書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

“女性としては“じゃなくって、“私は“って言ってよ

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育った家庭も、学校も、職場も、リベラルな環境でず〜〜〜っといたので、性差に疎い。

抑制がなかったから、考えたこと、あんまりないんですよね〜。

なもんで、「あのときのあれ、女の人だからバカにされてたんだよ」と指摘されるまで気づかないし、女性が輝く社会とかっていわれても、こんなの男性も女性も中性もないんじゃないの?って思うし(そもそも輝く、って何なのでしょうね)、女性のための○○っていうのも、あ〜って気分になっちゃうし。

 

私は、男性と女性とは動物/生物学的には別の生き物だけれど、思考とか権利とかなんやかかんやらは(ほぼ)同じだと思っています。

 

だから、

「女性は地図が読めないから」とかいわれても、「私、地図読めますけど〜」だし、

「女性はこういうことされるとうれしい」ってのがうげーってこと多いし。

女性は、って枕詞がつくことに???なことが、うんざりするほどたくさんあります。

だって女性も男性も関係ないんじゃないの、ってことが大半なんだもん。

 

 

この人たちって、なんで女性は、っていうのかな?

それって自分のことでしょ? だったら、私は、って言えばいいじゃない?

 

“女性はこうだから”という隠れ蓑をはがすと、“こうしてよ”や“私はこう思う”が透けてみえる。

「私、地図読むの苦手だから、お願いね!」

「私、こういうことしてもらうと、とってもうれしい」

って、なんでストレートに言わないのかな?

それだと、やってくれくれ攻撃になっちゃうから? 自分の発言に責任をとりたくないかな?

遠回しにお願いするよりも、自分でできるようになった方が早い方もたくさんあるんじゃない?