生かされている、のだとすれば
言葉にすると重くなりそうなんだけれど、これは、ぼんやりと思っていること。
新型コロナウイルス関連で、死んだ人のニュースを聞くと、気持ちがはたと立ち止まってしまう。
ほかの災害時でもそうなんだけどね。
代われるものなら代わりたい。
あっ、自殺願望じゃないです。
10ン年前に数日間で急激に体調が悪くなり、ついには死の直前まで行って、そのときに思ったのは、
「このまま死ぬんだなぁ、でもこのまま死ぬんだったらいいなぁ、大したことはしなかったけれど、好きなことをやってきたから、まあ、いいか」。
(全然苦しくなくって、視界がほんの少しぼんやりと白みがかってきて、意識ははっきりしているけれど、少しずつどこかに引っ張られているような感じ)
諦め、じゃないんだよね。受け入れ、といった方が近い。
人間ってあっけないことであっけなく死ぬんだなぁ。
結局、一命を取り留めたんだけれど、その日、もう一度呼んだ救急車がきてくれなかったら、もうダメなんだな、というのは自分でもわかっていた。
一度病院を追い返されているわけで、拒否されたらそれまで。
他に訴える手段を思いつくほど頭は働かないし、そもそも体力はないから、そのまま死を迎えて、でもそれが寿命だった、ってことか〜(恨みはない)、
あ〜、事故物件になるな、大家さん、ごめん!とは思ったんですよね。
お花畑を見た、とか、強烈な光を体験した、とか、ではないけれど、
それで死生観とか何かが変わったとは言いがたい。
でもね、死の淵から戻ってきて以降、「生かされているんだなぁ」とぼんやりと感じているんですよねぇ。
だからといって何をしているわけでもないんだけれど。
そのせいなのか、命に優劣はないのかもしれないけれど、特に災害時の若者や著名人などの死は心が異常に痛む。
代われるものなら代わりたい。
だって、こちらは一度なくしかけた命だし、
大したことはしていないし、
家族や会社を作ってないから密度の濃い人間関係はないし、
そもそも内向型だから友達も少ない(いない?)。
いなくなったとて、そもそもいたことを認識されているかどーかも怪しい。
なので、(私じゃなくって)必要をされている人を生かしてあげてよ、って思っちゃう。
死にかけた経験から、死ぬこと自体は怖くない
(だからといって自主的に死のうとは思わないけど)。
「生かされている」としたらなぜなんだろう。
いつもに増して、気がつけばプカプカと脳の海に浮かんできて、ぼんやりと考えています。