書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

私が目の当たりにした献本の行方

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社員ではなく、フリーランス編集者の立場の私。

 

今では大抵打ち合わせ室に通されるし、また顔を出すことも以前ほどはなくなったのだけれど、

出版社の編集部を訪ねたときに、ショッキングだった光景として、

献本された本が、机に無造作に積まれていて(読んでいないだろうなぁ)、

またリサイクルボックス(もちろん資料として不要になったものもあるけれど)の中に献本とおぼしきピカピカの本がたくさん入っていた、ってのがあります。

 

そうだよなぁ、編集部の人は忙しいし、献本されたすべての本にいちいち目を通さないよなぁ。

しかも興味がない事柄だったら尚更だろうなぁ。

 

 

それらの光景があまりにインパクトが強くって、「ゴミ扱いになるぐらいなら、献本しない」が私の頭に刻まれて、

私は自分が関わった本が出版されたときに、「新刊が出ました。ご高覧ください」ができなくなってしまいました。。。

 

もちろん、協力&お手伝いしてくださった方には渡すけれど。

手みやげとして、とりわけ自著は、名刺がわりに渡すことはあるけれど、

人を選ぶし、そこにあるのは、おいしそうだったから一緒に食べよう、とお菓子を持参する、というのと変わらないので、プレゼントの感覚。

 

新刊案内として、「あわよくばPRしてくれないかな(いいにしろ悪いにしろ、話題にのぼるだけでありがたい)」の献本はゴミのように扱われている光景を思い出すとできなくって、

お知らせとしてメールを入れるなどして、依頼があれば送る、というやり方をとっています。

 

「出版やめて、クッキーでも焼いてフリマで売ってろ。」のインパクトが強すぎて、論点がどっかにぶっ飛んでしまったけれど、私は、小林さんのいうことの方が理解できる。

だって商業出版だもん。作った以上は、1冊でも多く届けたい、インテリア小物としてでもいいから買って欲しい、と思うから

(どう使うかはその人の勝手だと私は思っているし、世に出たらひとり歩きをするわけだし)。

togetter.com

 

でも、献本を受け取ってのSNSなんかで見る投稿やコメントは、書きようによってはお友達ごっこ、内輪で馴れ合いに映ったりもするんだよなぁ。

こういう関係性が私が苦手なせいもあって、コネ云々とは思わないけれど、果たしてそれが効果的なのか、という疑問は残る。

 

magazine-k.jp

これも、ふんふんではあるけれど

1の“完全なる無視”は、目の当たりにすると、やっぱつらいよ。

完全にイコールではないけれど、私が目撃した献本の本たちが届いた先でゴミを化しているのがそれで、ショックを受けた身としては。

これは制作側の感覚だけれど、本って、単に情報としての文章や写真やデザインだけでなく、作り手の念がこもっていて、私はどうしてもそれを感じとってしまうからねぇ。

 

 

なので、私はいきなり献本ではなく、ワンクッションおいて(告知をして)リアクションがあったら、のやり方をとっている次第。

でも、それも適切なのか、改めて考えてしまいます。