書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

今のままだと今のまんまだから

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すっかり“おかたし”記録と化しているこのブログですが、

なるほど、そうなんだなぁ〜、に出くわすことがあります。

 

私の仕事は書籍や雑誌の企画のダイレクションを含んでいます。

こういうのどうかな、あれっておもしろそう、なんてスイッチを入れると、

街やネットを歩いていると、関連した情報が入ってきます。

 

これ、引きが強い、ということではなく、そういう意識だから、そういう事柄に気づく、と理解しています。

目の前を流れる情報はたくさんあるけれど、意識して初めてキャッチできる、という。

 

 

で、今、おかたしを粛々と進めていると、びっくりするようなものがときどき目の前に現れます。

 

なぜ、ここまで放っておいたのか、は今年の年初に向き合って明確になり、

部屋の乱れは気の迷い。部屋はそれを映す鏡なんだ、とつくづく。

 

おかたしって自分と対峙する時間なんですよね。

そんな中でポンと現れ、飛び込んでくる言葉やモノのなかには、

今の状況にピッタリなものがあって、そういうことなんだな、と納得しながら進めています。

 

最近出てきたのは

「人は神を見い出したいと求めているのに、

神は騒音や落ち着きのないところには見い出せない。」

という言葉。

(これが書かれた紙、どこでもらったんだろう?)

 

まさにそう!

このケオスを、自分の力で片づけてない限りは次のステージには上がれない、ということを、ここのところ、ひしひしと感じていて、それを言葉にして突きつけられた感じ。

 

神様はいるかもしれないし、いないかもしれない。

でも、いると思った方が幸せに時間が過ごせる気がする。

 

おかたしに着手したときは、どこからどう手をつければいいのか、こんなことで本当に片づくのか、と叫びたくなるような気分にもなったけれど、どうすればいいのか、随分見えてきました。

これは大きな収穫。

 

もうひとふんばり、ふたふんばり。

おかたしを終わらせて、部屋も自分もすっきりしないと、次のステージには上がれないのだから。それは明確なんだから。