書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

謝罪ではなく理由を求めているんだけどなぁ

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仕事をしていて、執筆であれば、請け負う仕事で、発注主の意向を汲むようにするし、

編集統括であれば、映画制作に例えると監督のようなものだから、

発注主はいるけれど、制作の場ではほとんど裁量を任さられていて、

“作る”場面では私が発注主という立場になります。

 

いろんなタイプがいて、細部まで自分の思い描いたように、って人もいるけれど、

私は、最初に意図と骨子をきっちり伝えて、それが理解してもらっていると思えば、後は自由にやってほしいタイプ。

こう来たか!っていう意外性もおもしろいしね。

 

軸がぶれていなければ、ある程度の振り幅があっていいし、

その振り幅がデザイナーさんだったりカメラマンさんだったりライターさんだったりの個性でもあるので、

それはそれで見せたいな、と考えています。

 

なので、私がお願いする案件は比較的自由度が高いかな〜、と思うのですが、

渡した素材を勝手に加工する、その人の既成概念で勝手に付け加える、ってことがあり、

それはそれで、理由があって、それが適していると判断すれば採用するのだけれど、

困るのは、報告されない、ってこと。

ひと言、「○○だから、こうしました」と添えてくれればいいのに

(もちろん、そういう人の方が断然多い。プロだからね)。

それなしで、こそっとされると、何これ?となるわけです(ときにそれは致命傷だったりする)。

 

気づいて、「どうしてこうしたんですか?」と聞くと、謝る。

 

いやいや、謝罪は求めていない(確かに報告なし、に対しては、あっ、すみません!だけれど)。

理由を知りたいのです。

その理由なしに対処のしようがないから。

その上で変えた状態でいいと判断すればそのまま進めるし、

それは意図がずれちゃうな、と思えば発注したものに戻してもらう。

 

私はなんでもなんでも言ったとおりにやってほしい、とは思っていない。

プロに発注しているわけだから意見があればフィードバックがあって然り。

勝手な変更を指摘すると、ただただ謝る、ってどういうことなのかな、と思うわけです。

そんな威嚇的に言っていないつもりだけどなぁ。

 

 

大企業や組織で不祥事が起こった際に、

ひたすら謝るでしょ、ただただ謝るでしょ、

それと同じ図式なのかなぁ、と思ってしまいます。

そこでは、これまでの経緯とかこれからの具体的な改善策とか提示されないもんね。

 

謝罪よりもなぜ?が解明されないと次へ進みようがないと、私は考えるんだけどなぁ。