書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

誰かに背中を押されなくっても

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2月、バレンタイン月に入り、チョコレート会社のゴディバが“義理チョコをやめよう”と銘打った広告を日本経済新聞に出しました(↓)。

www.buzzfeed.com

これに対して、賛成、反対、いろんな声が大きく上がりましたが(ここまで反響があると、ゴディバとしては大成功でしょう)、
私が“あ〜ぁ”と思ったのは、

誰か、その誰かとは今回のような大手企業だったり有名人だったり、要は世間で認識されている人が言って初めて、「そうよ!そうよ!」といきり立つ風潮。

 

これって。。。

 

本来自分ですればいい判断や、思っているんだったら自分で言えばいい意見を、誰かの言葉を借りることで初めて自分の思いを表現できる、ってなんなんだろう?

土井善晴さんの一汁一菜でいい(一汁三菜はなくてもいい)、もそうだし、

ヨーロッパ経由の家事を合理的に、もそう。

特に後者は日本人はやると、ケチケチ、とか、ずぼら、とかネガティブ(?)な言葉が掲げられるのに、

ヨーロッパ経由になると、合理的、効率的、となって、さすがフランス、さすがドイツ、さすが北欧、みたいになるのは苦笑せざるを得ない。

 

 

誰かエラい人が言っているから、欧米ではこうだから、だったら自分もやっていいんだ〜、って安心感、ってなんだかなぁ。

確かに、日本の同調圧力は首を傾げるところが多いけれど、それを黙って受け入れているってことが自分自身でそういう状況を作っているんじゃないのかなぁ。

それを外圧があって初めて解放される、ってことは、誰かが「それでいいんだよ」って背中を押してくれないと、不安で仕方がないってことよねぇ。

 

 

バレンタインに義理チョコあげるもあげないも、食事をばっちり作るも外食するも、自分で心地いいやり方を選択すればそれでいいんじゃないのかなぁ。

昔、バブルの頃までかなぁ、ポパイとかホットドッグプレスとかで女の子とのデートマニュアルみたいなのがあったけれど、それの形が変わった、だけのような気がします。

 

結局、何らかのお手本が欲しい、他者視点のこれでいいんだ、って確信が欲しいんだろうけど、そんなの自分とは価値観や考え方の違う誰かのいち意見ややり方であって、同意見を求めなくても、そしてそれらの意見を真剣に受け止めなくっても従わなくっても、自分でこれが快適ならそれでいいじゃん、って思うのは私だけでしょうか?