書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

一体どこに行っちゃったんだろう

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ここ15年ほどでしょうか、3カ月に一度の割合で定期検診で、総合病院(大学病院)に通っていまして。

よく見つかったなぁ、というもので、日常生活に支障はなく

(おそらく、自覚がないだけで私より症状がよくない人はたくさんいる、と思う)、

投薬もなければなにもない。

 

ときどきいろんな検査もするけれど、2回に一度は簡単なチェックアップと問診。

この場合、チェックイン(っていうのかな?)から診察が終わるまでは、さほど時間がかからない。

1時間ぐらいかな、その後の会計で30分以上待って支払って、が通常のパターン。

 

本当は、4月下旬に定期検診があったのですが、新型コロナウイルスの影響で、

病状(というのかな?)はいつもと同じく、自覚が現れるほどのことはまったくなく、一刻を争う事態ではなかったので、予定を先に伸ばしてもらい、2カ月後の先日出かけたわけです。

 

前回の検査は1月中旬だったので、5カ月ぶり。

つまり、新型コロナウイルス以後初めての訪問となった大学病院は、入り口が厳戒態勢というか物々しいというか、

体温のチェックやら動線の指示やら、何よりスタッフが何人もいるという、ね。

 

そして、病院内は人が少ない。静か。

病院が賑わっていない、っていうのも変な話だけれど、患者数が圧倒的に少ない。

各科の受付けで、住所変更の手続きをして(引っ越し後、初の受診だったから)、検診。

今回は簡単なチェックアップの回で、病院に到着してから問診&チェックアップが終わるまで、時間にしてわずか15分。

 

患者数が少ないことに加えて、診察室のエントランスは厚いカーテンなどで仕切りがあるのですが、これが開放されていて、あ〜、通気性をよくするためか〜。

会話が筒抜けだなぁ。

まあ、私の場合は、大したことないから、別に聞かれたからって、どーってことはないのだけれど。

深刻な患者さんの場合は、個室の診察室か、一部カーテンが閉まっているブースがあったので、そこで、ってことなんだろうな。

 

いちばん驚いたのが会計かも。

書類を渡して、わずか10分で支払い。

今まで、どんなに時間が短かったとしても、そこは総合病院(大学病院)で、患者数が多いこともあり、30分はかかっていたんです。

 

結局、病院に到着してから後にするまで、30分もかからなかった、という、ね。

 

いやぁ〜、びっくり!

 

 

っと、患者さんはどこへ行っちゃったんだろう?

総合病院(大学病院)は基本的に紹介状がないと受信してもらえないわけで、昨今は同じ検査が可能なら近くのクリニックで、を推奨していたぐらいに(必要がある人だけ受け入れたい)、人が多かったのに。

 

私の場合も近くのクリニックでもいいのだけれど、たまに治験サンプルになることもあって、いろんなデータが蓄積されているし、先生ともなじみになっていて、先方も私の病気に対しての姿勢を知っているので、安心&信頼して通い続けているのだけれど。

 

そう、患者さんはどこへ行っちゃったんだろう?

診察のスパンを長くしているのか、近くのクリニックに切り替えたのか。

通院していた人が一気に病状が良くなったとは考えにくい。

今まではすぐに病院に行っていて、結果、クリニックから総合病院になっていたと思うのだけれど、その、すぐ病院に行く、という行為そのものを辞めちゃった、ってことだろうか。

 

ここまで患者さんが減っている理由はなんなんだろう?

不思議だ〜。

 

 

ぐいぐいと引き込まれてしまった

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こういうのは、書き手と対象と、付け加えるなら読み手との巡り合わせがよかったのでしょう。

 

ぐいぐいと引き込まれる記事に出合ったよ。

gendai.ismedia.jp

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gendai.ismedia.jp

 

私はお笑いに詳しいわけではないし(というか、テレビをおいていないせいもあり、疎い)、

働き方でどうこう思い悩んでいるわけではない。

 

働き方は、フリーランスゆえ、四六時中つきまとうテーマで、

結局は、“自分の畑を耕す”ってことだと思っていて、

同じ作物を作り続けるか、品種改良するか、違う作物に転換するか、休耕するか、

を常に考えているわけだけど、

他者の話は結局、他者の話でしかないんですよね〜。

 

この三部作の記事がおもしろかったのは、

まずは筆致なんだと思う。

文章がうまい。技巧的ではなく、平たくわかりやすい言葉で綴る、

これってむずかしい、のよ。

 

そしてテーマの扱い方。

なんだろうな、もっと好奇心丸出し(果たして、可能なの、へぇ〜、みたいな高みの見物的な)

みたいな書き方が多いように思えるけど、

あくまでフラットに綴っていて、

おそらく書き手は対象と信頼関係もあり、それなりの知っている間柄なんだろうけど、ウェットな感じがなく、あくまで対象として突き放しているところがいい。

 

 

文章を書くのは、むずかしい。

やればやるほど、むずかしい。

 

ここ10年ほど、スランプというか、納得できるものが書けないなぁ、という状況で苦しかった。

仕事として書くので、果たして対価をもらえる文字原稿なのか、と問い続ける。

それ以前は、もっとスラスラ書いていたのに、書くのにすごく悩むようになったのは、

若い時は何も考えてなかったからかもしれないし、ようやく、書くということに対峙するようなったからかもしれない。

でもそれが足枷となって、考え込んで、ぎこちない文章だったのでは、と思う。

 

ようやく、少し肩の力が抜けて書けるようになったのは、ここ最近。

そのタイミングで、こういう記事が読んだので、自分の中にスーッと入ってきたのかもしれない。

 

 

それらを差し引いても、いい記事なんじゃないかな。

ネット記事は放っておくとどこに行ってしまい、自分の記憶からも薄れてしまうので、記録に留めておくためにも、ここに記しておこう。

 

 

リアルでは、思いもしなかったことに気づく

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フリーランスで、それまでも発注主は遠方ゆえリモートワークでの仕事が大半だったので、

新型コロナウイルスでおこもりが要請されても、生活スタイル自体はさほど変わらず

(自主的にこもるのと、半強制的にこもらされるのとでは、心理的には随分違うけれど)。

 

外出自粛が解除され(自粛は自主的にやるもんだから、解除される、ってのも変な話)、外に出る機会も少しずつ増え、電車/地下鉄に乗るようにもなりました。

 

私が関わっているメディア系の仕事では、例えば出版社にしろデザイン事務所にしろ10時スタートのところが多いんですよね。

なので、朝イチで打ち合わせは10時スタートを意味し、それより前の時間の集合はレアなケースとなります。

たまに市場の取材とかで早朝、ってことはあるけれど、それはリアルな早朝なんですよね〜。

 

つまり、いわゆる朝のラッシュアワーに遭遇しない生活なんです。

どこで待ち合わせるかにもよりますが、たいてい電車/地下鉄に乗り込むのは9時を回っていて、ピークは過ぎているから。

 

あるとき、都内で9時に約束が入りまして。

じゃあ、8時過ぎに電車に乗ればいいかな、と思っていたのですが、

はたと、それってラッシュアワーじゃない? ただでさえ混んでいる電車に乗るのは嫌なのよ、しかも、新型コロナウイルスもあるからなぁ(自分がうつすかもしれないし、うつされるかもしれない。いずれにしろ感染の可能性は上がる)、

と早めに出て、目的地近くのコーヒーショップで朝ごはんを食べて過ごすことに。

 

電車に乗り込んだのは7時30分頃、降車したのは8時過ぎ。

一度乗り換えたけれど、いずれも座れて、立っている人はわずか。

空いている席もあったので、 “密”を避けるために立っている人もいるのでしょう。

 

この時間でこのくらいの乗車率なんて、変わったなぁ。

すし詰めとはいかないまでも、まさか座れるとは思っていなかったのでびっくりしたよ!

 

でも、人間は忘れちゃうし、すぐに慣れちゃうし、で、かつてのラッシュアワーの混雑が戻る可能性も大いにあり。

なので、しばらくは、ラッシュアワーを自分から避ける生活、だなぁ。

外で朝食を食べたりコーヒーを飲んだり、それはそれで悪くないし。

 

ただですね、こういうことが起こるまでは、「ラッシュアワーかぁ、仕方ないな」ぐらいで巻き込まれていたけれど(というか、自分もそれを構成する一員だったわけだけど)、

本気で“避ける”を目指すようになったとはね。

こういう行動然り、物事は実際に起こって自分の身に降りかかって初めて気づくことって多いな。

 

 

電車移動は読む時間

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先日、会社勤務の人と話していて、今はどのくらいリモートワークをしているか、通勤時間にどのくらいかかるか、など他愛もない話もしました。

 

新型コロナウイルスの影響で、リモートワークが推奨され、

通勤時間は不要なもののようにますます言われ、

私は通勤をしない生活(途中、嘱託契約のときも出社時間は自分次第だったので、一般的は通勤とは言いがたい)をかれこれ20年していて、

満員電車はご勘弁!で、それを自分でコントロールできるのはいいのですが、

ゆったりとした電車で通勤できるなら、それは悪くないかも、と思っています。

 

その理由は、

 

  1. 車内で本や資料が読める、その時間に当てられる
  2. 仕事とプライヴェートの切り替えがしやすい

 

ってことがあって、2については、そもそもリモートワークが主軸の私は必要をさほど感じないけれど、1は大きい。

 

 

今年の2月上旬に東京に戻ってきて、会社勤めではないとはいえ、打ち合わせなどで移動することはあって、それは電車移動が大半。

自粛期間中は、まさにおこもりの生活が続いたけれど、外に出ることも増えてきた。

 

すると車内で本や資料が読めるんですよね〜。

これ、ありがたい!

 

私は家で本を読まないんですよね〜(すぐ、眠くなる)。

ちょっとしたあき時間を読書にあてることが多く、スケジュールの関係でちょっと時間があいたとき、

そして電車移動の時間、というのがうってつけなのです。

 

 

ここのところ、本を読むペースが上がったな〜、と感じていて、理由は明確でした。

電車移動が増えたから、なんだな〜。

唯一の問題は、降りる駅を忘れてしまいそうになり、実際に時々やってしまうことです(苦笑)。

 

ゆるく接点があるぐらいがちょうどいい

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みんな一緒に、一丸となって、というのがどうにもこうにも苦手で。

そういう枠組みに入れられそうになると、一目散に逃げ出したくなる。

 

やっている中でリンクする箇所があれば協力し合えばいいし、やってきたことが結果といて繋がることがあれば、それはそれでいい。

自分の領域があった上で、協力できる部分があれば協力して、でも立ち入ったりせず、ぐらいがちょうどいい。

 

ベタベタした人間関係が苦手。

友達ごっこや身内ノリも苦手。

 

 

今回、あれよあれよ、と、ライフワークのイギリス菓子の実売を開始ができたのは、

場所をお借りしているオーナーさんや、関わっているお店の方が、

同じようなスタンスだからだと思う。

 

それぞれやっていることは違って、でもリンクできるところは気持ちよく、あくまで相手をバックアップという立ち位置で関わって。

相手に領域に入り込まないから安心して仕事ができるし、相手のことも信頼できる。

 

 

これ、フラットシェアや、イギリスやヨーロッパで人の家に宿泊しているときの感覚に近いかも。

一緒にいても、そこにはプライヴァシーが存在し、そこを尊重して接する、という。

 

空間やプロジェクトをシェアすると、同じ釜の飯のようなファミリー感に覆われがちだけれど(と〜〜〜〜〜〜っても苦手! 加えていうと、家族もぞれぞれ別の人格だから)、

そうじゃないんだよね。

同じ空間にいてもプライヴァシーが存在する、というのは、垣根は低いけれど、なんでもかんでもあかさない、っていうのかな、それが心地いい。

“同じ釜”感覚だと、“腹を破る”みたいなのが求められるんだよね〜。そういうべっとり感が心底苦手。

 

 

なので、人に、彼らのキャラクターやスタンス恵まれて、イギリス菓子の実売が実現できたんだと、つくづく。

深く感謝!

 

それでいて、よそよそしい感じじゃ全然ないのよ。

一緒にいるといろんな話をするから、情報を共有できたり、具体的な道具などを貸し借りできたりるのも、大いに助かるなぁ。

 

 

自分に制限をかける理由はどこにあるんだろう

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欲しい情報にまったく出合わないので、私はファッション関連の雑誌を買わなければウェブメディアも見ない。

結局は売らんかな、の要素が強いのも、

モデルとしているのがスタイルのいいモデルさんなのも、

まったく私に合わない。

 

ある日、ラジオで、

“似合わなくなったもの”として、ファッションアイテムをあれこれ持ち出していたけれど、

確かに体重の増減や時代性著しいデザイン(肩パット、とかね)はそれを左右するけれど、

ベーシックなものに関しては、思い込みなんじゃないの?

 

「年をとるとボーダーが似合わなくなる」

「ミニスカートが履けなくなる」

 

やいのやいの話していたのは、40代後半の女性パーソナリティーとアシスタントを務めるアナウンサーで、

そんなの、思い込みとただの勝手な言い訳で、着たければ着ればいい。

 

挙げ句の果て、

「年とってもセント・ジェイムスを着るフランス人はすごい!」

野宮真貴がミニスカートを諦めたんなら、私たちなんてもってのほか!」

と言っていて、

まただよ〜、ここでも、おフランス至上主義!

フランスはそんなにおしゃれかよ〜、ウソでしょ〜(大いなる疑問)。
それに、当のフランス人は何歳だからこんな格好、なんて思ってないんじゃない。

野宮真貴はミニスカートを諦めたかもしれないけれど、あなたも私も野宮真貴ではないので、それを理由に諦める、ってのもわからない。

 

 

何を着ようと他人がとやかくいう必要はない。余計なお世話だ。

あえて言うのであれば、おしゃれは気合い、じゃないの?

自分が着たい、と思うものをおずおずせずに堂々と着ればいい。それだけ。

もじもじして着ると、服も靴もかわいそうだし。

 

いちいち、「いくつだからこーあるべし」を前提に話を進めるのに、いい加減うんざり!

そうやって制限をかける必要が一体どこにあるんだろう?

 

 

誕生日、というもの

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疑うべきはまず自分、と思っていて、思い込みで物事を判断しないようにしています。

仕事の場でも、だし、日常生活でも。

 

ある日、ラジオ番組で、タレントであり、その番組のパーソナリティの方が、

「今年の誕生日は外出自粛で家にこもっている人が多いから、前日の余り物で食事をしても寂しさを感じなかった」と切り出し、“誕生日は特別!”を何度も力説していたので、驚いてしまったのです。

というのは、通常、その方は、なんと表現すればいいのか、既存概念に縛られていない、私からみればごく自然な発言をさせる方だったので、誕生日の比重がその方にとってそんなに重い、とは思わなかったから。

 

 

私自身は、本人の資質と、生まれ育った環境もあり、そういうことに無頓着、なので、その方の言うところの、毎年、“前の日の残り物を食べている”状況なのですが、

だからといって、冒頭で書いたように。それが世の中に人に当てはまるとは思っていない。

むしろ、例えば、レストランなどで誕生日のお祝いをしている場に遭遇すると、幸せをおすそ分けしてもらったような気分になる。

ただ、自分とは関係のないことだな〜、という、それ以上でもそれ以下でもない、というね。

 

幸せな気持ちも伝搬するのよ。

なので、クリスマスの街も人も華やぐ感じは嫌いじゃない、むしろ、いいもんだな、とも感じています。

 

 

誕生日は、お祝いの言葉やプレゼントはもらうことの方が稀だし

(最新の誕生日は、たまたまのタイミングで、たまたまの流れで、ワインをご馳走になったな。ありがとうございました!)、

それこそ、レストランで食事、みたいな、自分がお祝いされる場、は体験したことないな〜

(誕生日が特別な日、というのは学習したので、人のお祝いの場は設けることあるけど)。

クリスマスとかのイベントや、私にうれしい出来事が起こった時も、お祝いの場を与えられたこと、ないな〜。

いつも平常運転。

 

無頓着なので、そういうもんだ、というか、そもそも何も考えていないのだけれど、

誕生日もクリスマスもイベントごとも何もない、と言うと、憐れみの視線を向けらるのが面倒。

「クリスマスにひとりなんてかわいそう! うちで一緒に過ごそう」と言われたこともあり、「え〜、別にかわいそうじゃないけど」と思ったけれど、ごちそうを準備してくれる、ということで、やった!といそいそ出かけて行きましたとさ。

 

まあ、そんなわけで、先のラジオ番組で、“誕生日とは特別な日”ということを再確認した次第。

自分の物差しで物事をはかってはいけないな〜、と改めて感じたのです。