書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

いつもどこか離れて眺めている感覚なのです

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あらかじめ言っておくと、ディスるわけじゃないんです、本当に。

ただ、こういう感覚の人間もいる、ってことで。

 

ジョン・レノンの歌に「Watching The Wheels」ってのがありまして(↓)。

www.youtube.com

 

この歌の本筋は違うところにあるのだけれど、

 

I'm just sitting here watching the wheels go round and round.

I really love to watch them roll.

No longer riding on the merry-go-round.

 

って歌詞が、「わかるなぁ〜」なのです。

訳としては、

 

「ここに座って、ただただ車輪が回っているのを眺めているんだよ。

こうしているのが好きなんだ。

メリーゴーランドに乗るのには興味はないよ」

 

といったところでしょうか。

 

 

新型コロナウイルスを受けて、

ソーシャルメディアでStay at homeをうたったり、なじみのお店でテイクアウェイしたものをアップしたり、

そういうのは正しい態度、なんだろうし、別に異論はないのだけれど、

自分もやっていても、知らしめる、ってことが私にはできないんだよなぁ〜。

今回に限らず、こういう状況時は、いつも、いつも。

 

なんというか、当事者意識に欠けている、というか。

いや、それは違うな、当事者意識は私なりにあるのだけれど、

「正しいことをする」でつながることに違和感がある、というか。

 

“みんなで頑張ろう!”

“一丸となって乗り切ろう!”

“負けないぞ! 闘おう!”

でなんとなく団結する空気に、どうにも居心地の悪さを感じてしまう。

 

私は私でできることをやって、もしかしたらそれが世の中に役に立つことがあって、結果として世間との接点になればそれはそれでいいのだけれど。

 

そもそも、新型コロナウイルスにおいては、闘ったり頑張ったりしても仕方ないでしょ。
いかにうまくつきあっていくか、なんじゃないかな、って思っているフシもあるし。

刻一刻と変わる状況に対応しながら、目の前のできることを淡々として、混乱の時が過ぎるのを待つ、ってのが私の理解と態度なんだけどなぁ。

 

 

団体行動が苦手で、この感覚はいつも輪からはみ出してしまうことに起因するのかもしれない。

 

 

幼稚園も年長とかになると、ヒエラルキーみたいなものができて、そういうのとは無縁だったな。

みんなで遊ぶってことはなくって、ひとり、もしくは誰か1人と遊んでいて、

ありがたかったのは、親も先生も、

「この子はひとりでも寂しそうじゃない。それはそれで楽しそうだから放っておきましょう」という態度だったこと。

 

幼稚園で誰かと遊ぶときは、そのときのタイミングや気が合えば、あるときはヒエラルキーのトップにいるボス的な子と、あるときは底辺にいる子と遊んで、だった。

ヒエラルキーのトップにいる子も私には命令しなかったんだよな〜。ごく対等。

 

小学校に上がって以降は、学年が違う人と遊ぶことも多かったな〜。

その時も主従関係はなかったな。

 

 

で、大勢がワイワイしていて、自分がひとりのときは、

みんなで遊んでるな〜、って眺めているだけ。

輪に入りたいとも入りたくないとも思わなくって、ただ目の前で繰り広げられていることを見ている、って感覚。

 

この感覚が、冒頭で書いた「Watching The Wheels」の歌詞の一部分に、「わかるなぁ〜」なのです。

 

 

今、ソーシャルメディアなどを眺めている私は、まさにこの感覚に包まれています。

 

「今だからこそ正しいことをしましょう!」 「私はしてるよ!」

はいいんだけれど、「私は私でできることをやるから、これみよがしなアピールは要らないよ、ほっといてくれないかな」って思うってのもあるのかな。

いや、違うな、正しいことゆえ、無言にさせられちゃう、寄り集まった集団の圧のある感じが苦手なのかもしれない。

 

 

同時に、悪意のない正しさは怖いな〜とも、どこかで思うのです。

 

正しいことばかりで生きているわけじゃないんだ〜、私。

雑念だらけで、自分本位で、いつも結局、好き勝手やってるんだ〜。

でもって、どんなに気をつけていても。自分の言動は、もっと言うと存在しているだけで誰かを傷つける可能性はあるわけだし、ね。