ボヘミア狂想曲をきっかけに、若き日の怒りが蘇る
これが正しい、ボヘミアン・ラプソディへのアティチュードでありアプローチです(↓)。
バカみたいに同名映画が持ち上げられ、当時の日本でのヒットも取りざたされ、
つくづく型にはまったもの、様式が好きなんだなぁ、と感じた次第。
私は1969年生まれで、
画風が苦手だったこともあり、萩尾望都も竹宮惠子も読んでいないし、
ベルばらもちらっとめくって、そのひらひらお姫様感がダメで、読まずじまい。
大河ロマン的なものが、子供の頃から本当に苦手なんだと思う。
なもんで、ハードロックのわかりやすさ、
キンキン高い熱唱ボーカルとかわかりやすい衣装とかも、
ん? これって様式美最優先、歌舞伎じゃん!
(デーモン小暮閣下は正しいとつくづく思う)で、
定型になった途端、飽きちゃうので、食指が動かず。
日本で最初にクイーンがブームになったのは、
今いろんなところで指摘されているように、少女漫画の世界を体現化、
があって、そこには様式美、決められたことへの安心感(水戸黄門の印籠のようなもん)があるわけで。
私は、それでいいのかよ! なんだかなぁ、と思っちゃう方で、
鼻白むというか、ムズムズした違和感を感じてしまうんですよね〜。
で、昨今のボヘミアン・ラプソディの大ヒットで当時の事情を知る人の登場なんかを眺めていて、
はっと思い出し、怒りが蘇ったこと。
ときは1995年9月。
本当に6月に予定され、予定もあけてチケットもとったザ・ストーン・ローゼズの日本武道館公演。
ギタリストのジョン・スクワイアの腕の骨折(だったと記憶)で中止&延期になり、その振り替えが行われたのが9月で、
これ、どうにも都合がつかずいけなかったんですよ。。。
1989年の初来日に行けなかった身としてはどうしても、だったのに、またしても
(夜のヒットスタジオにも出たんだったな)。
で、早くライブ評が読みたかったので(当時はネットが普及していない時代です)、
忘れもしない、朝日新聞を買って、ライブ評を読んで、怒り心頭、怒髪天。
よっぽど殴り込みに行こうかと思ったのです。
(が、ライターは朝日新聞の社員じゃないから、行ってもいない)
洋楽はハードロックが定石で、こうあるべき!ってアホか、ってね。
それまでも、読むたびになんだかなぁ、と思っていたけれど、
いわゆる大御所とかわかりやすい来日公演でなく、こういうインディものも朝日新聞では扱っていて、
その若い者を理解しています、寄り添っています的な態度に欺瞞を感じていたし、
そのローゼズ評をした音楽ライターも、当時、すでに大御所とされていた人で、
ローゼズ評が的外れもいいところだったんですね。
どう的外れだったか、というと、ボーカルが下手だ!ってことを繰り返していたんですよ。
おいおい、そんなの、デビューしたときからわかっていたことで、
もっというと、イアン・カーティスが亡くなり、ジョイ・デヴィジョンが解体し、ニュー・オーダーになったときにバーナード・サムナーがヴォーカルをとるようになった
マンチェスターの系譜でもあり、すでにその時点で15年経ってるじゃん!
(もっというと、もっと以前にチェット・ベイカーが歌を歌う人間は、歌がうまくなければ、みたいな概念をとっ払ったじゃん!)
ねえ、あなた、曲がりなりにも音楽の聞き手のプロ、なんだよね、 評論家なんだよね。
15年の間、何を見てきたの? 何を聞いてきたの?
ハードロックの様式にすがっている間に、時代は変わったんだよ!
ハードロックの定型をいまだに基準にしてるの?
歌がうまい、演奏がうまい、それは必要条件じゃなくなったんだよ!
年寄りは引っ込んでいてくれ!
こういう年寄りを、音楽ならなんでも同じとばかりに、
ネームバリューに釣られてありがたがって担ぎ込んだ朝日新聞よ、
お前もわかっていない!
(そういえば誰がライターだったか忘れたけれど、フリッパーズ・ギター解散の際も今どきの若者は無責任、なんてトンチンカンな記事を掲載したんだったな)
こんなのライブ評でもなんでもないよ!
文章を書くこともわかっていないし、批評もわかっていないし(批評とは所感や好き嫌いを述べることではない)、とにもかくにも時代感覚が大きくずれている、現役じゃないよ、とっとと引退したら?
こんな人がいた雑誌なんて、すぐに潰れるよっ(実際に3年後に廃刊となった)
このときのライターが、クイーンの日本での人気が出たのを後押ししたとされる雑誌出身者で、
昨今のボヘミアン・ラプソディ・大ヒットで、思い出した次第。
このときの怒りは今でも鮮やかに思い出す。
思い出すと怒りがまんま蘇るなぁ。
かく言う私も、年寄りは引っ込んでな!と思われる年齢になりました。
若い時分の自分を監査役として据えおいて、
わかったふりも、媚びつらうのも、自分の物差しを振りかざすのも、違うんだよね。
知ろうという態度、知らないことに出くわしたら教えて、という、ニュートラルな態度でありたいと思います。
既存概念を疑え、ってね。