どうしようもない羨望と、底沼のような嫉妬の苦しさと
文章や構成をはじめ、編集者や彼らを擁する出版社や、社会やそもそも働くことに対する認識の描き方も、今ひとつ甘いなぁ、もう少し練った方がよかったのになぁ。
編集やダイレクション、ライティングを生業としている私はそう感じ、やや残念な読後感だったのですが、それを補ってあまり余りあるのが、人間の嫉妬や羨望というものをこんな風に正面から綴った点。
こんなの、滅多にお目にかかれないのでは。もうね、読んでて胸が押し潰されそうになる。
それだけで読む価値がある本です。
私は1969年生まれですから、このタイトルのもととなった漫画『風と木の詩』をリアルタイムで読んだ人もいるのでしょうが、
私の場合、最初(小学校にあがってから)にふれて、夢中になって読んでいたのが少年漫画で、少女漫画は小学校中学年から。
少女漫画の世界には、すでに身近なリアリティを感じさせるもの、繊細な心理描写を描いたもの、私にも描けそうな絵の漫画が出てきていて、そういうのが好きで、竹宮惠子も萩尾望都はまず絵になじめず、壮大なドラマに食指は動かず(同じ理由で『ベルサイユのばら』を読んだことがないし、思い入れはまったくない)。
ただ、情報としては知っていて。
先日、ラジオ番組で、この本が紹介されていて、いてもたってもいられなくなり、すぐに購入した次第。
竹宮惠子のデビューから『風と木の詩』の連載を開始するまでが内容のほとんどで、
「大泉サロン」と呼ばれた梁山泊の中心人物だった増山法恵、竹宮惠子と萩尾望都の関係性についても当然ふれてあります。
私は後追いで、30歳を過ぎて初めて萩尾望都の作品を読んだんですね(竹宮惠子の作品はいまだ読んでいない)。
どの時代の画風もやっぱり好みではないのですが、でも圧倒的にうまい。
絵もうまいければ、構成や展開も、なにより話がおもしろい。よくこんなストーリー思いつくなぁ、なわけです。
この人は漫画が好きで好きで、漫画もこの人の才能が好きで好きで、その幸せな融合なんだろうなぁと感じずにはいられない(だからこそ今も現役なんだろうなぁ)。
それを天才と呼ぶのかどうかはわからないけれど。
こういう人はひたすら自分の内に向かう、んだと思うんですよね。
他人の作品を眺めても、評価を耳にしても、
“ああ、そうね、こういうところはいいわね”
って気負いなく、淡々とありのままを受け入れるんじゃないのかなぁ、って思う。
でもね、フツーの人は、これやるんだ、やりたい!という天啓も受けないし、
他人の評価もおおいに気になる。
竹宮惠子だって充分に能力があった漫画家だと思うのですが、
でもほっといても勝手に体が動く、アイディアがあふれ出る、天才型じゃないんですよね。もっと理知的。もっと計算する。
頭が勝っているからこそ、
萩尾望都という存在とひとつ屋根の下にいて、
本能的なその仕事ぶりを目の当たりにして、文字どおり、狂いそうなほどの、想像を絶するほどの複雑な感情を抱いたんだろうなぁ。実際に心身に異常をきたしたわけだし。
そのあたりが綴られています。
そしてこれを書くのに40年もの歳月がかかった、というのが、その深さを物語っていますね。
この嫉妬や羨望むき出しの感情を辿ることこそ、この本の価値だと思います。
才能あふれる人物と、同じ世界にいて、身近にいて、高い能力はあったものの(だからこそ才能を見抜く力のあったわけで)天賦の才に恵まれたわけではない人物との関係性。
そんなことに思いをはせて、深いため息をついてしまうのです。。