書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けするメディアや仕事のあれこれ

“きれい”も“かわいい”も“ナチュラル”もお腹いっぱい!

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インスタ映え/grammableが“重要案件”となって数年。

本が出たり、口説き文句で使われたり、あまりに出回っていて、しかも実際に“きれい”“かわいい”“ナチュラル”のオンパレードに食傷気味な私です。

 

疲れたよ〜。

 

だってそこには、こう見て欲しい、こう見せたい、はあるけれど、これが見たい、があるわけじゃないもの。

スッピンです、って言っておきながら、ナチュラルメークだよ〜ん、みたいな。

 

写真は一瞬を切り取るものじゃなくって、“こうしたい”に向かって作るものになっちゃったからなぁ。

 

ricorice.hatenablog.com

こちら(↑)にもちらと書いたけれど、それはそれで進むとして、反動も起こるんじゃないかな〜。

 

ほけ〜としたものが見たい。ざらっとしたものが見たい。ごちゃっとした、雑然としたものが見たい。

でも、それって度が過ぎると不快になっちゃうから、さじ加減が余計にむずかしい。

 

でも、ちょっとケオスがあったり、スキがあったりする方が、私は心落ち着く。

さてさて、どうすればいいのか、どこから手をつけたらいのか、わからないけれど、その模索の過程を楽しみつつ、試してみようと思っています。

 

身軽になりたいなぁ

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あるプロジェクトがスタートしました。

大きな仕事は毎回毎回、課題があって、それは制作そのものもなんだけれど、それに付随する物理的な問題、距離の遠さをどうクリアするか。

 

私がダイレクション(映画でいうと監督ですね)する書籍の仕事は、出版社は東京で、私は遠隔で、撮影はこちらで行ったこともあったけれど、基本、監修の方もカメラマンさんもデザイナーさんも、要するに私以外のスタッフは皆東京なので、私が東京に出向く、というのが続いていましたが、

今回は、それぞれバラバラ。

 

動き始めたばかりなので、連日のようにやりとりをしていて(私は最初のコンセプトをがっちり詰めて、あとは軸さえブレなければ比較的自由にしてもらうやり方です。一緒に仕事をするのはプロだから遊びの要素を残して、上がったものを見て、こうきたか!というのもおもしろいしね)、

ワードやエクセル、メールなどが難なく使え、しかもマメに連絡をくださる方々で、随分助かっています(これらが苦手な人もいるし、特に年齢が上がると、いちいち電話って人もいるからなぁ)。

 

とはいえ、集結が必要な場合もあるわけで、さあ、どうしようかな、と思案中。

 

 

ほかで進行中のものも、これまでにない関わり方になるので、どうしようかな、というのが常に頭の片隅にあって、考える日々。

 

 

ああ、身軽になりたい!

必要なときに必要な場所にすぐに駆けつけられるようになりたい!

 

それを遮っているのは、プライヴェートの私の持ち物が多いわけではなくって(これはむしろ少ない、と思う)、鬼のように資料を抱えているから。

 

今年に入っておかたしを進めるなかで、個人のものは処分できるけれど、仕事関連のものはほぼ無理だと悟った。

しかもテキストとして残したいわけではなくフィジカルなモノとしてないと意味がない、んだよなぁ、私の場合。

 

じゃあ、どうする?ってのが課題。

寄贈するか、倉庫に預けるか、いまの時代、もっと抜本的な方法があるような気もするんだけれど。

 

これがクリアになったら、トランク1つ、身体ひとつで、自由に転々と生きていけるんだよなぁ。

普段見えないことに、別の角度から気づく

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“おかたし”真っ只中の私。

今週手放した、おもなものは以下のとおりです。

 

・洋服 1着

 

今週は書類や資料を片づけました(まだまだ序盤。道は長い。。。。)。

 

資料は雑誌や新聞の切り抜きやらプリントアウトしたものやら、もちろん書籍や雑誌も。

切り抜きやプリントアウトの整理をしていると、思わぬところから思わぬ本や雑誌が出てくるんですよねぇ。

 

 

ところで私は、イギリスの食研究家、そして(おもに)出版物のダイレクション(編集、映画でいうと監督)、ライティングなどを生業としています。

執筆については、商業ライターであり、作家ではありませんから、自分が書きたいものを書くわけではなく、企画を文章で表現する、という役割です。

 

これが、めっぽうむずかしい。

年々むずかしさが増してくる。

 

求められている文字原稿の内容によるのか(より対象に突っ込んで書き込むことを求められるようになった)、自分の向かい方なのか、おそらく両方なんだろうけれど、つくづく文章を綴るというのは、湧きあがってくるものを書く、というより、適切な言葉や表現を探して文字化する、ってのが私の感覚としては近い。

 

以前はスラスラ書いていたけれど、いちいち迷う、考える。

すいすい書いていた、というのは、知らないゆえの気軽さだったのでしょう。

 

 

商業ライターとして書くときにうんうん唸っている昨今ですが

(私が考えるうまい文章というのは、専門用語や凝った表現を散りばめたものではなく、わかりやすい平易な言葉でひっかからずにスーッと読める文章。そして読後感が腑に落ちるもの。

これ見よがしな、「うまいだろう!」が見え隠れする自己満足な文章は好きではない)、

 

そんななか、おかたしで出てきたのは林真理子の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』。

買ったっけ? 持ってたっけ? 当時、ベストセラーになったけど、友人に借りて読んだのが初読(はっきり覚えている)。

 

う〜ん、と記憶をたどろうとして読み始めたらあまりにおもしろくって、一気に読んでしまった。

 

1982年出版なので、背景や表現に時代を感じさせるものはあるけれど、圧倒的にうまい! しみじみ、うまい! つくづく、うまい!

このうまさはなんだろう?って考えたら、エッセイという形を借りて、わかりやすい文章で本質をついているってこと。
つまり“人間を描いている”ってことなんだなぁ。

 

アガサ・クリスティーがメアリー・ウェストマコット名義で書いた『春にして君を離れ』を読んだ時、なぜこんなに長い間、彼女の作品は読み継がれているのか、って考えたら、ミステリーという体裁をとりながら、その実、“人間を描いている”ってことに思いいたり、同じことを感じたわけです

(『春にして君を離れ』はミステリーの体裁ではないけれど、ミステリー以上にミステリー)。

 

優れた作品というのは“人間を描いている”ってことなんだろうなぁ。

それを伝える文章も、内容と一致している、ってことなんだろうなぁ。

 

 

こういうことをしているから、“おかたし”が進まないわけだけれど、普段見えないことに、別の角度から気づく、というメリットもある、ってことで。

 

 

 

たまにはいいんじゃない。私だって身に覚えはあるし

 

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週末のある夜、外がなんだかかしましい。

若者グループが大声で話している様子。

 

歩いて移動中にがやがや言っているのだろう、と思いきや。声はいつまで経っても遠くに聞こえない。

話の内容はわからないけれど、酔っ払っているわけではなさそう。

 

10分ぐらい経った頃か、はて何をやっているんだろう?と窓を開けて外を見ると、

そこには20歳ぐらいの男性が8人程度。

立ち止まって何やら話している。

 

ひとりの男性が、こちらが様子をのぞいたのに気づき、

目をぎゅっと閉じ、両手を合わせ拝むような格好ですみません!と深くお辞儀をする。

その男性が声をかけ、集団は静かになってぞろぞろと移動。

 

 

赤ちゃんの泣き声や子供のはしゃぐ声が響くこともあるし、

犬が吠えていることもある。

すっかり酔っ払ってご機嫌そうな人が大声で歌いながら通り過ぎることもある。

 

そんなもん、と思っているので、よっぽど音が大きかったり続いたりしない限り、うるさいなぁ、にはならないけれど(自分だってやっているんだろうし)、

家の前で立ち止まって、に、んんん?になったのです。

あんなに平謝りの姿勢を見せて、怒られると思ったのかな。

 

多少賑やかなぐらいかわいいもんです。

たまには羽目を外してもいいんじゃない。

ビリー・アイリッシュはひとつの現象であり象徴である

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最近のヘビーローテーションは、ビリー・アイリッシュとテーム・インパラ(シングル「Patience」は私の2019年シングル・オブ・ザ・イヤー確定だなっ!)。

youtu.be

 

テーム・インパラは、その才能は既に知られるところですが、問題(?)はビリー・アイリッシュ

SNSから火がつき、3月下旬にはファーストアルバムが出て、コーチェラなど大きなフェスにも出演し、俄然盛り上がっています。

イギリスの音楽メディアNMEがここ1年ぐらいかな、大プッシュしていて、それで私も知ったわけですが、FBに記事がシェアされると、コメント欄が概ね否定的なのもおもしろい。

もっとも、この17歳のアーティストのメイン層はFBは利用していないだろうから、この温度差も含めて興味深い。

 

音はとらえどころがなくって、隙があるのか狙ってなのか、脱力した感じがいい。

ヴォーカルも熱唱系じゃないあたりがいいんだよね。

 

同時に、ルックスがいいんだなぁ。

ほとんど笑わないし、着ているのもハイエンドブランドのフェイクのようなインディもので、ダサいといえばダサい。

髪の毛もボサボサ、染めている色もパッとしないし。

少なくとも、標準装置とされる、きれいとかかわいいとかとはかけ離れている。

 

 

インスタグラムの台頭、スマホのカメラ機能やアプリの高性能化、“きれいな写真を撮りましょう”をテーマにした書籍や企画に、ここ数年の私は食傷気味。

もう、いいよ。お腹いっぱい!

素人までそんなことしなくて、いやいや、素人はよりその傾向が強いのか。

 

このことは、4年前に自著『イギリス菓子図鑑』を出すときに、突きつけられて考えるようになったこと。

どういうことか、っていうと、結局食べたことがないと、いくらレシピを渡しても、プロだからって作れないだろう、と思ったのです(日本の洋菓子界でイギリス菓子を知っている、しかも100種類以上がどれだけいるのか。。。)。

加えて、イギリス菓子の場合は、王室や宮廷がらみではなく、家庭菓子がほとんど。

 

だとしたら、稚拙でも自分が作るのがいいよね。

それぞれがどんな菓子なのかを理解していて、かつ作れるのは自分だし。

家庭菓子であれば、多少形が歪んでいたり、焼き加減がイマイチだったり、の方がむしろ“らしい”。

 

なので、撮り方も、一般的な“スタイリッシュ”“しゃれた”もしくは“ていねいな暮らし”っぽいのは全然違うベクトルを目指した次第。

少しダークというかくすんだ感じも含めて、同時にそれがイギリスという国(ヨーロッパ各国そうだけれど)の歴史の中で変なことも経験してきたことにつながるといいなぁ、と考えたのです。

 

結果、出版社内でも、本が出てからも、賛否両論がありました。

構成含め、既存のものと意識的に変えたから、まあ、そんなもんでしょ。

 

 

このときはコンセプトに合わせた結果としてそうしたのですが、当たり前のようについて回る“きれい”“センスある”をいかに脱却するのか、ってのが課題でした。

この『イギリス菓子図鑑』発刊から4年、インスタ映えgrammableなんてのが日常の言葉となり、見た目の美しさをいかに磨くか、をますます追求する傾向にあります。

 

そこにあるのは、理想とする、こうでありたい自分。

つまり、リアルとはほど遠い姿。

 

ビリー・アイリッシュはその傾向にNO!を突きつけたようで痛快!

でも、NO!という明確な意思表示ではなく、毎日そんないいことばかりじゃない、ふてくされることもたくさんあるよ、って呟いているみたいな感覚が、自然なんだよなぁ。

 

例えば2001年の『ゴーストワールド』なんかはもっとゆがんでいるのに、

ハンナ・モンタナを演じたマイリー・サイラスがぶっ飛んでしまったように、

そこには、アメリカの明るく溌剌とした健康的な若者が、あるべき姿、なのに対して、はみ出してしまう、そればっかじゃない!と声を上げたわけだけれど、

ビリー・アイリッシュには、何かに反発している、って感じじゃないんだよね〜。

 

だから、格好も楽曲も、こうじゃなきゃ、を突き抜けていて、しかもそれが拳を振り上げて、じゃなくって、体温が低い感じで、自分の部屋でだらっとしながら、「今の私はこんな気分」ってつぶやいているようで、「インスタで繰り広げられているキラキラした素敵な暮らししてるわけじゃないから」が発信(表現というよりも発信、って感じ)しているのが、そうそうそう〜!なのよね。

 

 

1990年代に、それこそ渋谷に頻繁に出没していた私は、ギャルたちもたくさんみたけれど、ヤマンバとかはほんと、すごいなぁ、って感心しちゃったもんなぁ。

それまで女の子が目指していた“かわいい”“きれい”の概念をぶち壊したところが。

 

同時にこの頃、英米で見られたビキニ・キル/Bikini Killやライオット・ガール/Riot Grrrlが登場し、ガールパワー/Girl Power(いわゆる“女子力”とはまったく違うよ!)炸裂。

それがスパイス・ガールズの活躍とか、現在のプッシー・ライオット/Pussy Riotにもつながっているんだけれど、「女(の子)は独立した存在で、たくましいのよ」というメッセージ性。

 

 

そこまでの明らかな既存の価値観への否定を、ゴス+ナチュラルみたいな風貌をしたビリー・アイリッシュからは感じられないけれど、この声高な否定も主張もしない感じが、だからこそ“今どき”で、時代は変わることを映し出しているなぁ、としみじみしてしまうのです。

本人にそんな意識はないのかもしれないけれど、ステレオタイプってものを知っている世代の私には、「一体いつまで“きれい”“かわいい”を価値基準にしているの?」「あたなはこれからどうするの?」って問われている気分にすらなります。

 

早起きはできるけれど朝型にはなれそうにない

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確かに、朝がいちばん仕事がはかどるんです。

そして、原稿執筆にしろ、校正にしろ、時間が許せば(緊急の案件ってのがあるのよね)私は一晩寝かせるので、朝一番に見直しをします。

 

まったくの夜型で、だいたい午後2〜4時が一日の中でいちばん眠い。

夜は、放っておけば起きてられそうなんだけれど、次の日に支障が出るので、適当に切り上げています。

 

だからといって、朝起きられないわけではない。

起きること自体はできる。

そして、上記のように活動することだってできる。

 

でもね、問題はその後。

朝張り切って大仕事をした後は、切羽詰まっていなければ、ぐったりしてものすごおく眠くなるんだなぁ。

 

なので、11〜13時ごろまで寝たり、なんとか持ちこたえても結局14〜18時ごろまで寝たり。

そうして夜は元気復活!というね。

 

ううう〜ん、なんだかなぁ。

 

 

年をとれば睡眠時間が少なくなるって一体誰が言ったの?

朝型がいいって一体誰が言ったの?

 

10年前に生死をさまよったときに、

これは不摂生な生活が理由に違いない!と感じたので、

それまでよりは少し朝よりにしたのだけれど

(それ以前は、3時ごろ寝て10時ごろ起きるのが通常だった。

 それを1時ごろ寝て8時ごろ起きるようにした。

 加えて、時間が許せば1〜2時間ほどの午後の昼寝は、相変わらず)、

朝5時とかに起きて、そのまま起き続ける、ってのはできそうにないなぁ。

その時の状況によるけれど、10時ごろにいったん電気が切れて、寝ちゃうんだよね。

 

世間一般でよしとされていることが必ずしも自分に当てはまるとは限らない。

個人差があるよね〜、なにごとも。

 

若い人がいいなぁ、と思うのはニュートラルだから

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そろそろ引っ越しを!と思い始め、久しぶりだから相場とか知りたいな、と思い、気になった物件を見がてら2軒の不動産屋さんと連絡をとったのが、12月頭。

 

1軒は、引っ越しが確実になったら改めてご連絡を、と言われ、

もう1軒の不動産屋さんでは、どうぞどうぞ!と日時もこちらの都合に合わせてくださいました。

 

不動産屋さん自体は古そうだったけれど、支店長はじめスタッフがみんな若い!

その日、私についてくださったのは若い支店長で、ニュートラルというかいいことも悪いこともこちらの質問に答えてくれて、さすがプロだなぁ〜。

 

その直後はお礼のメールのやりとりをして、以降は特に何もなく、年末年始になり、繁忙期の年度末/始めとなり、で、私自身、年度が明けたら真剣に考えよう、と思っていた矢先、電話がかかってきたんですよね〜。

 

落ち着けがましくなく、サクッと電話は終了。

何かあればどうぞ、というメールが来て、「ヘぇ〜、こいうことも相談できるのか〜」。

 

 

もちろん商売だから、ってのもあるけれど、

個人の引っ越し、ってたかが知れていると思うのに、

まだ???な時点で物件を案内してくれたり、何カ月も経って頃を見計らって連絡をしてきたり、こちらの知りたい今の情報を教えてくれたり、

ありがたいなぁ〜。

 

となれば、よっぽどのことがない限り、ここに相談して決めちゃお!になるよなぁ。

多少高くても、あれこれ回る手間がかったるい

(だから、多少高くても当たり前で、むしろ、手を尽くしてもらったその分払わないとね〜、でもあります)。

 

商売の基本を若い支店長に教えてもらった気分です。

もちろん個人差はあるけれど、私が若い人といていいなぁ、と思うのはニュートラルだからなんだよな。

肩書きで露骨に態度を変えない、ということも含めてね。