書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

公言すると、情報が入ってくるなぁ

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“おかたし”真っ只中の私。

今週手放した、おもなものは以下のとおりです。

 

・衣類 3着

 

不在ではかどらず。

 

衣類は以前に、えいや、で全部出してチェックしてはいたものの、迷ったものは保留にしたので、改めて見直したものの、そのあとで、やっぱり不要、と処分したものがあったせいか、処分できるものが少ない。

もっと、あれもこれも、と出てくるかと思っていたけれど。。。

 

 

引っ越したい! と言ったら、物件の情報をくれる人がいたり、先日は、荷物(資料)の多さを嘆いていたら、トランクルームを実際に使っている人の声をきけたり。

自分ではたどり着けなかったり、たどり着くにしても時間がかかったりするから、公言する、って大事ね。

 

ただ、おかたしが終わらないことには、終わらないまでも見通しが立たないことには、その段階には突入できないんだよなぁ。

 

 

 

世の中は知らないことだらけ

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もう15年以上も仕事の付き合いのあり、

(私には珍しく)たまに食事に行ったりもする方。

泊まりがけの取材・撮影で一緒になると、移動をはじめ一緒の時間が長く、すると他愛ない話をする時間が増えます。

 

今回、それまでまったく知らなかったその人の面を知り、えらく驚いてしまいました。

まったく未知のジャンルのことで質問しまくって、へえ〜、へえ〜、を連発。

 

物事って、いつも見ているのはあくまでひとつの面にすぎないのねぇ。

 

もちろんすべてを知ることはできないけれど、

自分の知っている面だけで判断をするのは危険だなぁ、とつくづく感じたのです。

 

ピリピリする状況だからこそ、ゆる〜い態度で

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現在進めている企画の撮影が無事終了しました。

 

今回は、著者・監修、カメラマンさん(+デザイナーさんも出版社も)、私、それぞれが離れていて、集結して撮影、という動き。

ということは、うっかり!とか、忘れちゃった!とかを避けて、限られた時間で確実に撮影をこなす必要があるのです。

近くであれば、できなかったら、ちょっと時間を作って、後日もう一度、ができるのですが、遠隔だと、それはおおごと(実務、もですが、移動の時間や経費も)。

 

その撮影が無事終わって、ほっ。

 

 

私は、こういう場合は、いつも以上にテキパキ、キリッと仕事をしないようにしています。

ちょっとゆる〜く、丸く、和やかで楽しい現場になるようにしています。

なので、気が利かない、とか、キビキビしろよ、とか、言われることもあるけれど、不要な威圧感を与えるよりは、この人、のんびりしてるな〜、ぐらいの方がいいかな〜、と思っているのです。

 

まぁ、変に焦ったところで、結果は変わらないし、次がない緊張感はスタッフの誰しも持っているので、ひとりぐらいゆったり構える人間がいる方が、ピリピリしなくていいかな〜、とも考えています。

ありがたいなぁ、ほんと、ありがたいねぇ

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先日、高校の同窓会に出席したときのこと。

卒業年に関わらず、同窓生が集まる会で、今年は私の学年が当番期で、事前準備には参加できないものの、当日は多少なりとも手伝いを、と参加しました。

 

どんなものはよくわかってなく、すると会場には物販コーナーがあり、ご自身のCDを販売なさっている方もいて、じゃあ、ちょっと私の本もPRしてよ、と手元にあった『増補改訂 イギリス菓子図鑑』1冊を見本としておいてもらって、Amazonなどオンラインでポチるように誘導してもらったのです。

 

自分が、いつものように編集統括/制作指揮、つまり大きな裏方の場合は、躊躇なくPRしやすい。

商業出版である以上、売れる、というのは大事な要素なので、できるだけPRして、知らなかったけれどこういう本があるのか、欲しい、という人に、ひとりでも多く届けたいと思っています。

興味がドンピシャの場合は、アンテナを張っているので買ってくださる可能性が高いのですが、興味がないわけではないけれどそこまでベクトルが向かっていない、でも読者になってくれる可能性のある人に向けてPRしたい、と考えているのです。

 

ただね〜、自分が著者も兼ねるとなると、裏方かつ表方であり、なんだか面はゆい(これが私の弱いところ)。

同窓会では、私は物販ではなく事務系の手伝いをしていたので、販売は担当の方々にお任せ、としました。

 

 

いやぁ〜、ありがたいです。

ポチってくださった人たちがいらっしゃったんです。

打ち上げの時に、「俺、2冊注文したよ!」と声をかけてくれた人もいて、ありがたいことこの上ない!

 

興味がまったくなかったら注文しなかったでしょうが、それでも同窓のよしみ、って部分が大きいのは間違いないでしょう。

感謝、感謝、です。

 

 

今回の『増補改訂 イギリス菓子図鑑』発売の後はイベントや講座に登場していないのですが、これまでそういう機会があったときに本も持参したら、買ってくださる方の比率がとても高かったんですね。

なかにはすでに買ったけれど、もう1冊、って方もいらっしゃったなぁ。

 

 

同窓会でポチってくれたのと、イベントや講座で売れるのとは、理由はまったく同じではないでしょうが、それでも“顔が見える”ことが購入につながる、ってことなのかな、と考えるのです。

生産者の顔が見える野菜や果物、というのと同じ心理なのかもしれないですねぇ。

 

 

 

パンを焼くという行為

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なんとな〜くうまくいかない、というか、停滞期にいるような気がしています。

勤め人でない、独居、ということはひとりの時間が長い、わけで、となると、気分を引きずりがちだな〜、と感じます。

 

ネガティヴな人が1人いればそれを通常値に戻すためには、ポジティヴな人が5人必要、とおっしゃっていた経営者の方がいらして、確かに負のパワーは強い。

 

考えても仕方のないことは考えても仕方がない、と頭ではわかっていても、すぐにスイッチを切り替えるのは、なかなかむずかしい。

 

そんなとき、仕事が切羽詰まっていれば、それをやらざるを得ないから、やっているうちに集中してきて、もやもやした感情が薄れていきます。

 

時間があるときは、すぐにが〜っと集中モードに入らないので、パンを焼きます(今はおかたしの真っ最中なので、どこかひとつの場所を“えいや”できれいにするという選択肢もあり)。

いや、料理でもお菓子でもいいのですが、パンの場合は、作ってすぐ食べなくてもいいし、どのみち食べきれないので冷凍させればいいので、作ったはいいけれど、早く消費しなきゃ、ってことがないので、こういう気分を切り替えるときに取りかかるのにもってこいです。

 

“パンを作る”ことではなく、“パンを作ることで気分を切り替える”のが目的なので、ここでのポイントは自分の手でこねる、ってこと。

家庭で焼くので、せいぜい使用する小麦粉はマックスで350g程度なので、こねるといっても5〜10分。たいした時間ではありません。

 

仕事が差し迫っていて集中するのと同様、パン生地をこねているときって無心になれるんですよね。

こういう瞬間があることで、いったんそれまでの気分を遮断できる。

そして結果として、気持ちの切り替えができる、ってわけです。

 

 

私は、自分ではしないのですがハンドメイドが、またイギリスでベイキングが人気なのは、無心いなれる時間を組み込むことで、マインドフルネス、日常のストレスを和らげる役割もあるのでは、と捉えていて(これについては、いずれきちんと綴りたいなぁ、と考えています)、私のパン焼きもこれなんだろうな、と感じています。

 

表紙でかくかくしかじか

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現在取り組んでいる書籍の仕事の表紙が決定しました。

昨今は、中身がまだこれからなのに、表紙が大きく先行し、いやはや、な状況です。

 

表紙を決めるのは出版社内で、社外のこちらは意見は求められるものの、決定権はありません。

 

ただ、意見をすくい上げてくださったり、その理由を説明できたりするのは、ありがたい。

決定にいたった経緯も教えてくださるのは、安心できるし信頼できる。

 

だいたい、3〜4案提出するのですが、

今回は、著者&監修の方、デザイナーさん、カメラマンさん、スタッフの方々の間で意見が分かれました。

出版社の表紙会議でももめたようです。

 

最終的に選ばれたのは、私のイチオシとは違うものでした。

ただし、撮影の段階では、これでしょう!と盛り上がったものです

(デザインすると、印象が変わるんですよね〜)。

 

 

迷ったら最初にピンときたものに戻る、というのが私のセオリーですが、

結局そういうことかな。

まっさらに近い状況で見て、ぐっときたものがいちばんいい、というね。

しみじみしてしまうのは、こんなこと

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先日、高校の同窓会に参加しました。

久しぶり、懐かしい、というよりも、初めまして、名前こそ知っているものの初めて会話を交わす人が大半で、いつもは私の周囲でお目にかからない仕事をしている人たちと会って、なんだかゆる〜い交流会のよう。

 

高校を卒業して30ン年ぶり。

高校のときの記憶があったとしても、卒業してからそのときまでの倍以上の時間が経過しているわけで、話していると、進んだ道も違えば環境も違い、最初は小さな違いがだんだん大きくなり、そうして今にいたっている、と思うと、しみじみしてしまいねぇ。

 

 

夜の新幹線の車窓から見える家々の灯り。

遠く、そして北のスコットランドグラスゴーの小高い丘から、南のオーストラリア・アデレードのホテルから、タイ・チェンマイの宿から眺めた街の灯りetc。

 

それぞれの家にそれぞれの人たちが暮らしていて、それぞれの暮らしがありそれぞれのストーリーがあって、それぞれの人生があるんだなぁ、と思うと、じ〜んとするものがあります。

 

 

それまで触れていなかったそれぞれの人生を垣間見ると、当たり前だけれど、均一ではないそれぞれにとっては深い、そしてそれは大小や優劣がつけられない、かけがえのない物語があるんですよねぇ、本当に。