書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

“ぼっち”とか、“ひとりでも”とか、大きなお世話だ!

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クリスマスまで1カ月を切りました。

この時期によく見られるのが、どう過ごすか、って話題。

 

私は、いつもと変わらない日常を淡々を過ごし、人生の大半で、特に親元を離れてからはほとんどの年でそうなのですが(パートナーの有無に関わらず)、

すると、かわいそう、と思われることが少なくないんですね。

憐れむ気持ちで「だったら、うちにいらっしゃい」と招待され、ごちそうにありつける!と出かけたこともあるのですが、

困るのは、“ひとりでかわいそうな私”という自虐キャラを演じないと納得してもらえないことです。むぅ。

 

もちろん、招いてくれる側はまったくの好意で(クリスマスにひとりなんてかわいそう!)、

だからこそタチが悪いとも言えるのだけれど、

こちらとしては、ぼっちも、ひとりで平気といった強がりではなく、

無頓着というか、あ〜、クリスマスね〜、ぐらいの感覚なので、

憐れみの視線を向けられると、なんだかなぁ、という気分に陥ってしまいます。

 

誕生日も同じ、私の場合。

特に何をするわけでもされるわけでもなく、いつもと同じ。ただ淡々といつもの1日として過ぎていく。

 

 

ひとり暮らしで死んでしまったときに、孤独死という言葉が使われることに代表されるように、

ひとりでいる状態を孤独、って表現するのは違うんじゃないかなぁ。

 

ひとりよりも、ふたりでいるときや大勢に囲まれているときに感じる寂しさの方がずっと孤独なんじゃないの。

 

ひとりでいる、ってのはただの見た目であって、心の状態とは違うんだよね。

ひとりでも心豊かな状態っていくらでもあると思うんだけど。。。

 

 

まあ、私の場合は、完全に内向型なので、物理的にひとりの状態がラクってのはあるけれど、

そういう人、決して少なくない、と思う。

 

“ぼっち”とか“ひとりでも”とか、そういうひとりは孤独、ひとりは寂しい、というモノサシが前提って、単身世帯の割合が多い今、もうやめた方がいいんじゃない。