コンペに勝ちたいから協力してください、でも支払いません、とはこれ如何に
びっくりすることに、それを平然と当たり前のように言ってくる人の、なんとまあ多いことよ!
その理由を、コンペに勝たないと、そのプロジェクトは仕事として成立せず、よってコンペに向けての準備の間はそのプロジェクト自体は始動していないので、支払いはコンペに勝ってからだ、と言ってのけます。
その人たち、その“まだお金にならない”仕事をしている間も、自分たちは会社から通常通り給料が支払われている、にも関わらず、外部にはタダで働けというわけです。
外部はタダでいいという根拠は一体どこにあるのでしょうか?
自分たちに不足している部分を外の人間が補うわけで、彼らに支払いがなくても、関わる外の人間には支払う、ってのが然るべき、な気がするのですが。。。
いろんな人に当たったけれど、これ!という案が出なくって。
そりゃそうよ、お金は払わず、アイディアだけくれって、そんな虫のいい話にのるわけがない。
仕事として条件などが成立するまで、知識やアイディアはめいっぱい出すわけがない(それで食べているんだから)。
せいぜい出せるところまで、いわば試食程度がギリギリだと思うなぁ。
挙げ句の果てに、勝手に都合を言って呼びつけたり。
人にものを頼む態度じゃないよね。
私の経験だと、本当に一流の人はそういうことは、こちらが不愉快になることはしない。
自分を一流だと虚勢を張りたい人、自分の所属している会社を印籠のようにちらつかせる人は要注意です。
いったん始まり、最初は自分はよくわからないから、と遠巻きに見ていたものの、
うまくいくと、自分の手柄にしたいのでしょう、
いきなり仕切り始めて、プロジェクトをひっちゃかめちゃかにする。
まあ、こんな目に何度か遭い、
最初の時点で条件を提示しない、情報や知識をタダと思っているところとは関わらないようにしているのが、私の経験値からの結論です。
みんながこうだからこうあるべし!の時代ではなくなった(万歳!)
メディアをはじめ、発信する側はこのことを真摯に受け止めたらいいと思う(↓)。
村上春樹がどーのこーのではなく、煽り商法はもう賞味期限を迎えたってこと。
“話題のベストセラー”とか、映画の“ハリウッドが感動” “全米が涙”とかもそうよね。
そういうの聞くだけで、一気に観る気が失せる。
私は、ジブリ苦手だし、ディズニー苦手だし、
世の中の大半が好き!と信じられているものの大半が得意じゃない。
崇拝している人たちの、苦手だと言ったときになんで?信じらんない!みんな好きだよ!(みんなって誰だよ!)といった理由なき大衆の論理で責められるのが、大衆の論理に従わねば人にあらず、みたいな態度が鬱陶しくって仕方ないのだ。
個人の嗜好なんてあくまで個人の嗜好なわけで、大衆の論理に従う必要なんかないのにね。
あっ、そうなの、で済む話なのに。
でも、私みたいな人は確実にいて、息苦しさを感じていて、
それがインターネットの発達のおかげで声をあげられるようになったのは、本当にいいことだ!
じゃあ、発信する側はどうするかって?
自分がいい!心底いい!と思ったものを、他人がどう思おうが素直に発信すればいいんだと思うよ、なんとなくぼんやりといい!みんながいい!を煽るんじゃなくってね。
受け取る側は嗅覚が鋭いから、本気で言っているかお飾りなのか、そんなのすぐに見抜いちゃうもの〜。
立場が真逆になって初めて見えること
私のやっている仕事のなかで一番長いのが編集(制作指揮、映画でいうと監督)。
裏方の総本山ともいえる仕事で、企画を立てあれやこれやお願いするという流れ。
そこには取材も含まれ、当然、取材する立場となります。
仕事を長くやっていいると、また、イギリスの食研究というとがったことを看板に掲げていると、
取材を受ける立場に回ることもあります。
現在発売されている、40代~50代の女性向けの月刊ファッション誌
「éclat(エクラ)」2017年7月号(集英社)の
“47都道府県 地元の「銘菓」教えます!”もそうでした。
この手のもの、自分が制作する立場なのでよおおおくわかるのですが、
時間も手間もかかります。
ざっと流れはこんな感じ。
・企画決定
↓
・協力者探し+打診
↓
・協力者に取材(アンケートであることが多い。内容はいくつもの項目があります)
↓
・取材結果をとりまとめ
↓
・具体的な誌面構成(足りないものは協力者に追加取材)
↓
・掲載アイテム/店舗などの取材&撮影
↓
・校正(協力者+掲載先への確認含む)
今回もこんな流れで、
回答した中からピックアップされ掲載さたのはひとつですが、表に出ないだけでいくつもの項目に対してお答えしています(この手の企画はたいがいそうです)。
この取捨選択がむずかしい、ってのが通常の制作サイドの気持ちですが、
今回は協力した側なので、へ〜、これが選ばれたんだ!というおもしろさ。
こういうの、頭ではわかっていても体験すると、改めて取材を受ける側の気持ちがよくわかるな〜。
今回、私が回答したのは、現在私が暮らしている“福岡の銘菓”だったわけで、
この地に暮らして5年以上、取材はもちろん下見や自分の興味で、ある程度知っているつもりだったけれど、
自分のなかで整理されていないし、むしろ知らないことが多いことに気づきます。
そして、回答するとはいえ、
自分の記憶だけを頼りにうっかりしたことは言えないわけで、
ざっと下調べをして答えるとなると、
あ〜、そうだった! えっ、こうだったの?みたいな発見も出てきたり。
質問に答えるというのは、
考えていることを言語化するという作業です。
これってむずかしい。
メディアに出ている方が流暢に自らの思いや考えを発することができるのは慣れもあるけれど、
取材を通じて、常に考える、ということを迫られているんだなぁ、と感じるわけです。
その積み重ねは、熟考することにもつながる。
取材される立場に回ると、意識がまったく変わり、テーマについて客観的かつ相対的に眺めることをすることになり、思考のヒダが広がる気がします。
今回は、私にとって今までにあまりないテーマだったので余計に、貴重な機会をいただきました。
外国語にも敬語は存在するし、人を見極める判断材料にも使われるし
ここのところ、続けざまに、
「結局、英語(外国語)は通じればいい」
という発言をする方々に遭遇しまして。。。
今ってそういう風潮なの? 学校教育もそうなの?
私の持論からは大きくかけ離れます、これ。
数日弾丸で、バックパッカー的な旅行に行くならそれでいいでしょう。
でも、ビジネスがからんだり、旅先でそれなりのところに行ったりするのであれば、
たとえ通訳を介するにしろ、挨拶程度はするわけで、
そこでていねいな言い方ができないと、
自分が損しちゃうよ、って思うのです。
増してや長めの滞在や暮らすとなると、ある程度整った言葉が使えないと、
それだと、いつまで経っても(必要以上に)下に見られるよ、って話。
日本語に置き換えるまでもないと思うのですが、
初対面の人に、「お茶はいかがですか?」と聞かれ、
「うん」って答えるかってこと。
「ありがとうございます。いただきます」って言うよね。
ファインダイニングに行って、
「あっ、2人ね」っていうかってこと。
「2人ですが、席はあいていますか?」って言うよね。
教育を受けておきながら、通じればどこへ行っても前者のようなカジュアルさでいい、っていうのは違うと思う。
イギリスでホームステイをしていたときのこと。
そこはミドルクラスの家庭で、幼稚園児がthank youとpleaseと徹底的に叩き込まれていて、
ほかでも何度か、この2つはマジックワードだから(潤滑油であり、心証もよくなる)、と言われ、
確かに住んでいると、そうだよなぁと深く感じ入ったんです。
私自身の経験としては、thank youはすんなり出るのだけれど、pleaseは慣れが必要だな、って感じました。
さらにpleaseを使って文章としてスムーズに使えるようになるのも、意識的にやる時期を経ないとむずかしかったですね。
お茶 → お茶ください → お茶をいただけますか
Tea → Tea please → Can I have a cup of tea, please?
という具合に、段階をふまえてていねいになります。
こういう構造、日本語も同じだと思うんですよ。
なので、語学教育を受けた以上、然るべき場では然るべき言い方をした方がいいわけで。
英語はストレートな表現ではないし、敬語や丁寧語もちゃんと存在する。
親しくなれば別だけれど、初対面では、使う言葉によってクラス(階級)や教育レベルもチェックされるから、むしろ手強いかもしれない。
それを、英語は日本語と違って単刀直入と言うのは、あまりに乱暴過ぎるよなぁ。
こういうの、聞くたびに、それてそれがまかり通っているかもしれない現在の風潮にすんごい違和感。
じゃあ、実際に敬語や丁寧語が使えるようになるための最速にして最短の方法はなにか、っていうと、
私は、1にも2にも文法だと思っています、ネイティブではなく、小さな子供でもない場合は。
結局、これって方程式で、例外はあるものの、
これに当てはめることで1を知って10を知るじゃないけれど、体系的な広がりができ、
応用がきくというもの。
イギリスでは、カフェなどで相席することはちょくちょくあり、
(別段スタッフがそうするわけではなく、お客同士が、ここあいてますか?みたいに聞き合う)、
それに端を発し、会話を交わすこともしばしばで、
「こちらのレディ(私のことね)と今、こんな話をしていたんだよ」
「どんな風にお感じになりましたか」
「さぞ素晴らしいんでしょうね」
「どうぞお持ちになってください」
と、もちろん客層にもよるけれど、初対面だからってこともあり、鼻白むほどのていねいさで話が進んだりする(もっともこれはイギリスだからかもしれない)。
で、ここで私がカジュアルな話しぶりをしていたら、そのレベルの人間と思われ、彼らはクラスが上になればなるほど相手に合わせてコミュニケーションをする、ってことに慣れているから、
「日本から来たの?」「ロンドンは楽しい?」レベルの話に終始する。
でもそれなりの話し方をすると
「最近は、クラウドファンディングでカフェをオープンするケースが多いんですよ。なんせロンドンは賃料が高いですからね」
「スペシャルティコーヒーの総本山はあの店ですよ。機会があったら行ってみられてはいかがでしょう」
みたいな突っ込んだ話ができる。
なので、適所に応じた話し方をするってことは、
自分を高くみせるため。というより、そういう人間として扱ってもらい、より掘り下げた話ができるから。
なので、決していつでもどこでもていねいであればいいってことじゃないですよ。
それは日本語でも同じですよね。
要は、場にふさわしい言葉使いが必要ってこと。
教育っていうのは、通じればいい、から踏み込んだものを与え与えられる機会だと思うんだけどな〜。
おあいにくさま。もう献本はしない
本日、6月5日『ドイツパン大全』発売です!
(私は編集、制作指揮、映画でいうと監督という立場で仕事をしました)
で、本を作ったら、次は売る!の段階に入るわけでして。
数年前までは、興味をもってくれそうな雑誌や新聞に、新刊紹介や書評として取り上げて欲しくって、せっせと見本を贈呈(献本と言います)していました。
まあ、今と違って、広く一般に向けて宣伝できる場が限られていましたからね。
でも、もう今はしません。
その理由は、SNSなどを通じて自分で告知できるようになったことが大きい。
そこで興味を持ってもらい、メディアを通じて広く宣伝したいから、と連絡をいただければ、もちろん喜んで見本を贈ります。
実際に目を通して、うん、いいんじゃない!と判断した上での紹介は、それは本当に素直にうれしい。
献本をやめたもうひとつの理由は、制作側の温度と受け取る側の温度差。
全部が全部ではないのですが、
常時たくさん献本されるからでしょう、
送られて当然、またか〜といった、あ〜、はいはい、みたいな態度、
捨てられたり(もしくはそれに近い)、ゴミの山にうずもれたりといった具合に、ぞんざいに扱われるのを間近に見ると、
大事な1冊をそんな風に扱われるぐらいなら、ちゃんと欲しい人に届けたい!
そして、もう感覚がマヒしているんでしょうね、くれないの?といった態度で迫られると、それってどーなの?って首を傾げてしまう。
つまるところ、無料のものは無料の扱いを受けちゃうんだな〜。
なので、ブックオフとかで売られる方が全然マシ!
いやむしろ喜ぶべきこと。
だって一度は欲しい、と思って買ってもらったものでしょう、それはやっぱりありがたいわけでして。
にしても、SNSなど自分で発信できるツールが持てて本当によかった!と思います。
ムダ撃ちをしなくてよくなったので、資源の有効化にも一役買えるんじゃないのかな〜。
ほめてるつもりが、結局はよそ者扱い
外国人、はっきり言えば白人、になるんだけれど、
日本に長く住んでいたり、言葉が流暢だったりすると、
本題からそれてそこをそめほやすのに時間を割くって、何だかなぁ〜。
・日本語うまいですね
・お箸上手に使いますね(箸を使うのは日本だけじゃないし、母国でも都市部に住んでいたら、中国料理を筆頭にそういう料理を食べる機会もあって使えるようになっただろうし)
これ、ほめているつもりだろうけど、結局、よそ者としてしか見ていないことの表れ。
こーゆーの要らないから。
本題を話すことに時間を使ってよ。
自分が外国に住んで、実際に生活にもなじんで、当たり前のように暮らしているのに、
・○○語うまいですね
・カトラリー上手に使いますね
って言われたら、そりゃそうだよ、それがどーしたの?って思うんじゃないかな。
でもって、同じことを日本人(もしくは思い切ったことをいうと有色人種)がいっても聞き流していることを、
白人が言うと、必要以上に過大評価してありがたがり、はは〜ってひれ伏すのも、気持ち悪くって仕方ない。
本を作った次は、売る! 商業出版である以上やっぱり売れて欲しい!
やっとお目にかかれました『ドイツパン大全』。
発売日が6月5日なので、ひと足早く手に取って見ることができるのは(数少ない)制作サイドの特権ということで。
これまではページごとにみていたものがこうやって本という形に収まり、ついに初見。
手前味噌ながら、内容もだけれど、デザインも写真もいい本だなぁ。
さて、本を作ったら、今度は売る!ってことも大事なわけで。
いやらしいことを言うと、本書については私は著者ではないので、重版になったところで一円も入らないわけだけど、でも、商業出版である以上、欲している人の手元に届いて初めて仕事が完結する!と考えているのです。
『ドイツパン大全』は税込みで3000円以上するし、とんがった内容ゆえ誰でも彼でもに喜んでもらえる内容とは思わないけれど、
それでも、ドイツパンに興味がある人、パンが好きな人、パン職人を目指す人、ドイツの食が恋しい人、今の世界の食シーンを知りたい人etc、ドイツパンをキーワードに、こういう本が欲しかった!って人は必ず一定層はいるはずで(だからこそ出版となったわけで)、そういう人たちにちゃんと届けたいなぁ。
紹介してもらったり、イベントをしたり、まずは気軽に知ってもらう場が欲しいなぁ、と切に願っています。
ぜひ!という方、ご一報ください!