人を動かす立場になるなら飲み会/食事会のとりまとめから
お花見シーズンですね〜。
宴にはとんと無縁ですが、桜がぼんやりとかすむように風景を薄ピンクに染め上げる時期はそれだけでなんだか得した気分になります。
なぜか今思い出すのは、当時近所でよく行っていた(散歩がてら、お茶したり、バーに行ったり、ランチしたり)東京・目白の椿山荘に、大きなガラスに顔をくっつけて庭園とその向こうの春景色を眺めている自分。
この時期は、お花見、歓迎会など飲み会や食事会など集まる機会が多いかと思います。
会社で“できる社員”の試金石が幹事とかなんとか言われています。
これと本質的に同じかどうかは????ですが、
これから会社を始めるとかスタッフを雇うとか、自分の下に人がいる立場になる人は
とりまとめ役をやっておいて損はないと思います。
気のおけない人の飲み会や食事会といった集まりの場合。
まずは、どんな料理がいいかきいたりしますよね。意見は言うけれど、押し付けない人、アレルギーを伝えておいてくれる人、何も言わないでいて決まってからあれがよかったと言い出す人、さまざまです。
出欠の返事にしても、すぐにレスする人、ぎりぎりにならないと返事しない人、せっつかれてから初めて伝える人、その時点では????だけどいついつまで返事するといってちゃんと連絡をする人、本当にさまざまです。
そして、会費が決まっていれば、おつりがないように用意してくれる人、カードしか持参しない人、これもいろいろ。
一番困るのはドタキャン。やむを得ずってことがあるのも事実ですが、それは自分の責任とお金を支払う人、あくまでもキャンセル分を払わない人、これも反応がカラフルです。
ざっと思いつくだけでもこんな感じ。
たかだか4人とかの集まりでも、やったことないとなると、実に骨が折れることです。
慣れればどうってことないんですけど、これ、向き不向きもあるでしょう。
何度やってもどうにも、であれば、適性がなかったと判断し、
人のマネジメントは関わらないというのもひとつの選択肢です。
それに、人を動かす以前に、とりまとめ役をすると、自分がどう振るまえばいいのか、身にしみてよくわかりますよん。
ひょいと立ち寄れる本屋がない!
昨今、私が本や雑誌を購入するときの行動パターン
- これ!とピンポイントで決まっているもの → アマゾン
- 時間にゆとりがあってひとおり(興味のない分野含め)眺めたいとき → 大型書店
- 雑誌&ベストセラー・チェック → 駅前や商店街の本屋
で、3の激減ぶりがすごいね!
大型書店の場合は、商業施設の上のフロアだったり、1棟まるまる書店でも行きたい売り場は上のフロアだったり。この上への移動というのがなかなか面倒でハードルが高い。
時間に余裕があって目的意識がないと行けない。
なので、ああ、あの雑誌買っとこ!(コンビニで売ってないものは特に!)とかちょっとなにか読みたいな〜、なときは3は便利なんだけれど、私はよく利用する駅でもここ1、2年で2軒なくなったことでひょいと寄れる本屋さんが全滅してしまい、まいったなぁ、な状況なのです。
そういえば、東京駅とか二子玉川駅とか、あと品川駅とか、いずれも駅構内ではあるんだけれど、すき間スペースを使用したような本屋さんが駅構内にできてて、乗り換え途中で買ってるなぁ。
この手の書店、本当に便利で、今、なんか欲しい!(雑誌とかベストセラーとか入手しやすいもの)をおおいに満たしてくれる。ちょっと電車の移動で何か読みたい、の需要もあるし。
日暮里駅も改装したときに駅に本屋さんができて、とても便利だった記憶がある(界隈に住んでいたとき、ここから成田に向かったり、埼玉方面へ向かったりと長い電車移動があったので)。
現在、私が利用する頻度が高い駅は新幹線の駅でもあるのだけれど、それこそ新幹線の移動は長いわけで、移動の間になにか読もう、という需要はないのかなぁ。
(駅構内にも前述したような本屋さんはなかった気がする)
もしくはそれを狙った売り場作りもできそうなのになぁ。
かけこみおみやげとかけこみ本や雑誌なんて組み合わせで売り場も作れそうなのに。
正直、本の流通システムには首を傾げるところが多いし、デジタルで充分だったりする部分も大きいから、紙媒体の減少は自然な流れだけれど、でも紙媒体がなくなるわけではない。
デジタルはあらかじめ、これ!と狙い撃ちするには便利だけど、さ〜っとならしてみて、これ読んでみよっかな、は現時点では書店の方が有利な気がします(っと、すでに私の感覚が古いのか?)。
“ちょっと時間を潰すため” の“さくっとブラウズして定めたい”
本屋さんにとって、そこの需要ってまだあるんじゃないかなぁ。
まあ、勝手なもんで、自分が利用するものは生き残って欲しいな、と思うのですが、淘汰されるのは自然の成り行きでもあるわけで。自分のスタイルを変える方がず〜っと早いんだろーな。
更年期障害に備える、としますか
生理が引き金で先週の木曜から体調がイマイチ。
日々の気温や気圧の変化も影響しているみたいで、
月曜日からようやく日常に、と思いきや、
貧血&低血圧の症状もあって、横になりたくてなりたくて仕方がない。
夜は夜で寝て、昼間も2〜3時間寝ては起きてを繰り返し。
で、ふと、これって更年期障害のひとつじゃないの?ってことが頭をかすめました。
プレ更年期は迎えなかったけど、更年期障害は避けて通れないだろうし、年齢的にいつ起こってもおかしくないし。
よくある更年期障害のチェック項目を見ると、どうもそうではないみたい。
(むしろ現状は生理によるものだろうなぁ。今回は生まれて初めてぐらいの生理による体調不良だからなぁ。。。)
いや、自覚がないだけなのかな。
かかりつけといえる婦人科、漢方薬局、心療内科を探しておくとしますか(遠方に引っ越すと、こういうことを一からやらないといけないのが難儀だなぁ)
修行って言ってるけど、大半は修業なんじゃないの
たま〜にですが、托鉢の方に遭遇することがあります。
寺院に行かずとも僧侶の方がわざわざ出向いていらっしゃる、そんなありがたい機会を得たように思え、そのときの財布の中身次第ですが、1度の食事代ぐらいのお布施をします。
すると、「施財の偈」を唱えていただいたり、お辞儀をされたり、「かたじけない」と心の中でつぶやいて、その場を去ります。
で、ふと思い出したこと。
つまり“修行”を“修業”と綴ってあるケースが実に多いんですよね。
・老舗の料亭で修行した
といった具合に。
本来であれば、この場合の“しゅぎょう”は
“学問・技芸を習い修めること”“(職業的な)生業を習得すること”なので、
・老舗の料亭で修業した
とするべきところ。
ですが、“道を極める”という精神的なニュアンスが第一義であれば、
・老舗の料亭で修行した
でも間違いではなんですよね。
ただ、実際のところは“修行”じゃなくて“修業”でしょ!っていうケースが多く見受けられ、
・ 修行 > 修業
という暗黙の了解、だから“修行”を使った方が上!という図式がどこかにあるように思えます。
あいにく、現時点で私がダイレクションする立場では、ほとんどの場合“修業”に修正しています。
(本人が“修行”とする人に限って“修業”だったりする)
言葉は時代によって変わります。
今後、“修行”が一般化すれば、それまであった“道を極める厳しさ”の意味合いが薄くなり、“修行”も現在のところの“修業”になる日が来るかもしれません。
そのときは“修行”よりもより厳しい“しゅぎょう”を意味する言葉が登場するかもしれませんね。
ピルという選択をもう一度考えてみる
週末は寝込んでいました。
生理痛、ではないのですが、生理が引き起こす激痛の腹痛と貧血、そして低血圧と気象病ともろもろ重なったみたいで、起き上がっているのがとにかくつらい。
そんなときは無理をしない。
当たり前のようですが(本当は週末に進めておきたかった仕事も放棄)、
これ無理してやってもいいものはできないし、結果、その分休めばよかった、になるので。
体が欲するままにしています。
木曜から調子が悪く、ようやく持ち直してきたかな〜。
久しぶりに長丁場でした。
こういうこともあるよね。
ただ、今回はヘビーで、原因がわかっている以上、低用量ピルの服用を改めて考え始めた今日この頃。
一時期、服用していた時期があり、私には合っていたようで、副作用らしきものはあったもののそれを軽〜く上回るラクさ! 予測可能な自分の体調をコントロールできる素晴らしさ!は医学の進歩よ、ありがとう!だったので(ただ、毎日同じ時間に飲むのが、フリーランスには難儀なんだよなぁ)。
年度替わり、季節の変わり目、みなさまもご自愛のほどを。
粗品だったら要らないよん
フリーランスという仕事柄なのか(いや、むしろフリーランスの方が多いのかな?)、私の特性なのか、形式ばったことはしないので、
「粗品ですが」みたいな場面に遭遇することってあんまり、ない。
年賀状のやりとりも基本しないし、旅行に行ったり帰省したりでおみやげを買うこともしない。
もっとも、タイミングよく
「こういうの欲しいって言ってたな〜」
「あの人、この手のものに目がないから」
ってものに出くわし、その人に近々会うことがあれば買って渡したりはします。
渡すときに、「粗品です」って言うこともないですね。
「気に入ってくれそうだから」「これ見たら思い出しちゃった」みたいな言葉を添えます。
まあ、ときどき冗談で(冗談ですよ!)「賄賂です」って言うこともあるけど。
これって、よく考えたら自分が言われて好きな言葉なんですよね。
へりくだられるのって好きじゃない。
そのまんまでいいと思っているから。
それに高価な品物を「粗品ですが」なんて言われたり、
廉価な品物を渡したのに「先日は佳品をいただきまして」なんて言われたりすると、
慇懃無礼、嫌みだなぁ〜って感じるから。
ちなみに、同じ商品でも、
粗品は(自分を)へりくだっていう言葉、佳品は(相手を)尊敬して使う言葉です。
佳品は“かひん”と読みます。
ただ、粗品でいい場合もあるのも事実で、
お詫びはどんなに高価な品物でも相手の気持ちを慮ると粗品だし、
告知のひとつとして不特定多数の人に配る、ようなもの、新店オープンとかでタオルやボールペンを配ったり、なんかは粗品でいいかな〜。
私は、今の時代は基本ニュートラルでいいんじゃかいかと思っています。
変にへりくだる必要はない(へりくだるのもへりくだられるのも苦手だ!)
その基準って自分で言われてうれしかったり納得できる表現なんじゃないか、と。
「これおいしいかったから、ぜひ食べてみて!」
「こういうの似合いそうだな、と思って」
なんて言われると素直にうれしいもの。
この人の考え方、私にとっても近い!
アメリカのコメディは苦手だけど、アメリカのおバカは大好き!
そんなおバカなノリをヒップホップに持ち込んで、世間をなめているようなひょいひょいっとした軽いフットワークは、植木等の無責任男に通じるなぁ〜、なんて思っています。
その(一見テキトーに見える)ノリと、人種とかジャンルとかそんなものをひょいっと超えちゃった感じにぐっときた、ビースティ・ボーイズの『Licenced to Ill』はやっぱり革命的だったなぁ、と思うわけです。
で、そのビースティ・ボーイズのAD Rockが若者へのメッセージってのが、私のスタンスにすごく似ていて、おっ!と(↓)。
・他人の意見なんてうっせー
・気がつく人は必要なタイミングで気づく、押し付ける必要なし!
まったくそうだと思うよ! よく言った、AD Rock。
まあ、上記記事にはオチがちゃんとあって、これがまた“らしく”て笑っちゃうわけだけど(笑)。