののストックがないんですよね。
そこにありながら、その存在を瞬時に却下して、それ以降見ていないから。
このあたりの心理って、実際のところどうなんだろうな〜。
大上段に構えたブサイク側からの見方とか、そんなことではなく、単純に素朴な疑問として湧き上がってきたのでした。
オノマトペも進化する
ここ2カ月ぐらい、1世代下、私の子供といってもなんら不思議はない20 代半ばの方々と話す機会がちょこちょこありまして。
そこで、はっと気づいたことに、擬態語&擬声語(オノマトペ)を使う率が高いなぁ、ってことがあります。
これはこんな表現をするのか〜、と感じ入っていた矢先、こんなニュースが(↓)。
おもしろいよなぁ。
こういう言葉の移り変わりを目や耳にすると、
学生時代、「“全然”は“〜〜ない(否定形)”と伴うべしとされているけれど、そうとはいえない、現に夏目漱石の小説には“全然”は“〜〜だ(肯定形)”で使われている」というのを聞いて、
へえええ〜っとえらく感心したのを思い出してしまうんですよね。
言葉は変化するし、時代を如実に表している、んだよなぁ。
よく歩いたなぁ(そんな気がする)
今でこそ、ときどき朝走ったりするものの、運動らしい運動をしないんですよね〜。
ですが、歩くのはまったく苦にならない。
1駅ぐらいは難なく歩くし、時間があれば1時間以内であれば徒歩圏内。
先日、朝走って、午前と午後と用事で外出したのですが、何カ所か回るのに歩いた方が1駅を乗ったり降りたりするよりも(気持ち的に)速いと思い、徒歩で。
気づけば10kmぐらい走って歩いたんじゃない。
夕方、疲れた〜、とお昼寝をするかと思ったらそんなことなかった。
体力が余っているのかな、と思ったりもしたけれど、そうではなくって、このくらい体を動かすのが私の体に適切なのかもしれない。
2020年、雑誌についての備忘録
これ好き!というよりも、広告収入によって利益を生み出すシステムでやってきた雑誌が終焉を迎える、ってことじゃないかな。コロナもあるだろうけど。
雑誌自体はなくならないと思う。
でもこれまでのシステムじゃない、ってことなんじゃないかな。
いい年だったな、と思えそうです
久しぶりな方から連絡がきました。
「東京に戻られたあかつきにはお食事に行きましょう、積もる話もあるし」
と今年のはじめ、お目にかかったときにそういう言葉をかけてくださったものの、
コロナになり、秋に一度電話で話したこともあり、
さして気に留めていなかったのですが、
お詫びと理由、コロナだけど年内にどうですか、というメールが。
律儀だなぁ、とすっかり感心してしまいました。
20年近く前に知り合って、年に一度ぐらいしか会わないんだけどね、
でも20年続いているってのは、私にしては珍しい。
内向型で積極的に人に会う方では全くないし、疎遠になるのは時間の経過とともに自然なこととも思っているので、それをどうこうしようともしないし。
私とて、コロナなので正面切ってなかなか誘えない。
仕事とか用事とかでないと、ますます外に出なくなったし。
数少ない声をかけるときも、もちろん断っていい、と付け足す。
同じようにやり方で声をかけてもらいました。
こういうところなんだろうな〜、実際に頻度が少なくても関係を続けたい、と思わせてもらえるのは。
気に留めてくださっていたんだ〜、ってのが、ね。
無理は要らないけれど、努力や気遣いは必要ってことか。