書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

「外国はこう見た」の衣を借りる必要はあるのかな?

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ワールドカップはまだまだ続く、むしろこれから、だったりするわけで。

 

うちにテレビをおいていないこともあり、

あと、日本人なら日本を応援しろ!の無言の圧力が苦手なので、

一歩も二歩も引いたところにいます。

 

 

そこで不思議だな〜、って思ったのが、

「外国はこう見た」で見出しが多いこと。

 

「外国はこう見た」って必要? 真っ先に必要?

外国がどう見ようが別に自分たちの報じ方に自信があれば

(それが相手を貶めていない前提ね)、

別にどーでもいいんじゃない。

最後に、ちなみに海外ではこう報道されています、程度でいいんじゃないの?

 

で、気づいたんだけど、

これって、「外国はこう見た」の衣をかぶせて自分の意見を言っているに過ぎないんだなぁ、って。

なんで、自分は、って言えないんだろう?

もしくは自分の意見に責任を持ちたくないとか?

 

なんでいまだに、外国(ここで言う外国は欧米、はっきり言って白人社会ね)に無条件にひれ伏し、

それを印籠のごとく持ち出すのかなぁ。

そして、ちょっとほめられたりしたら有頂天になって小躍りしている画はみっともない以外のなにものでもないのになぁ。まだ気づかないのだろーか。