書くこと、編むこと、伝えること

編集者、ダイレクター、ライター、情報発信サポーター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

心理学だな〜。やっぱり心理学だよ

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つらつらつらと思考をめぐらせるのは、私は数字(数学)がいちばん真摯に向かい合い、かつ楽しい気がするのだけれど、

ここ数年、今の時代を捉えるには心理学がカギなのではないか、と肌感覚で感じていまして。

 

私がそう感じるぐらいだから、専門家は等zんもっと前から取り組んでいたわけで、

経済に心理学を見出した、行動経済学“ナッジ”の先駆け、

リチャード・セイラー氏が2017年のノーベル経済学賞を受賞したことで、

ますますそうだよなぁ、と思う次第。

headlines.yahoo.co.jp

 

経済に限らず、いざ購入しようとしても、

専門書はどれを選んでいいのかわからなくて挫折することも多い。。。

セイラー氏のノーベル賞受賞をきっかけに彼の著書を中心に行動経済学の本が整理されて販売されることに期待!

本屋さんをぶらぶらしようと思います。

居酒屋でお酒を飲まないという選択

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お米なしのすし屋

麺なしのちゃんぽん店

 

登場時、大きな話題となったこれらの店、

共通するのは“糖質制限”ということになりますが、

あっ!と目からウロコだったのがこの記事(↓)。

www.hotpepper.jp

 

この連載、好きでね〜。

安田理央氏の軽妙な文体が、エンターテイメント性とすっかりレポートを兼ね備えていて

見事!

ついに居酒屋テーマで

“下戸の飲み会”を取り上げた、ってわけです。

 

読んで楽しい!

それだけの印象を持ちがちだけれど、

これってものすごおおおく大きな示唆と可能性を秘めているんじゃない?

どーして今まで気がつかなかったんだろう?

 

お酒なしの居酒屋

 

これって、あっても何らおかしくない!

・下戸

もだし、

・車を運転する人

・飲酒制限がある人
もしっかり拾える。

 

そして、記事のなかにあったように、

こういう人たちって、行ける場所がかなり制限される!んだね。

飲めないのに酒飲みの料理が好き!ってのはわかる!

私自身、お酒は量を飲まないけれど、料理に関しては酒飲みっぽい嗜好、らしい。。。

(刺身はごはんのおかずにならない、とか)

うんうん、欲求を満たしてあげましょうよ!

 

 

ものすごい啓示を受けた気分!

 

そもそも居酒屋だから飲まなきゃいけないのか?

 

大事だね、根本を疑うって大事だね。

改めて、『スパニッシュ・アパートメント』

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人生を変えた、とか、心が震えた、とか、そんな類じゃないけれど、

あ〜、そうそう! こんな感じ!って見方ができる映画もあって、

それが『スパニッシュ・アパートメント』。

 

どんな映画かってのはこちらを見ていただいて(↓)。

ricorice.exblog.jp

 

この映画、最近よく思い出すんですよね。

 

舞台はスペイン・バルセロナ

カタルーニャの立ち位置を表すようなシーンがあるんですよね。

それに反応させるかのように、ベルギーの子はフランドル出身という設定にしていたりとか。

 

私は、どうも想像力が欠如しているというか、

文字としてふんふんと思っていたことは、遠い世界のこととのようでピンときていなくって、

目の当たりにして、初めて納得するというか。

 

なので、イギリスに住んで、ヨーロッパからのクラスメイトを得てよかったのはこういうことで、具体的には、

・多くの国で兵役がある(スイスの永世中立国は決して牧歌的なものではない)

・スイスはドイツ語圏が大きい(なんとなくスイス・フレンチの方がイメージとして強かったので)

・トルコの立ち位置の微妙さ

イスラム圏の子の生活
・国を国と捉えてはいけない(カタラン人はスペイン人、スコットランド人はイングランド人と区別した方がいいように)

などなど

 

 

イギリスのBrexit国民投票のときもそうだったけれど、

日本での報道のされ方が、なんというか理想論というか空論というか、血が通っていないというか、高みの見物というか安全地帯からの物言いというか、または現状に即していないというか、感情が走るというか。

 

だから今ひとつ私がピンとこないのは(幸いにも、現在は海外のニュースがいともたやすく拾える)、

リアルな声が見えてこないなぁ、って思ったりして。

なんでもかんでも現場を、とは思わないし、離れているからこそ客観的に見えることもあるのだけれど、専門として語るなら、憶測や過去からではなく、現状を知る、もしくはその努力をした上で“今”の時点からの見解を示して欲しいなぁ。

母国語でない言語を扱うときにこそ母国語力が問われる

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あるとき。

「英語の習得って大変だったでしょう」

としみじみ言われて、あ〜、わかってる人だなぁ、と。

ほんと、ある程度、日常会話に難なくなるレベルになるまでは、心底つらかったなぁ。

 

たいていの人は、英語圏に行けば住めば話せるようになる、って思っているけれど、それは大きな間違い!

特に都市部なんて言葉を使わなくても生活できるし、

通じればそれでいい、って思っている人がいるけれど、単語を並べるだけだと、最低限の意思を一方的に伝えることはできても、会話にならない。

 

 

半分ジョークで、何度テムズ川に飛び込もうと思ったか。。。

話せない、聞き取れない、ことよりも、それなりにやっているのに上達しない(と思っていた)自分のふがいなさに。

 

実感としては、少しずつ上達、ではなく、ある日突然、次のステージに上がり(何言ってるか分かる、自分でも話せる、すらすら読める!)、その後、そのレベルで停滞している状態がしばらく続き、ある日突然また次のステージに上がる、それを繰り返して、上達していく。

言語という日常に欠かせないものの場合、進歩の具合を否が応でも日々実感してしまうのですが、

ものごとの習得とは多かれ少なかれこうなのかもしれませんね。

 

 

イギリスから帰国したとき、それまで日本語にふれていなかったわけではなかったけれど、

熟語、四字熟語ってものがまったく出てこなくってまいった!

日本語も英語も中途半端な状態で、切り替えがうまくできなかったし、宙ぶらりんな状態だったなぁ。

 

なので、通訳や翻訳を専門に生業としている人は本当にすごい!と思うのです。

これって、外国語もだけれど、日本語力も相当必要だから。

しかも瞬間的に頭を切り替えたり、また、今の言葉の使い方、その背景、社会状況も理解しておかないといけないから。

 

 

なので、自分が語学ができないのに、旅行ですらままならないのを体験しておきながら、言語が操れることを軽んじるのはなぜだろう?って不思議で仕方がない。

 

よく、聞き取るのはできる、でも話せないって人がいて、
私、英語がからっきしのときって、聞き取ることもほとんどできなかった。

いかにダメダメだったか。

読む、書く、聞く、話す、文法、とカテゴリーによる得手不得手による差はあるけれど(私は読み書きが、日本語でも苦手)、軒並み並行して上がっていったなぁ、って思う。

 

 

ところで、今年、2017年は早川書房の当たり年ですね〜。

トランプ大統領就任後、米英で再熱したジョージ・オーウェルの『1984年』、

そしてノーベル文学賞を獲得したカズオ・イシグロの一連の作品。

ノーベル物理学賞を受賞したライナー・ワイス、キップ・ソーン、バリー・バリッシュを取材して生まれたノンフィクション作品、
ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーの著作も。

 

 

外国語作品を読むときはまれに原書にあたるときもあるけれど、

ほとんどは日本語訳を読みます。

となると、作家もだけれど、訳者も大事!で。

カズオ・イシグロの作品を手がけている土屋政雄氏は、私の好きな訳者のひとつ。

いやね、情景がば〜っと目の前に広り、つっかからない、たゆたうような文章になさるんですよ。

 

うまいなぁ。

 

10年ほど前にたまたま出くわしたネットの記事。

それは土屋政雄氏の訳を解説したもので、

今回のカズオ・イシグロノーベル賞受賞をきっかけにはっと思い出し、ぐぐってみたところ、

まだちゃんとありました。

 

翻訳は、日本語だ−土屋政雄訳カズオ・イシグロ著『日の名残り』

 

これ、今、読み返すと、より共感して頷くことが多い。

“単に訳すのではなく(これだと意味をなさないことが多い)、基盤となる意味を伝達する”

”外国語を扱うことは、結局、日本語を扱うことである”

これを実感できるということは、カメの歩みながら、私の英語力も日本語力も進歩しているということでしょう。

 

私がときどきぶつかるヘッドラインやタイトルを英語に置き換える仕事は、えんえん唸りながらやっているわけです。

それは、こういうことを稚拙ながら、ぐるぐるぐるぐる考えながらやっているからにほかならないのです。

再会の愉しみってのもあるね!

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ここのところ、期せずして、懐かしい方々、以前(10年近く前)仕事でご一緒した方々にお目にかかる機会が続けてありまして。

 

な〜んか、おもしろかったな!

 

長年???だった謎も解けたし、

やりとりのなかった間にお互いが経験してきたことをシェアして、へえ〜、なるほど!

みたいなのもおもしろい。

 

 

私、仕事は仕事ってタイプなので、仕事でつきあいのある人とプライヴェートでも、ってことあんまりなく、

なので、プロジェクトが終われば、それっきりってことも少なくないけれど、

こんな風に再会でき、しかもまた仕事ができそうな感触があるのはうれしい。

 

 

それぞれが経験を積んだ分、パワーアップしたことができるといいなぁ。

やすやすと英語を扱う場面に出くわしたときの葛藤

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日本語もそうですが、私は読み書きが得意ではありません。

第一外国語の英語も同様で、いちばん得意なのは文法。

ネイティヴじゃないですから、一時期、必死で勉強したときがあり、

このとき通っていた学校では、生徒の質問に応えて成り立ちもちゃんと説明する、

英語(言語学)のプロが教えていたので、

非常にいい学校&コース選択をしたと、今も思っています。

 

これが叩き込まれているので、

ときどき喋っていて、書いていて、待てよ!と思うことがあって、確認する。

合っていることもあれば間違っていることもある。

日々これをえんえんと繰り返しているので、

さほど英語を使わない環境の日本にいても、現状維持が保たれているのかもしれません。

 

 

自分が苦労して習得して、単に英語で表現する、ではなく、その裏にある、なぜそのような言い回しをするのか、同じ言葉でも言語が違えば微妙にニュアンスが異なることを体験していて、

日本でしか通用しないだろうなぁ、と思われる、英語っぽい表現が

いかに世の中に氾濫しているのかを見つけては、うううう〜ん、という気持ちに陥ります。

 

訴えるための文字表現ではなく、“お飾り”で使っているのでしょうが、

であれば、誰も読まないのであれば、使わなきゃいいのに。

 

ricorice.hatenablog.com

 

 

はっきり言います。
もし、英語(もしくはほかの外国語)でないとデザインが決まらない、と思っているのであれば、

それはデザイナーやライターや、クライアント含め、制作サイドの怠慢です。

本当に言語対応を考えていれば別ですが、

“お飾り”であれば、日本語で充分。“日本語でデザイン”の可能性を探るのも仕事のはずなのですが。。。

 

 

今はグーグル翻訳や簡単に文字検索できるのですが、

ものごとはそんな単純じゃない。

とりわけ、商品名だったりキャッチコピーだったりヘッドラインだったりは、

完全にコピーライティングの世界で、

単純に言葉を置き換えられないのです。

 

軸を変えず、いかに英語でも刺さる言葉で表現するか。

となると、はじめから英語で考える、ってことも必要になります。

また、英語のキャッチコピーやヘッドラインの場合、よく知られた歌や小説や映画などのタイトルに絡めるってのもよくあるし。

 

たとえば、今、日本ワインが盛り上がっていて、その流れをいうときのタイトルを日本語で、

“日本ワインの歴史を振り返る”

としたとしましょう。これ、そのまま英語にすると、変!なのです。

本当に、たとえば奈良時代からの歴史的見地からの考察なら別ですが、ここ数年のシーンを切り取るのであれば、

“近年いかに日本ワインが人気を獲得してきたか”

みたいなものがふさわしい。

 

となると、通常のライティングよりは当然高額になります。

ライティング + 英語の感覚

なのですから。

 

ところが、そう捉えていないところが実に多く、金額を上乗せするわけでもなく、

ついでに

みたいな頼まれ方をすることがよくあります。

 

あなたができないから、私に頼むんですよね?

それを無料でやる理由はどこにあるのかな?

 

 

なので、トータルで関わるときを除いて

(よくあるのが、こちらは渡していないので、デザイナーさんが勝手に英語表記を加えてくるパターン。

 それがことごとくおかしな英語表現なので、修正をかけます)、

いちスタッフの場合は、自分の担当外で目についても言及しないことにしています。

だって、ついでにやって、って言われるんだもん!(ついでにはできません。仕事とあれば金額に関わらず、全力だよ)

 

また、自分の仕事の範疇で入ってくるときには、上記を説明し、
・お互いに納得し、適正価格で仕事として受ける
・お飾りだから、であれば関わらない

というスタンスにしています。

 

 

言語って、できない人は、自分ができないことを痛感し、習得するためには本人の努力、時間もお金も投資しているのわかっているはずなのに、

どうして仕事となると気軽に、タダ感覚で発注してくるんだろう?

わざと、でないケースがほとんどなので、余計にタチが悪いのよねぇ。。。

 

まとめることは編集者の仕事の第一義じゃない!

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 はああああ???

ってなことがありまして。

 

出版業界が不振とされる原因のひとつは、間違いなくこれだよなぁ。

 

それは、

編集者の仕事は、

まとめること、できればそつなく、だと思っている編集者がいること

(もっともこの場合、いち編集者というより、(実質)編集長といった方がいいのだけれど)。

 

ううううう〜ん。

それも仕事のひとつかもしれないけれど、それ最重要事項じゃないから。

 

いちばん大事なのは、まとめることからさらに踏み込んで展開させ、新しい価値観や付加価値を加え、その意図を明確にし、その上でそれぞれの役割と認識を共有し、協労すること。

いくら優秀なアートダイレクターを据えようが、デザイナー、カメラマンやライター、イラストレーターや校閲者がいようが、

企画を牽引し、判断するのは編集者だから。

キャリアが浅いとか年齢とか関係なく、それが仕事だから(だからっていばっていい、という意味ではない)。

 

 

新しいアイディアも切り口も出さず、ただ既存のものをまとめる、焼き直しをする、

それって既視感ゆえの安心感で、説明はたやすく、波風は立たないかも知れないけれど、ちぃ〜っともつまんない!

時代も読者の嗜好も変わっているのになぁ。

 

目の前の仕事を淡々とこなすことに重きをおき、なんらわくわくを提供しないのであれば、読者がそっぽを向くのはごく当たり前の事象だと思う、んだなぁ。