お手々つないでみんな仲よく、は国際交流じゃない
なにかにつけてやたらとこんな冠がつけられてません?
国際交流
きいていて、ずっと居心地の悪さを感じていて、何でだろう?と思っていました。
それは私の見解を異なるってことでした。
今、日本で声高に、いかにも善行のように言われている国際交流って、
小学校の道徳の時間とかに出てきたような
「みんな仲よくしましょう」
の号令の、その延長上にあり、基盤となる意識や構造は一緒なんですよね。
そこにあるのは、
“人はみな同じ、わかりあえる”
って前提。
これ、むしろ、まったく逆なんじゃないの?
“人はそれぞれ違う、基本的にわかりあえない”
って私は捉えています。
国が違えば、それの差は余計に大きく、カルチャー・ギャップとか、日本の常識は世界の非常識(その逆もあり)などと呼ばれることが発生するのはそのためですよね。
コミュニケーションというのは、
同じこと/違いを認識し、違うことについては見過ごすか、話し合って妥協点を見出すか、こっちを主張するか、
を常に行うってことなんじゃないかなぁ。
「あなたと私は違う、でも同じこともある、知り合ったことで理解できることが増えた(ときに逆もあるけれど)、でもまだまだ見解の違いが大きいことはたくさんある」
ってもんじゃないですかね?
今、言われている国際交流って、いろいろお膳立て(おもてなし、とも、おせっかい、ともいう)して、いいですね!を強要して、な気がする。
自分を見て見て!いいでしょいいでしょ!をてんこ盛りにしておいて、
相手が難色を示したら、せっかくやってやったのに(頼んでもないにも関わらず)!って急に怒り出す、だから外国人は、って言い出すんだよなぁ。
まずは、相手の意向を確かめる、ってことが大事じゃないの?
そのために、単にへらへらして頷くばかりでも、相手の意思を確認しないまま勝手な思い込みでおもてなしという名のおせっかいをするのでも、言うことなすこと拒否するのでなく、
同じこと、違うことを認識し、違うことについてはどうするか、話し合い(ときに交渉)をして解決点を見つけ出し、お互いに納得する、ってことじゃないのかなぁ。
これ、国際交流に限らず、コミュニケーションの基本だと思うのだけれど、な〜んか、基盤であるこの部分が、そもそも違うような気がして、仕方ないんですけど。
おっさんファーストの国、日本
先日、国内線を利用したとき。
往復とも、私と同じ列の通路側に座っていたのは40代とおぼしき男性の方(私は窓側)。
座席上の収納棚に荷物を入れていました。
すると、降りる時に、通路側の男性の方が私の分もとってくださったのです。
うれしいなぁ。ありがとうございます!
先日、国際線を利用したとき。
私の隣りは10代後半と思われるアジア人男性のふたり連れ(私は窓側)。
座席上の収納棚の荷物もですが、
機内食がきたとき、食事がおわったときなど、気遣ってくれたのです。
うれしいなぁ。ありがとうございます!
こーゆーの(やってもらう、というのではなく、お互いに気を配る)、もはや当たり前と思いきや、そうでない人たちがいるんだなっ!
先日、ビルに入ろうとしたとき。
大きなスーツケースを抱えた2人組が後ろにいたので、ドアを押さえて開けた状態で待っていたら、
彼らより先に何食わぬ顔で通り過ぎた人がいました。
先日、デパートのエレベーターを出るとき。
ベビーカーをおした方が扉の前にいたのに、
我先に出て行った人がいました。
先日、セルフ式のキャンティーン的な飲食スポットにいたとき。
並んでいる列にやや大きくできたすき間に割り込んできた人がいました。
その人たちはいずれも、おっさんです。
中年というよりももう少し上。50代以降のおっさん。
個人差があるのを承知でいうと、
40代後半の私と同世代より若い男性たちは(若い方がその率は高い気がしますが)、たいがい周囲に配慮する。
でも、50代以降のおっさんは絶望的。
悪気はないと思うんですよ、単に周囲に配慮できないだけで。
でも、だからこそ質が悪い。
・新幹線のリクライニングシートを突然全開で倒す
・飛行機や新幹線に座席間の肘掛けを我がものとしてデンと使う
・電車のなかで雑誌や新聞のエロページを正々堂々と広げる
こういうことをするのもこんなおっさん。
前言撤回。
周囲に配慮できないわけじゃなかったわ。
その対象が自分より上と思える人だと、そんなことはしない。
急におとなしくなって、へーこらする。
おっさんは自分が中心に世界が回ると思っているし、
実際、日本社会の仕組みもそうなっている。
自分より強いと思うものにはへらへら媚を売り、弱いと判断したら見下す。
ほんと、日本っておっさんファーストの国だわ。
よく槍玉にあげられる外国人観光客のマナーよりも(知らないことからきていることが大半だろうし、そんなに悪いとは私には思えない)
日本のおっさんたちのふるまいの方がよっぽど不愉快だわ。
お帰り、MERY!
昨年2016年終盤、DeNAが運営するまとめサイトが正確性を欠いていたり、著作権無視だったりの記事を掲載していたことが発覚、休止となり、それはその代表だったWELQだけでなく、女の子向けサイトMERYも同様。12月7日から非公開とされました。
やむなし、確かにやむなし。
例えばダイエット情報など健康に関するものもあったわけで。
でもね、このMERY、ほんと、かわいくってね。
普段、ふんわりピンク色のガーリーなものって好みじゃないんだけれど(むしろ、原色をヴィヴィッドに使うキッチュなものが断然好きだから)、女の子だから男の子だからって区別も要らない、と思っているんだけれど、
MERYはよかった!
というのもね、世界観が統一されていて、観ているだけで夢の世界。
でもって、内容は、近所の女子大生が今ってこうなんだ〜、って教えてくれてる感じ。
ドリーミーな見かけとは裏腹にリアルな声ってのも、いいな〜、って思った。
とにかく、素直にかわいい、素直に楽しい、が満載だったわけです。
何かを探して真剣に読む、というより、ちょっとした空き時間に眺めていて、やさしい気持ちになる、って感じかな。
このあたり、こちらを参考に(↓)。
そのMERYが復活! パチパチパチ!
で、なぜMERYがすごかったのか。
一般ユーザーとしては上記のとおりなんだけど、メディアに関わっている者として脅威に映ったのも事実で、
大筋は私と同意見なこちらを(↓)。
www.huffingtonpost.jp(両者とも言っていることの本質は一緒で、一般ユーザー、メディアの視点で言葉を選んでいる、という違いといえばそれまでだけど)
メディアの方の意見を眺めていて、私と違うな、と思うのは、ちょっと既存メディアに肩入れし過ぎかな、ってとこ。
どんなに上質で正確なものをつくっても読者/ユーザーに響かないと意味はないし、
そしてそれを選ぶのは読者/ユーザーなので、
いくらこっちがプロとしていいもの作ってます!って叫んだところで、
選ばれないと意味はない。
そのためには読者を選ぶってことも大事なわけで、
だとしたら同じファッションを扱うにしても、
MERYの読者は来なくていいよ、ぐらいのものをつくればいい。
また、いくら昔は雑誌で知を学んだといっても
読者がいる、売れる、もしくは売れなくてもそこにちゃんと価値を見出してくれるスポンサーがいないと商業出版である以上成立しないわけで、
そういう努力をしなかったから休刊という名の廃刊になったんじゃないの?
そもそもいまだに紙 対 ネット ってのもアホらしい話で、
敵対関係ではなく、それぞれに適したユーザーを獲得して共存していけばいい。
それにしても紙の人って、(ネットよりも)紙こそエライっていまだに信じていて、その視点をベースとしていて、
そしてそれが自らを滅ぼしているのに気づかないんだろーか?
確かに世に出す前に、記事に正確性を期すため、徹底的に調査、取材、校正、校閲をするのは事実で、
でもそれは読者/ユーザーにとっては関係ない、せいぜい二次情報でしかないことで、
ネットだって同じことをやっているところはあるし(誰でも参加できる世界ゆえ、その率は低いけれど)、紙だからってすべてのところできっちりやっているわけではない。
それを声高々に言う必要はまったくない。
ちゃんとやっていることをちゃんと汲み取ってもらえる、信頼してもらえるメディアをつくり、結果、読者/ユーザーを獲得する形で示せばいいだけで。
プロが入ればよかった、と発言されているけれど、プロがいなかったからあそこまでできたんでしょ。
プロが入ると得てしてみんなにいい顔をすべく、途端に小さくそつなくまとまっちゃうから。
新生MERYは小学館と組むようですが、変に締め付けたりせず、のびのびとやって欲しいな。
Airbnbってやっぱりシェアリングなんだよね〜
国内外問わず、宿泊を伴う移動のある生活を送っています。
ここ数年、1人移動の際はAirbnbの利用が増えました。
Airbnbは日常の延線上で過ごせるのがありがたい。
極端なこというと、寝るだけだし、無線LANとかでネットがつながればいいし、長めの滞在であれば台所や洗濯機が使えるのもありがたい。
もちろん、ラグジュアリーなホテルや機能性のすぐれた宿泊施設に泊まる楽しみもあります。
それって、私にとってはもはや、エンターテイメントと化したかもしれない。
洗練された空間でホスピタリティーや飲食を楽しんだり、
日常を遮断してくつろいだり、
ってときは既存の宿泊施設がいいわけで。
これまで昔ながらのB&B(プチホテル、というよりも部屋が空いているから貸すといったところ)も随分泊まったけれど、
B&Bは宿泊施設の側面が強いのに対し、
Airbnbは普段の生活のなかで空間をシェアしている感覚。
ハウス/フラットシェアの短期版って感じ。
よくAirbnbなど民泊は国際交流だって言われるけど、
それは決して決して第一義じゃない。
そもそも国際交流どころか交流するためのものじゃないし。
部屋があいているからどーぞ、ぐらいなもんで。
Airbnb利用してる、っていうと、「人の家泊まるの怖くない?」って訊かれることもあります。
(こういうのって生理的なものなので、こういう人は民泊を利用しない方がいい。)
これって、そもそも家をオープンにする、ってことの感覚が違うからなんだろーなーと思います。
家をオープンにしていても、一緒にリビングルームとか同じ空間にいてもプライヴァシーは存在するってことが前提にあるし。
「人の家泊まるの怖くない?」って発言をする人は人を招く時は、いわゆるおほほほ〜なおもてなしをしないといけないと信じている人。
家のきれいに片付けて、普段はしまいこんでいる上等のティーポットでお茶を淹れるというね
(日本のおもてなしってこれだよね)。
でも、Airbnbとかって普段のまんま。使った人がちゃんと片付けようね、ってなもんだし。マグでお茶のむし。
なので、やたら国際交流を掲げているけれど、
何よりシェアリングってことを理解していないとオーナーになるのは厳しいと思う。
それと、理解できるのは、貸す側の、家に常に人がいる方がいい、っていう感覚。
私自身、ハウス/フラットシッター(留守だったりの家のお守り、単にそこで過ごすだけだけど)をやったりお願いしたりしたことがあるからわかるのは、
その家に人がいない、不在がちってのは防犯上よろしくない。
空き巣の恰好のターゲットになるってわけです。
いるだけでいい、それがハウス/フラットシッターの役割。
既存の宿泊施設や民泊周辺の住民が眉をひそめるのは理解できるとして、
ぼんやりと民泊NG、怖い、ってのは、それぞれのプライヴァシーを大事にしつつシェアするってことを経験したことがない、イメージできないからだと思うのです。
うれしいことは連続する(その逆もあるけどね)
2001年より成り行きからフリーランサーを続行中な私。
フリーランサーに一番大事な要素は、楽観的であること(次いで健康であること)、な気がますます強まっています。
100%確実な安心なんてないわけで、不安な要素を探し始めたらキリがない。
自分で頑張ってなんとかできることはそうすればいいけれど、
そうでないものは考えても仕方がない。
でも、考えてしまう、という心情はわかる。さすがに時間のムダ、とは言い切れない。なぁ。
なので、考えない度合いが少ない、ってことがフリーランサーに必要な資質かもなぁ
もともとそういう資質だったか、フリーランサーになってそうなったのか、
かく言う私も楽観的だと思います。
で、10月末から11月半ばまでイギリスに行っていたのですが、
行く前に企画がひとつ決定し、
現地に到着したら、もうひとつ別の企画も通った、という連絡が入っていました。
やった! ほらね、私、ついてる!
って思っちゃうんだなぁ。
でもって、うれしいことやいいことってぐるぐる連鎖するんですよね〜(な気がする)。
でも、逆もある。
そんなときは、波があるからこんなこともある、やることやってればそのうち上向きになるでしょう、
大体、自分ではダメだなぁと思っていても周りから見れば大したことない(そもそも気にかけるほどのことじゃない)ってこと多いし、と捉え、
落ち込んでいる自分ごとありのまま受け入れ、
必要以上に沈まないようにしています。
あ〜、でも、これ資質もだけれど、訓練でできるようになったかもしれないなぁ。
食べきれなかった料理を持ち帰る
日本だとね〜、断られること少なくないんですよね〜。
飲食店で食べ残した料理の持ち帰り。
特に生もの、刺身とかを扱っているところであれば気持ちはわかる
(でも、持ち帰るのは焼いたり揚げたり、火を通したものだけどね)。
クレイマーも少なからず存在するだろうし、
でも持ち帰ったあとはその本人の責任、にもかかわらず、
「あなたの責任でしょ」といえないつらさ(言っていいと思うけど)。
であれば、最初から持ち帰らせない方が得策、ってわけ、か?
先日ロンドンでスマートカジュアルな店にランチ入店したとき、
朝食(しかもたっぷり!)と間隔がそんなにあいていなくって、思ったより食べられず、
最初3コース(前菜、メイン、デザート)でオーダーしたのを
2コース(前菜、メイン)に変更してもらい、
メインの野菜の重ね焼きは半分持ち帰りにしました。
さすがにファインダイニングでは食事を摂ると同時に一種アートを楽しむようなところもあり、
そういうところでは作品に手を加えない方がいいかな、と思い遠慮するのですが
(そもそも完食することが多いので残すことって滅多にないのだけれど)、
スマートカジュアル以下では、そのときの状況と料理によっては持ち帰りをお願いします。
ちなみに、英語圏で持ち帰りのこと、日本で言われているようにドギーバッグって表現するのかなあ?
私は聞いたことない。
シンプルに、「食べきれないので、持ち帰りたいのですが」と切り出すし、周りの人もそうしているような気がします。
容器があればそれに入れてくれるし、
なければ「容器(container)がなくって、(アルミ)フォイルに包む形でもいいですか?」みたいにきいてくれるし。
こんなときはチップを多めに、サーヴィス料があらかじめ入っているときは、チップを残して店を出ます。
そんなわけで、ロンドンで持ち帰りをお願いしながら、
もったいない、もったいない、
食品ロスをなくそう、と言う割に、
食べ残しを持ち帰る行動を日本でほとんどみないってどういうことなんだろう、とふと思ってしまいました。
精神性の問題?
随分前に南野陽子さん(なんで私は彼女の発言をこんな覚えてるんだろう?(笑))が、
飲食店で食べ切れなかった料理の持ち帰りをお願いしたら、
同席していた、当時おつきあいをしていた方に
「みみっちい」だったか「貧乏臭い」だったか、そんなことを言われたらしく、
芸能人でしかもトップアイドルにまでのぼりつめた人なのに、
生活感覚がしっかりしてるな、と私が感心したのとまったく違う見方をするんだなぁ、と思ったのですが、
もしかして、この意見が多数派なのかなぁ。
だから、食べ残しを持ち帰る行動を日本でほとんどみないのかなぁ。
だとしたら、いくら口先できれいごとを言っていても、
フードバンクも定着しないよね、なんてことも感じてしまったのです。
老人を必要以上に老人扱いしなくていいんじゃない
今のお年を召した方、60代なんて全然若いし、
70代だって現役バリバリ、80代だって元気はつらつな人が、多いことよ!
もちろん加齢による衰えは否めないだろうから、個人差が大きいけれど、
それでも、全然若い(体力もある!)人が多いよねぇ。
そういう方たちが何かを成し遂げたり、実行したりを報道するのに、
まず老人というフィルターを通すのって、なんだかなぁ。
単に、こういうことをされました、でいいのに。
そして、彼らに呼びかけるときに“おじいちゃん” “おばあちゃん”っていうのもねぇ。
○○さん、って呼べばいいのに。
何かを伝えるときに、年齢とか性とか人種とかでまず分類分けして、
そこから眺めるのって、本質からかけ離れるし、
だいたい本人に失礼じゃないか、って気がするんだけどなぁ。