書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

風景の一部として存在を打ち消すから、なのかな?

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移動時間とか寝る前の30分とか、今年の後半は、働き始めて初ともいえる、

娯楽としての読書を楽しんでいます。

目についた、気になっていた本を手当たり次第読んでいて、その中には小説もあります。

 

そこでふと疑問に思ったこと。

作者が男性で、主人公が男性の物語の場合、登場する女性は、たいてい“きれいな娘”、そしてえらく特徴的な人なんだよなぁ。

 

文字に頼るので、美人や特徴的だとイメージしやすいから、ってのはあるのでしょうが、

それだけじゃない気がしてきました。

 

 

今は初老のおばさんだから、とっくに娘ではないけれど、

私は、“きれいな娘”じゃないし、だったこともない。

大まじめに正面切って「こんなブサイクな人は見たことがない」と言われるぐらいなので、“きれいな娘”の対極にあります

(容姿に限ったことではなく、あらゆる面でスペックが低いので、ヒエラルキーの底辺にいる、この人よりはマシだわ〜、と思われる“ボトムライン・ガール”なわけです)。

 

で、向けられる視線や態度を思い起こすと、

蔑まれる、笑われる、がっかりされる、

といったわかりやすいものもあるのですが、いい大人になると、

一瞥して、見なかったことにする、ってのが多い気がするな〜。

 

人としてカウントしない、視界に入れない、というのかな、存在を打ち消される、というのかな、風景の一部に化す、というのかな。

 

存在自体を遮断されちゃうから、関心の持たれようがない。

 

 

結局、そういうことなのかなぁ、と感じたりするのです。

作者にしてみても、生身の人間だから、ピピッとアンテナに引っかかったものは記憶から取り出せるし、蓄積も多いから、キャラクターを組み立てやすい。

でも、そもそも視界にすら入れないタイプの人間については、想像力を想起させるにも、その元となるもののストックがないんですよね。

そこにありながら、その存在を瞬時に却下して、それ以降見ていないから。

 

 

このあたりの心理って、実際のところどうなんだろうな〜。

大上段に構えたブサイク側からの見方とか、そんなことではなく、単純に素朴な疑問として湧き上がってきたのでした。