時代がザ・スミスに追いついた!
今、私はイギリスの“食”情報を専門で扱っているわけだけれど、
そもそものイギリスへの入り口のひとつは音楽で、しかもインディーもので、1980年代からリアルタイムで体験しているので、21世紀に入るまでの情報は、こっちの方が断然詳しい。
打ち合わせでたまにお目にかかる方も同世代で、でも、普段はそんなこと出さないし、出す必要もなかったんだけれど、あるとき何がきっかけだったか、洋楽インディー話で大いに盛り上がり、本題よりも長い時間、アノラック丸出しで話し込んでしまった、という。
まあ、今でこそ情報はむしろ遮断しなきゃならないほどあふれているけれど、80年代なんて、とりわけインディー、つまりメインストリームから外れたもの、しかも海外の情報なんてキャッチしている人間がまず周囲にいなくって、情報もそうだけれど、共有できない、ってことに餓えていたわけで。
その方と会うと、当時、周囲にそういう人たちがいなくって情報や思いをシェアできなかったからか、何十年経ってここに仲間がいたか!みたいな心情になるのか、ついついそんな話になってしまって、先日もこんな会話が。
「大変ですっ! 今の20代はザ・スミスを聴いてすよ〜」
「えええええ〜っ! まぢっすか! なんでぇ? モリッシー(ザ・スミスのヴォーカルにしてフロントマンだった)じゃなくって?」
「いやいや、ザ・スミスですっ!」
「90年代頭だったっけ? アメリカでザ・スミス評価(再評価ではなく。そして当時すでにザ・スミスは解散していた)ってのがあったな」
「今、日本でザ・スミスですっ!」
「時代がザ・スミスに追いついた、か!」
「10年ほど前に小林多喜二の『蟹工船』が読まれたのと同じ構造ですかね?」
「いやぁ〜、その可能性は高そうですねぇ」
幸か不幸か、時代がザ・スミスに追いついた、って以外の表現が見当たらない。
彼らが活動したのは1982〜87年の約5年。
レコード会社はインディー・レーベルのラフ・トレードだったので、リアルタイムでは日本に入ってこなかった。
(イギリスからの情報として、ラジオでたま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っにあった、かなぁ。音源まで流れたっけ?)
日本では90年代に入るか入らないかの頃に後追いの形でまとめてCDが出た記憶。
ええとですね、ザ・スミスはですね、モリッシーが綴った社会のマイノリティの心情を綴った詩を、ギターってこんなにリリカルだったの!ってなジョニー・マーの音にのせて、モリッシーのふにゃふにゃしたヴォーカルで歌われる、という。
そこには当時のサッチャー政権や王室に代表される体制を批判(というより糾弾)、性的マイノリティであるゲイや当時はまだまだだったヴェジタリアン(ヴィーガン)の気持ちを代弁。
当時、英国病とまで言われた、長年の不景気によるイギリスの陰鬱とした空気感がべっとりまとわりついていて、そんななか、どこにもやり場のない心情を、社会的マイノリティの気持ちにのせて歌ったザ・スミスの曲は、リアルさをもって、当時のイギリスの若者に熱狂的に受け入れられたわけで。
ひとこと補足すれば、私がいまひとつザ・スミスに入り込めないのは、彼らのファンが、“好き”をとうに通り越して“狂信的”と思えるから。
まあ、それだけ当事者の肌感覚に訴えた、ってことだからではあるんだけど。
今の日本の状況って、ザ・スミスが描いたこの社会(的マイノリティ)の閉塞感なんだろうな、って思うのです。
だから、物心ついた時から、日本はダメだ、ダメだ、みたいな中で育った若者たちの心に刺さるんだろうなぁ。
ちなみに、ネット老人会の私がネットを始めたのは1995年。
当時、誰しもがウェブサイトが作れる時代じゃなく、企業だってまだウェブサイトを持つって意識はなかった。
そんななかでも、個人ウェブサイト(ブログはまだない)はちょこちょこあって、でも絶対的な数が少ないからとがったサイトはすぐに世界に知れ渡る。
そのひとつが“Cemetry Gates”というザ・スミス・ファンによるサイト(“Cemetry Gates”というタイトルは、同名のザ・スミスの曲名からとられたことは明らか)。
レコード盤に刻まれている文字(音ではなく、文字どおり刻まれている)を紹介したりするって内容で、そのマニアっぷりに、すごいなぁ、と感心するやら呆れるやら。
まあ、それだけ、ザ・スミスには信者が多い、ってことです。
ソロになったモリッシーは相変わらず、そういう曲を作ったり発言をしたりしているけれど、リアルに社会的弱者を切り取った、という様子はさほど感じない。
単なるあまのじゃく、というか、高みの見物というか、ああ、また何かを見つけて噛みついてるなぁ(そしてまたツアーをキャンセルかよ!)、といった印象になってしまった。
それは90年以降イギリス社会が変わった(景気がよくなった? 拝金主義になった? ともあれ、英国病という長年の不景気は脱したわけで)、ってのもあり、情報や思考が集約しにくくなり、彼自身の生活や意識も変わったんだろうし。もはやワーキングクラスの代表的な北の街、マンチェスターではなく、リッチな南のロンドンに住んでいる(と思う。10数年前は、高級住宅街Sに住んでいるって話だったけど)わけだし。
といったわけで、今の日本の若者が聴くのはモリッシーじゃなくって、やっぱりザ・スミスなんだろうなぁ。納得!
ええとですね、Brexitの国民選挙のときに感じた、報道への違和感。
それは学者や識者と呼ばれる人は安全地帯にいて、そこから理想、のようなものを述べているんですね。
それが悪い、とはいわないし、引いた眼で見るってのは大事なんだけれど、
でも、ワーキングクラスのような一般市民の感覚と必ずしも一致しない、ってこと。
なんだか、報道で見聞するのは結果であり表面をすくっているだけで、
生活している人の息づかいは聞こえてこない。
ポピュラーミュージックってのは、日常の感覚を音楽で表現しているわけだから、
ザ・スミスとザ・キンクス(ザ・スミスより時代は前。ワーキングクラスだったり、ノスタルジックな時代のイギリスの市民だったりの心情を歌う)のイギリス社会を反映させた歌の世界は、
社会というものを、政治とか経済とかの高いところからではなく、地に足のついた生活者の視点としての社会を研究するに充分過ぎるもので、同時に研究に値するものでもある、と思っていて、あ〜っ、やりたいなっ!
何でも手作りがいいとはまったく思わない
お菓子教室やらないんですか? 料理教室やらないんですか? お店やらないんですか?
私はイギリスの食研究家という顔もあるため、こういう質問を受けることがあります。
補足的な意味であれば興味ある。でも、これが第一義となると食指が動かない、というのが今の心境です。
(とはいえ、人生どこでどう転ぶかわからないから、あまりガチガチに自分を縛らず、流れに抗わない、ってのが基本姿勢です)
私にとってお菓子や料理を作ることは、理科の実験のようなもので、舌の記憶の再現と資料との照合、加えていかにシンプルで簡単に日本で再現できる(振り幅含め)かのためで、
自分で家事を、手作りしましょうといったイデオロギーではまったくないんですよね。
むしろ、私は、機械化できるところはがんがん機械化すればいいし、AIがしてくれるのであればさらに結構!って考え方。
でも、食研究家でレシピも紹介するからでしょうが、“手作り推進”で捉えられるのが、なんだかなぁ、なんですよね。
この手作り信仰、なんとかならないですかねぇ。
私自身は、今、経験とカンでやっている、とされているもののほとんどは、
データをとって数値化し、それにより機械化が充分過ぎるほど可能だと確信していて、
そして、それでいい、と思っているのです。
思いっきりそれに徹するのであれば別だけれど、ノスタルジーじゃメシは食えないよ!
そう、私は手作り推進の片棒を担ぐ気はまったくないし、
私がやりたいのは、情報であって、でも食の場合は食べないと実感できない、なのでラボのごとく実際に作ってみる、なんです。
今のイギリスの食シーン、文化的な側面をはじめ経済やテック系(このあたり、本当におもしろい!)、ひいては社会状況も欠かせない事項なので、大学で研究する、とか、情報研究所で調査する、とか、そういう話なら俄然身を乗り出すんだけれど。
ネーミングは最強のキャッチコピー
文章は短ければ短いほどむずかしい。
わかりやすい言葉で、軸をし固定させ、ちょっと外す(意外性だったり)。
これがうまくいければ、本当にしっかりと印象づけられるわけで、
このとき、外す工程を迷いなく振り切るのがいいんだけれど、現実的にはつい守りに入る(人を目を通せば通すほど、マジョリティに集約しようとするから、凡庸でふわっとしたありきたりなイメージになりがち)。
そんな理由もあり、悲しいかな、そのほとんどは失敗とまではいかないまでも、なかなかうまくいかない。
短い文章の最たるものは、商品名でしょう。
そしてその次は、それを広く伝えるためのキャッチコピー。
それを表す商品やサーヴィスがいい、ってことは大前提で、
それぞれに関わる人たちが共通認識を持っていて、ぶれていない、ってことも大事なのよね。
著作権切れをはじめ、まとめてくれる方、ありがとう!
こーゆーのを(↓)整理して公開してくれる人がいるってのは、本当にありがたいことです。
これは、今年2018年から作品が自由に使えるようになった人をまとめたもの。
どういうことかっていうと、日本では、著作権法により、作者が死んで50年の間はその権利が保護され、50年経ったら著作権がなくなります。
具体的には、作者が亡くなって50年後に著作権が切れて初めて、誰でもその作者の作品を自由に使えるようになるというわけです、たとえば許可なくネット掲載OKといった具合に。
おまけにこのサイトでは、著作権が切れた、つまり自由に使用できる作品を公開するウェブサイト、青空文庫の、それぞれの作者の作品にとべるようにリンクもはってあり、便利!
これに限らず、ですが、始まったり終わったりしたものをまとめてあるのは、本当に助かるのです。
対価をもらって寄稿するとき、原稿を書くのは全体の5%ぐらいで、むしろ、こういうことや事実関係(とりわけ年号や固有名詞など)のチェックなどの方によっぽど労力を使うので(↓)、
あれどうだったっけ?これでいいんだっけ?と照合するために、こういうまとめがあるのはスムーズに進められて、ありがたいことこの上ないですねぇ。感謝!
箱根駅伝と高校サッカーと
お正月といってもね〜。
なんせ、20歳ぐらいまで、お重に入ったおせち料理とかきれいなお雑煮とか過去の遺物と信じて疑ってなかった私ですから(おせちもお雑煮も、全然好きじゃないし)、
日常プラスアルファぐらいのもんで、
日常との一番の大きな違いはテレビを観る、ぐらい、か
(自宅にはテレビをおいていないので)。
お正月はテレビは基本、地デジをつけっぱなし。
地上波って、本当に観ないなぁ、と実感。
観たのは東京箱根間往復大学駅伝競走(以下、箱根駅伝)と全国高校サッカー選手権大会(以下、高校サッカー)、ぐらい、か。
子どもの頃は箱根駅伝のよさって全然わからなかったし、今も駅伝とかマラソンとかまったく興味はないけれど、箱根駅伝はおもしろい、と思うようになりました。
限られた一定の期間でしか出場資格のない人たちが見せるひたむきさに心打たれる、のかもしれない。
っと、地上波で観たのってスポーツぐらい、か。
もうね、ほかの、騒がしくわざとらしい演出の番組は観ていてむなしく、どっと疲れる。
箱根駅伝にしろ高校サッカーにしろ、
若い子がただただ戦うスポーツで、脚本がなくって、もう、それがいいんだよねぇ、そのままを伝える、ってのが。
箱根駅伝にしろ高校サッカーにしろ、
実況も比較的(あくまで比較的で、もう少し抑えて欲しい)淡々としていて、騒々しくないのもいい(ときどき入るお涙頂戴ストーリーはカットして欲しい、両親がどうのとか、OBが登場したりとかは要らない。試合そのものだけでいい)。ぎゃあぎゃあ実況されるのは心底うんざり!
テレビに関しては門外漢でいち視聴者だけれど、こういう自分の姿勢を通じて、
出版にしろマスメディアに対して、ユーザーは相当冷めているよなぁ、と思うわけです。
じゃあ、どうするか。
いいことも悪いことも含めて、ありのままがそのままドラマってことでしょう。
それにしても、今どきの若者はすごいねぇ。
10代後半〜20代はじめの人たちがインタビューにしっかりと答えて。
この冷静さと言語化できる能力は、やっぱりすごいよ。
そこには、テレビだから新聞だから、って意識ももはやさらさらないんだろうし。
コミュニケーション能力の高さを改めて見せつけられた感じです。
大丈夫、もう少しだけ
私は低血圧で、気象病持ちで、湿度と気圧が体調を左右します。
といっても、寝込むことは稀で、一応日常生活に支障がなく(時間があればとにかく横になっていすのですが)。
倒れるまでにはいたらないのだけれど、立ちくらみも起こしやすい。
お風呂が苦手で、熱い湯はすぐ気持ち悪くなる。
これは一気に血流がよくなるのに、体がついていかないから。
アルコールでも同様のことが起こるんですよね〜。
横になる、というより、胎児やネコのように膝を抱えて丸くなって10分とか15分とかじっとしていると、体全体に血液がめぐって、回復するので、酔う、ってのとはまた違う、んだけれど。
なわけで、梅雨時期は起こりやすいのは明白なのでお酒は控えてます。
ただ、それ以外の気候もよく体調もいいときに、たま〜にそういうことが起こってしまい、困ったもんだ。
先日も外食先でそうなってしまい、たまたま仕切りのある小上がりの部屋だったので、しばらくうずくまっていました。
ご一緒した方々も、同じことが以前にあったので、「また起こっちゃったね〜。ゆっくりしてなさい」なもんで、そう反応されると気持ちがラク。
初めての方は、ぎょっとされるので。
体質、なんだろうし、アルコールはもともと量は飲まないのだけれど、だからといってお酒の場でノンアルコール、ってのは寂しかったりするんだけど。
ただ、時代はノンアルコール、ノンシュガー、ノングルテン、ノンデイリー、かもしれないんだよなぁ。
以前はデメリット、今はメリット
私が働き始めた頃、バイトを勘定すると大学生になったときだから、30年前。
当時は連絡手段は電話(しかも固定、ね)が圧倒的でした。
私の苗字“羽根(ハネ)”は一般的でないので、
名前を名乗るときに、「ハラさんですか?」「ハニさんですか?」などと必ず聞き返されて、それが面倒で面倒で。
今は、なるべく書面に残す意味もあり、メールとかの方が断然主流だし、電話にしてもスマホなので“初めまして”でない限り、いちいち名乗らなくてもお互いに誰からの電話かわかる(会社の固定電話からだったら別だけど)。
(あっ、“初めまして”もメールが断然いいなぁ。最初から企画内容や条件が記載してあると、とってもラク)
となると、状況も変わる。
以前は、電話口で自分の名前をリピートすることが目立って多く、それが鬱陶しかったのが、
今は(それまですでにメールなどのやりとりがあっても)、初めて会ったときに「珍しい苗字ですね」と言われたり、数年ぶりに取材などをお願いするときなどに「あ〜、以前もいらしゃいましたね! ユニークなお名前だから覚えています」をきっかけに話が弾んだり、とメリットが断然多い。
それと、アルファベットにしても4文字なので外国人も(視覚で)覚えやすいみたい(長いのは大変みたい。。。)
ただ、読む、となると、英語圏だと“へインさ〜ん”って呼ばれること多いし、フランス語だとeにアクサンつけとかないとな、ってことはあるけど、ね。