書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

Facebook、大丈夫かぁ

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積極活用はしていなくって、なのであんまり投稿もしない。

自身のブログ記事のシェアするのと、

気になった記事を自分のところにシェアしておくのと、

情報収集の手段として、

いわばスクラップブック的な使い方を、私はFacebookでしています。

 

で、ですね、ここのところ、と〜〜〜っても気になっているのが、

フォローしているメディアとか広告であがってくるのが、

「外食しましょう」

「お出かけしましょう」

といった外出をうながす内容。

 

平常時と変わらないものを流すって、

ううううう〜ん、どーなの?

 

この緊張感を伴うときに流す内容が違うんじゃない。

“家で過ごす”を基準に切り替わっていないのが不思議。

そういう契約(条件?)だから期間中はあらかじめ予定されていたものをシェアする、なのかなぁ。

 

つい最近、ラジオ番組で、すでに延期は決まって日数が経っているのに、

「〇〇は2020年東京オリンピックを応援しています」みたいなCMが流れて、ぶったまげて、
「担当者は何をしているのか? 一度決めたら、やりっぱなしなのか? 大丈夫か、この企業?」と思ったのと、同じ仕組みなのかな?

 

個人はともかく(それもどーかと思うが)、平常時同様の“お出かけ推進”内容を流す/流させるのって、企業もFacebookも神経を疑っちゃうなぁ。

他のソーシャルメディアでもそうなのかなぁ。

 

この週明け、朝イチでしたこと

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昨日、3月29日(日)、東京地方は恵みの雪。

 

引っ越し前後のバタバタ(クリーニングなしで明け渡されたDIY物件なので、荷物の段ボール箱を開ける以前に清掃にえらく時間がかかる)で、

世事に疎い私ですが、

さすがに、まずいよなぁ。

 

この週明け、まずしたことは、今週半ばに入っていた出張はやめたほうがいいのでは、という打診。

 

私自身の状況は、というと、

幸い、というか、リモートワークをずっとしてきて、2月上旬に東京に戻っても同様。

ウェブ会議などを活用し、なるべく会わない(理由は現状と違いますが、、、)。

DIY物件で、掃除など家でやることが山積みだったのも、

気乗りがしなくって、仕事関係の会社や人に挨拶に行っていないのも、

2月は友人たちとお互いの地元(大きな繁華街は落ち着かない、のが理由でしたが。。。)で会ったりしていたものの3月はタイミングが合わなくってできなかったのも、

取材があっても場所は静岡などで車移動で都心に出ていないのも、

出かけるとしてもラッシュアワーはなく、かつ渋谷や新宿、銀座などの繁華街にほとんど行っていないのも、

 

結果、今となっては、お手本のような閉じこもり生活を送っているわけですが、

だからといって、ね。

 

自分が罹患することよりも、

元気なだけに無自覚の罹患状態となっていて、自分が媒介となるのは可能な限り、避けたい。

結局、ウイルスが自動的に広がるわけではなく、人を介して人が広げるわけだから。

 

私自身の認識は、

・とにかく人に接触しない

 ↓

・集わない

・移動しない

 

なので、今回の出張はキャンセルにしたほうがいいのでは、という提言。

思っていても、向こうが言い出しにくいかもしれないし、先にこちらから。

こういうときの受け止め方は個人差があるので、どういう認識かわからなかったので確認したかったし。

 

結果、「今は踏ん張りどき。見送りましょう!」となり、安心しました。

 

 

そんなやりとりをしている真っ最中に、志村けんの訃報が入ってきました(↓)

NHKのラジオをつけていて、速報で入ってきました)。

www3.nhk.or.jp

 

不謹慎なのは重々承知で言うと、

志村けんの死は、これまで発せられてきたどんな言葉よりも衝撃度が大きく、ようやくリアルなものとして危機感を持った方もいるのでは。

国民的スターの、最期の、最後の大仕事だったのかもしれません。

 

そこはかとなくのしかかっていた肩の荷が下りました

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引っ越してきて1カ月半経って、やっとご近所にご挨拶に行き(↓)、

ricorice.hatenablog.com

 

引っ越した先でのご挨拶もさることながら、

物件が決まって2週間弱という短い時間での引っ越しということもあり、以前住んでいたところのご近所にご挨拶するいとまもなく後にしてしまったことが気にかかっていました。

気がかりではあるものの、ちゃんとした(?)連絡先も知らないので、そのままにしてしまっていました。

 

その直後に、仕事で以前住んでいたところに赴く機会があり、

自分で交通の手配をしたので、なるべく廉価で抑えたいのと、時間に余裕を持って動きたいのと、でとったら、うまい具合に時間が作れたので、

到着したその足で、遅ればせながらご挨拶に回りました。

 

連絡もせずに行ったのですが、ご在宅でよかった!

いちばんご近所でいちばんお世話になったお宅では、突然だったにも関わらず、おうちにあげていただき、お茶をいただき、しばし談笑。

外出なさろうとしていたご主人とは玄関で出会い、そのまま家の中に引き返され、普段は寡黙な方だったのに、奥様と一緒にいろいろお話しできて、うれしかったな。

 

古いエリアで、住まい自体はちょっと離れていたのですが、町内会長にもたいそうお世話になったので訪ねたら、あいにくお留守。

こういうことは予想の範疇だったので、置き手紙を残して後にすると、ご夫婦でご自宅に戻られるところにばったり!

 

びっくりしました!

住んでいたときに外で会ったことがあるのは1、2回。

しかも、それまでは奥様だけだったのに、この日はご夫婦がご一緒。

少し立ち話をして、お世話になったお礼を直接言えました。

 

見事にすべてのお宅に対面できちんとご挨拶できて、心底安心しました。

気になりつつ、見ないふりをしていたけれど、

引っ越し先のご近所へのご挨拶は、気になっているならした方がいい、というアドバイスに従って、やってよかった!になったので、

やっぱり気になっていることに目をそらさずにやっておこう、という意識になり、

ちょうど機会が目の前に現れたので、以前の住まいのご近所にも挨拶にうかがえて、本当によかった!

 

「いつでも、またいらっしゃい」の言葉をどこのお宅でもかけていただいて、それもうれしかったな。

 

 

今どきは必要ない、の声が多数だと思うし、

私だって、普段密接なつきあいをしたことはない。

家を訪ね合ったこともなければ、メールや電話といった連絡先も知らないところがほとんど。

知っている方ともやりとりをしたことは、よっぽどの要件のときを除いては、ない。

外でたま〜に会ったときに挨拶をする程度だったのだけれど、

それでも、引っ越してきてすぐに挨拶にうかがって、自分の周囲にどんな方々が住んでらっしゃるのかを確認したことで、どこか安心していたのも事実、なんだろーなー。

 

ほんと、これまでお世話になりました。

つくづく、いい方々に囲まれて暮らしていたんだなぁ、とじ〜ん。

 

 

引っ越し、って物件そのものや、そこがどんなエリアか、といったスペックも大事だけれど、実際に暮らして感じる安心感や心地よさみたいなものは、周囲の方々との関係性の気というか波動みたいなものが左右するのかもしれないな。

 

これまで私が自分の意思で引っ越した際の決め手はカンのようなもの。

物件やエリアそのものをきっちりチェックしないで「あっ、ここ!」と決めてきたわけだけれど、どこでも大家さん、管理会社さん、不動産屋さん、周囲の方々に恵まれたのは、本当にありがたいこと。

ふと思ったのは、決め手のカンには、そこに住んでいる方々の醸し出す気というか波動みたいなものを察知し、「ここ、大丈夫、安心」と判断してきたからなのかもしれないな。

 

こういうのって、言語化がむずかしいけれど、人との関係性で、気が合う、安心できる、みたいなものと同じようなものが、対エリアに関してもあるんだろうな。

 

アナログな郵便物を復活させてもいいかな

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以前、1990年代に10年住んだ家を思い立って訪ねたときのこと。

当時住んでらした大家さんご家族はすでにいらっしゃらなかったものの、息子さんがいらっしゃいました、しかもたまたま。

お互いに存在こそ知っていたもののお目にかかったのは初めて、でした。

 

大家さんからお話を聞いていたので、私が大家さんの息子さんの存在を知っていたのは当然として、向こうが名前を伝えたときに「ああ、長い間(住んでくださって)ありがとうございました」とおっしゃったのは、遺品整理などで年賀状があったから、だと。

 

 

私が年賀状をやめるまで、5年前ぐらいまでは年賀状のやりとりはしていたんですよね〜。

そうか、大事にとってくださっていたんだ。じ〜ん。

 

高校の同級生で恩師に年賀状を出し続けている人がいて、恩師も大事に保管なさっていて、そうかぁ〜、と感じたのは去年の同窓会のときだったな。

 

 

お義理の年賀状を復活させる気はさらさらないけれど、年に一度ぐらい感謝や近況を伝える機会としてはいいかもね。

クリスマスカードをくださる方の中に、カードとともにその年の出来事をA4の紙一枚にまとめて綴ったものを同封なさる方が何人かいて、そういうのも、いいかも。

 

郵便物を書くのは、なかなか手間がかかるけれど、

年賀状が私という存在を認識してもらうのに役立つことが身をもってわかったし、

デジタルがもっと進んだら、そのときこそアナログを復活させよう、と思った日でした。

 

“自分は正しい”を言外に叫んでいる人たちの気持ち悪さ

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子どもがいない、会社勤めをしていない、テレビをおいていない、etcで、

もともとがリモートワーク基本、人との接触がとても少なく(内向型だから)、影響を受けにくいからでしょうが、

新型コロナウイルスのニュースもどこか遠くで眺めているようなところがあります。

 

とはいえ、自分は感染しているかもしれないし、元気だから無自覚かもしれないけれど、人に移すとまずいなぁ、という意識はあって、

変わったことといえば、いちいち手洗いをするようになったのと、お店に入るときなどは設置してある消毒液を利用するようになりました。

 

うちもそろそろなくなりそうだけれど、トイレットペーパーは相変わらず近所の店頭で見かけない。

むしろ、25日の夜以降、ぶり返したのか。

まあ、仕方ないよね〜、この状況だもの。なくなったらなくなったときに考えよう。

 

 

新型コロナウイルスの影響で、マスクやトイレットペーパー、食品が買いづらい状況が続いていて、

「私は、必要だから(備蓄用でなく)買いに行ったのになかった! どういうこと?」

「棚に少なかったから慌てて買っちゃったじゃない、みんな、落ち着いて!」

といった投稿をSNSにたくさんあがってきて、心底うんざり!

 

そんなに「私はパニックに陥っていない。私は正しい!」を主張する必要があるのかしらん。

「買えなかったよ〜(しゅん)」じゃないの?

 

そこにあるのは、「私はパニックにならなくって、ただ日常生活を送りたいのに、それを乱す愚民が許せない!」という、自分はひとつ高いところにいるという無意識の意識。

そして、いつもの買い物ができなかった、自分の日常生活が乱されたことに対しての憤り。

 

他のお客さんみんながみんな不安に煽られて、ってわけじゃないでしょ。

日用品にしろ食品にしろ、パニックになって、というよりも、生活必需品だから買う、って人も多いんじゃない。

 

 

そもそも、パニックになるのは悪いことなのかな。

 

程度の差こそあれ、不安になるのは当然の心理じゃないの。
決定的な解決策がないなかで、備蓄することで心が少し平穏になるのであれば、それはそれでいいじゃないの、と私は思っちゃうんだけど。

 

この状況はいつまでも続くわけじゃない。

期間こそわからないにせよ、一過性のことなので、こんなこともあるよね〜。

 

それと、自分ひとりの暮らしじゃなくって、子どもとか老人とかパートナーとかペットとか、同居している人がいれば、自分はよくてもその人たちがなるべく支障なく日常生活を送って欲しい、そのために買い込んでしまう、というのは、当たり前、とまではいかないまでも、そういう人は多いだろうなぁ、って感じるんだけど。

 

 

カリカリするのは勝手だけど、愚民にご立腹なのは勝手だけど、それを声高に叫ばないでよ。

加えて、それに同調コメントをする人たちも気持ち悪い。

 

 

お利口さんなのね。

だから、愚民の行動が許せないのね。「お前たちとは違う!」と言わずにはいられないのね。

私のような愚民は失敗ばかりの人生なので、主張したり同意したりするほどの正しいことは、自分にはないざんすよ。

 

加えて、SNSに投稿することで、買い占めを助長してもいるよね〜。

不安を煽るのはマスメディアだけで充分。

お利口さんなのに、そのことに気づいていないのだろうか。

 

 

最近の私は、昼間は高田(文夫)先生、清水みっちゃん、ナイツあたりのラジオ番組をますます聴くようになったよ!

どんな状況でも、世の中は楽しいことにあふれているんだから。

 

 

食につきまとうジェンダーギャップを払拭したい

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いつもいつも、ず〜っと不思議で、いまだもってそういうことが前提や枕詞にように使用されていて、大きな違和感を覚えます。

 

・女性は少食/男性は大食

・女性は甘いものが好き/男性は甘いものが苦手

・女性は野菜が好き/男性は肉が好き

・女性はお酒が苦手(これが願望なのか?)/男性は酒飲み

・女性はカラフルな盛り付けを好む

・女性は少量多種類を好む

 

え〜、そうかぁ〜?

こういうの、全部全部全部、個体差じゃないの?

 

私(女です)についていうと、51歳になった今も大食漢で、食事を同席した男性陣に「後は任せた!」「よく食うなぁ」「フードファイターだよなぁ」なんて言われることしばしば。

 

私の周囲を見渡しても、上記のことは個体差が大きくって、性差じゃないよ。

 

 

世の中を見渡すと、無意識ゆえなのか、そういうコピーや記事がやたらめったら多い。

普段ジェンダーギャップが!と言っている人も、そういう原稿を平気で書いている。

 

 

おかしくない?

 

私は自分がダイレクションのときは、こういう物言いをする原稿があがってきたら、すべて修正します。

 

これだけじゃなくって、ステレオタイプを前提にした文言も修正します。

 

例えば、“フランスはおしゃれ”。

ほんとかよ?

私の経験では一般のフランス人の服装、町で売られている商品、本や雑誌の装丁などは、大半は「もっさいなぁ」って印象なんだけど。

 

 

ジェンダーギャップはいろんなところで散見できるけれど、食にまとわりつくジェンダーギャップは特に目立つ。

人を小馬鹿にしたような、女子会プランとかレディースメニューとかも要らないですから。

 

世の中は大きくうねりをあげて変わっているし、

いい加減、食界隈のステレオタイプを払拭したい!

取材前に原稿は8割できている

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私自身は着手はしないものの、その感覚はよくわかる。

 

編集・ライターの仕事もしている方が、取材前に原稿は書き終えている、と。

 

私自身は原稿に着手こそしないものの、下調べをして、媒体や企画に沿った内容はこのあたりかな〜、という目星をつけて取材に臨みます。

なので、取材で行うのは確認作業。

既出の情報から刷新されている場合もあるし、思わぬ掘り出し物の話が聞けることもある。

これをすでに自分が獲得している情報に上書きし、文字化するというやり方です

 

私の場合は脳内で、先の方は実際に、の違いはあるけれど、共通しているのは取材前にあらかた原稿が終わっている、ということ。

 

 

取材の際は、下調べをしているので、知っている話がほとんど。

確認作業で終わればそれはそれで、

入手できていなかったところで、おっ!と思う話が拾えたら、ライター冥利に尽きる、というね

(でも、その話を引き出すには、下調べをせずに行って1から話を聞いていたら辿り着けないのは明白です)

 

取材は対面で、相手との会話のキャッチボールで行うので、「あれもこれも知っています」だと話が弾まない。

なので、知らないふりをして話を引き出し、そこからききたいことをさらに掘り下げたりもします。

駆け引きが必要になるんですよね。

 

以前、ライターという立ち位置で仕事をした際、取材に編集の方が立ち合ったときに、

「そうですよね」が続いたので、「そうなんですか? それについて教えてください」と言ったら、

編集の人が説明し始めて、驚きました。

 

その場合の編集者の正しい態度は、黙って様子をみるか、一緒に、もしくはちょっと角度を変えて質問をすることです。

 

それをしないで、自分の知識を披露し始めた、ってことは、

取材対象者との親密性を示したいのか、ご本人は下調べをせずに素のままで取材に行っている、という表れ。

 

わかっている編集者なら、知らないフリをしていることは、そのときのライターの言動で理解できるもの。

判断できなかったとしても、自ら回答するなんて、ありえない。

自分が編集者として、ライターさんを立てて立ち会うときも、そのあたりは敏感に察知しながら、ですから¥。

 

 

下調べしすぎない、さじ加減が必要なこともあるけれど、ライターの仕事は下調べがおおいに必要なのよ。