環境が全然違うのに、同じ土壌に立つ必要はない
マルコ・ピエール・ホワイト。
かつてはイギリスを代表するフランス料理のシェフで、現在はレストラン経営者。
33歳のときに、ミシュラン最年少、イギリス初の3つ星をもたらした伝説のシェフです。
天才と称される人が、時にそういう傾向にあるように、
彼もまた、口の方も超一流で、発言がとにかく辛辣。
大多数の人が思っていても公の場では憚られることを、ズバズバ言うことも多く、
先日目にした新聞記事もまさにそれ(↓)。
この記事の本筋は、現在、発展目覚ましいイングリッシュワインをこき下ろしたところにあったのですが、後半、そうそう、まったくその通り!な意見に遭遇。
経緯として、イングランド南西部でデヴォンに新しく店舗を構える、ってことで、そういう話になったのでしょうが、こんなことを。
「ダイニングシーンは、そりゃロンドンが群を抜いて最高ですよ。
才能も食材も上質なものが揃う。そして、それが適性価格であれば、高くてもちゃんとお金を払う顧客が存在する。
地方がいくらいい、っていっても、全然トップレベルじゃないわけで。うん、いいね、ってレベル。過剰評価されていると思う。
ミシュランで星獲ったり、レストランガイドで高評価されている○○○○って店。地元の魚介類を使う、って標榜しているけど、季節や天候によっては無理だから。よそから仕入れてますよ。
あらかじめ言っておく。うちの店は沿岸に近いといっても、必ずしも地元の魚介類だけを使っているわけじゃない。そのときの状況や安定供給の面あり、スコットランド産も相当使います」
これ、まんま日本に置き換えられます。
やっぱね、東京は群を抜いてすごい。
ホワイト氏も言っているように、才能も食材も最高のものが揃い、そこにちゃんとお金を落とすお客が存在する。
つまり、ファインダイニングがたくさんある、そして、そういう食文化が存在するってことです(それでも、東京は、世界のほかの都市に比較すると少ないような。。。)。
なので、大都市ではケではなくハレに近づけば近づくほど、その層が厚くなる。
彼も例で挙げていたように、わかりやすいのが魚。
上物は地元には流れず、東京・築地に行っちゃうんですよ、本当に。
人口が多い、ってことは競争も激しい。
となると当然、淘汰され、それは洗練という形になって目の前に現れる。
私が残念だな、と思うのは、地方で東京のトップレベルの店の表面だけをかすめとって、本質が伴っていないケースが多いこと。
なので、哲学も何もなく、張り子のようにちぐはぐ。そして、虚勢を張るためか、やたら威張る。
もちろん、おっ!と思う洗練された上質な店はあり、
それは、わかりやすいほかとの競争はなくとも、自問自答してとことん突き詰めている。
どういう形であれ、切磋琢磨されたものは結果、美しくなるのですよ。
先日も意見を求められて伝えたのですが、
地方で、東京と同列のおしゃれを目指さない方がいい。
だって、鍛えられ方が全然違うんだもん!
(人間、競争がないというのは、たいていの場合、あぐらをかいてしまうからね)
本気でやるのなら、お金も時間もかけて追求しないと、本当に心を打つものはできない。
そこをお手軽に見た目だけ盛ってもまったく意味はない。
それよりも、その土地ならでは、その土地でしかできないことを考え抜いた方がいい。
結果それが見た目ださくても、ださいことが恰好いい、につながるのだから。
先のホワイト氏の話に戻って、彼は地方の店は過大評価されている、と言っていて、
確かに皿の上だけで判断すると、それは否定できない。
でも、中には立地とかサーヴィスとかワインリストとか内装&外装とかが素晴らしく、
それは何も洗練されてはいないけれど、
ユニーク(唯一無二という意味で、ユーモラスではないですよ、念のため)なもので。
こんなところでこんなお店が!というところがあるのも事実。
それはそこでしか体験できない特別感であり、その底流には、やはりエリアとか環境とか、そこでしかできないものが考え抜かれているように思えるのです。
「バスびより」Vol.13がおもしろい!
先日利用した長距離バスのポケットにあって、
何気なく眺めていたら、これがおもしろいのなんの!
「バスびより」
広島バスセンターが発刊している小冊子で、
私が手にしたのは、2017年6月1日付け、広島バスセンター60周年超特大号Vol.13。
バスを使って行ける観光スポット。
これは定番。
でも、そこから一歩踏み込んで、たとえば、広島に原爆が落とされた日を、
旧日本銀行や広島城の地下(室)、今に残った樹木から見るとか、
改修を重ねながら今も現役で街を走っている路面電車を紐解くとか、
写真とともにていねいに説明されています。
また、これはさまざまなバス会社が集うバスセンターならでは特集が、
1980年代に活躍した、各バス会社のモノコックボディのバスを紹介するページ。
モノコックボディとは、丸みを帯びたバスの車体のデザインのこと。
見れば、ああ、そうだった、懐かしい!なバスを、
それぞれの特徴を案内し、かつ今の車体とを比較。
“通”ならではの視点に、おっ!と膝を打ちます。
私はバススポッターではないし、トレインスポッターでもプレインスポッターでもなく、特別な乗り物好きではないけれど、
でも、それでもオタク気質なので、こういうのワクワクします。
こういう冊子って、えてしてありきたりなタウンガイドになり
(メインは交通案内という頭があるからだと思う)、
通りいっぺんな内容なことも多いのだけれど、
こんな風に、知っているからこそ、地元だからこそ、の情報を出されるとグッとくる。
身近なものをアンテナを張って見渡す、歴史を紐解く、丹念にチェックする、という作業が伴うので、
作るのはさぞや大変だっただろうなぁ、と思うのだけれど、
同時に楽しかったに違いないとも感じるのです。
その分血が通っていて、だからこそ読んでいて楽しい!
おかげで普段は移動の時間は睡眠時間なのが、
このときばかりはばっちり目を覚まして、読みふけってしまった次第です。
野球っておもしろいの? 中継は要らない。
わ〜い!
headlines.yahoo.co.jp
TBSラジオが野球中継撤退!というニュース。
記事の方向性としては、落胆、とあるけれど、
これ、私にとっては朗報!
テレビはおいていないし、ラジオは聴いたり聴かなかったりだけれど、
すごおおおおく不思議なのは、
横一線で同じことをやるから選択肢が狭められるってのが不満で不満で。
野球中継なら野球中継ばかり、ニュースならニュースばかり。
彼らにしてみれば内容が違う、って言いたいんだろうけど、
野球にまったく興味がない私なんぞ、
野球以外なら何でも、音楽でもおしゃべりでも、そんな番組が欲しい。
そんな人はいると思うのに、
なぜ大多数が欲すると感じるものに右習えで揃えちゃうのかなぁ。
なので、聴取率トップのTBSラジオが野球中継を辞めるってのは朗報!
テレビ東京同様、我が道を歩いてほしい!
みんな一緒って時代じゃ、とっくにないのよね〜。
体験に基づくこと言葉って、説得力があるなぁ。
ああ、そうか!
頭ではわかっていたつもりでも、自分の体験を通したり、人の話を通じて、初めて腑に落ちることがあります。
ある日、1970年代に喫茶店で働いていた人と話したときのこと。
「そういえば、喫茶店のコーヒーゼリーを集めた本があるんだよ、店によって違いがあってね」
「ああ、昔の喫茶店はそうね。店で作ってたから、そりゃ、違いも出るでしょ」
「ん?」
「今みたいに既製品が出回っていたわけじゃないから、店で作らざるをえなかったの。意識したわけじゃないだろうけど、そりゃ違いは出てくるよね」
「ああ、そうか」
「作るのって、やっぱ手間がかかるのよ。既製品が出回るようになり、チェーン店もでき、今だとコンビニでもコーヒー飲めるし、缶コーヒーもおいしくなったでしょ。あと、昔は今みたいに娯楽がなかったから、喫茶店でゆっくりするのもそのひとつだったけど、今は違うし。そんなこんなで喫茶店がなくなっちゃったんだよね」
メディア関連の人じゃないし、経済に明るいわけでもない。でも経験に基づく言葉って含蓄がある。
なんとなくぼんやり感じていたことが、がぜん説得力をもって畳み掛けられた気分。
でも、今、かつての喫茶店とは違うけれど、カフェやアルチザンコーヒーのような形で、ある意味振り戻しが起こっているのはおもしろい。
あっ、でも、こーゆーの喫茶店だけじゃない、か。
なんでもそーだよね、振り子のように行ったり来たりしながら、でも進んでいっている(のかな?)、だから以前とは同じではないのよねね。
日本病(もしくはそれに該当する言葉)が流布するのは時間の問題
南アフリカのケープタウンよりも、スリランカのコロンボよりも、タイのプーケットよりも、韓国のソウルよりも、中国の北京よりも、ペルーのリマよりも、チリのサンティアゴよりも、ニュージーランドのオークランドよりも、オーストラリアのダーウィンよりも、シンガポールのチャイナタウンよりも、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロよりも、
東京は安い!
まあ、そうだろうなぁ。
これ、イギリスの新聞「Daily Mail」にあった記事。
郵便事業が、長距離旅行先(なのでヨーロッパや中近東は含まれない)30エリアを対象に調査。
具体的にはコーヒー代やビール代@カフェ/バー、外食費、日焼け止め、虫よけなどの項目の平均的な値段から割り出したものです。
東京がもっとも安く、しかもダントツに安い、
という結果に。
もはや、今さら、って気はしますが、でも、そう捉えていない(思いたくない?)人が多いのも事実。
そんななか、そろそろこれが世界的な常識になるってこと。
というのも、これまで同じ新聞メディアでも高級紙では言われていたことだけれど、
これを掲載したのは、タブロイド紙の「Daily Mail」だから。
日本と違ってすべてのものにクラス(階級)があるイギリスでは
(いい/悪いのぜひはともかく。そしてそれは住民の意識もあらかじめそこにある“そういうもん”)、
一般の人が高級紙を読むわけではない。
もちろん今の時代なので、そうとばかりは言えないのだけれど、
それでも一般的なとことろでは、まだまだその認識が通用するかと思っています。
日本におきかえると、日本経済新聞とか朝日新聞などは知識層とかミドルクラス以上とか、
限られた人が読者。
では、大多数を占める庶民(ワーキンングクラス)は何を読むか、というと、タブロイド紙。
ちょっと違うけど、東スポとかが該当するかな。
「Daily Mail」は東スポみたいなもんで、そこで、こういうニュースが掲載された、ってのが、ね。
1980年代のイギリスは英国病なる言葉もあったほどの不況まっただ中。
サッチャー政権は外国企業を誘致し、そこで日本企業ががんがん乗り出していったので、
ある年齢以上の人は、そのことを脅威であり驚異として覚えていて、
そのため必要以上に“日本はリッチな国”というパブリックイメージを抱いている人が多いのですが
(なので、日本に来て、その安さに余計にびっくりするよう)、
それもついに崩されるんだろうなぁ、なんて思ったわけです。
“lost two decades(失われた20年)”なんて呼ばれ、
“英国病”ならぬ、“日本病”みたい名称がつけられ、
経済に明るい人の間だけでなく一般常識として世界に流布されるのも、
時間の問題、かもねぇ。
ブログの最大のメリットは、会う前にその人がわかること
私の場合、ダイレクションという立場で仕事をすることもあります。
企画に応じて、スタッフをお願いする。
というと、なんだかぼんやりしてわかりづらいかもしれませんが、
映画で配役を決める、とかそんな感じ。
バシッと決まったときは、予想以上に出来がよくなりますから。
私の場合、書籍だったり雑誌だったり小冊子だったり、と紙がほとんど
(ウェブだとアドバイザー(オブザーヴァー?)やライターとして入ることはあっても、ダイレクションは、ないなぁ)。
ライターだったりカメラマンだったりデザイナーだったりを決めるわけです。
すでに知っていて、間違いない!で選ぶこともあれば、
その方にとってメインではないけれど、実はこれ向いてるんじゃない?でお願いすることもあります。
以前、一見ふわっとした雰囲気のある写真を撮りそうな方に、拝見したご本人のポートフォリオもそんなものがメインでしたが、ちょっとだけガッチリと骨格のある写真が混じっていて、
あっ、これいけるんじゃない!
と思ってお願いしたことも。
そういう変化球の起用がうまくいくのは、新しい引き出しを探し当てたようで、愉しさでもあります。
先日、誌面でクレジットは拝見していて、またそれとなく面識はあったものの、
初めましての方と仕事をしました。
もちろんおおよその傾向は把握していたものの、
お願いした決め手はブログ。
そう頻繁ではないけれど、こちらに日常を投稿してらしたんですね。
もちろん日常といっても間接的には仕事につながるわけですが、
それでも、いかにも仕事!作品!ではない分、逆にその人となりがかわる。
その方はフェイスブックやインスタグラム、ツイッターなどはやっておられず。
ウェブサイトを持ちたい、と思っているものの、まずはブログで、とのこと。
ファイスブックなどのSNS、悪くないんですよ。でも、もっとプライベートのつぶやきに近く、かつコミュニケーションの場で、ここでバリバリ職業を意識して見るってこと、ほとんどないなぁ、私の場合。
いや、結果としてはあるのだけれど、そこそもそれが目的じゃない、っていうか。あまりに前面に出てると引いちゃうし。
そしてSNSの最大の難点は情報が流れること。
アーカイブになっていない、さくっと以前の投稿が見られない(見づらい)
ブログだと、そのあたり見やすい、分かりやすい。
否が応でもその人の世界がしっかり構築されているわけで。
ウェブサイトも悪くないけれど、そこで掲載するものってやっぱり選ばれたものなので、
よそゆきなんですよね。
ブログの方は素に近い。
継続するためには、恰好つけられない、ってのがあるし。
だからこそ、その人がどういう人かがわかる。
一緒に何かをする前に、その手がかりがあるって、とても助かる!なのです。
確かに、メディアで仕事をしている人のなかに、
ブログをやってらっしゃる方もいるにはいらっしゃいます。
いなくはいない、なくはない。
この心理、ものすごおおおおく理解できるのですが、
つい、きちんとしたものを出そうとして、それがゆえに更新の頻度が低くなり、
そうやって出されたものは、隙のない作品、なんですよね。
だから、意外とブログをやっている人は少ない。
仕事以外で仕事をしたくない、という心理的ハードルがあるから。
それはそれでいいのだけれど、
もっと気軽なものであってもいいのになぁ、と感じます。
その日常を切り取ったなかにこそ、その人が出るから。
ごく一部のトッププロは多少性格に難アリだろうと(実際は、むしろやさしい、気遣いをしてください)、
どうしてもこの人に!と仕事をお願いするわけですが、
そうでない場合って、相性とかタイミングとかが大事になったりします(もちろん、いつも確実に及第点のとれる仕事をすることが前提です)。
そんなときに、この人に会ってみたいな、仕事してみたいな、って感じるのにもっとも適したツールはブログなんじゃないか、って思うのです、今のところは、ね。
自分が手がけたものは、自分でも買う
先日、びっくりされたので、逆にこっちがびっくりした件。
でき上がったものはもちろん見本としていただきますが、
それとは別に、私、自分が手がけたもの、書籍なり雑誌なり商品なり、
自分でも買います。
見本としてもらうのは作り手として。
自分で買うのは一般ユーザーとして。
なので、出版社やメーカーなどを通せば安く買えることも実のところありますが、
そうではなく、あくまで、一般のお客として買う。
本屋やオンラインで並んでいるのを見て、
自分の財布を開く、という行為は、
見本をもらうのとはまったく別の感覚。
・目立つな! こういう表紙にしておいてよかったな
・内容から考えると、もう少し高く設定するのもありだったな
などと、それまで見えなかった商品としての気づきが出てきます。
内容がどうこうは、自分で買う/買わないはさほど関係ないけれど、
商品として、お金を払う価値があるかどうか、を客観的に感じるのは、やっぱり身銭を切らないとわからない。
もっとも、できたてほやほやを買うときは、
ただただ、売ってる〜! うれしい!ではあるのですが。
昔、ときどき懸賞に応募して、
するとよく当たっていたんですね、
映画とか、ライブとか、展覧会とかのチケットが。
一度痛恨のミスをやらかしまして。
行きたかったライブだけど、どうしてもってわけじゃなく(どうしてもだったら確実性を重視し、自分で買う、んだよなぁ)、
すると日にちを勘違いしてて、気づいたときには終わっていた、という。。。
仕事で手がけたものを自分でも買う話と、この話は若干論点がずれているのですが、
要は、身銭を切るっていうのは、それがその金額を払うだけの価値があるのかどうか(これは相対的なものではなく絶対的なものにはなるのだけれど)を見極めることにもなるので、圧倒的に真剣度が高くなる、んだよなぁ。