書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

Lost in Translation

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ここのところ、素材収集および情報共有のために、

ニュースサイトなどの英語のオリジナル記事と、同じものの日本語翻訳版を読むことが多く、

なかなかむずかしいなぁ、ということを痛感してしまいました。

 

なにがむずかしいか、というと翻訳。

翻訳がヘタとかそういうことを言うつもりは毛頭なく、

オンラインでの発信なので即時性が求められているのは百も承知で、

これはこれでなかなかタフな仕事だなぁ、と思ってはいるのですが。

 

 

結局、国語力なんですよね。

翻訳する本人はオリジナル記事の意味するところは充分に承知しているのでしょうが、

それを日本語におきかえる作業のもどかしさがにじみ出てしまうのです。

これって、こういうことよね?とオリジナル記事を再度確認すると、やっぱりそうだったりして。

なんだかこなれない表現がまどろっこしい。

 

書籍などの翻訳であれば、じっくり、とまではいかないまでも、

ある程度の時間をかけて、前の文章に戻ったりすることも可能ですが、

ニュースだと、荒削りだろうが、速くアップデイトすることが第一義で、

それはよくわかる。

 

それでも、やっぱり翻訳する、っていうのは、

単に外国語能力があればいいってもんじゃなくって、むしろ母国語力が大事じゃないか、って思えるのです。

だって対象読者は母国語ユーザーなんだもの。

語彙、表現など国語力がないことには、伝わる文章にはできないですよね。

自分だけが理解できても、それが第三者に伝わる形で言語化できなければ意味がないわけで。

 

翻訳に限らず、通訳なんかもそうかもしれないけれど、

言葉を扱う、というのは、言語を超えた国語力、その基本は母国語力なのに、

そこの意識が欠落していることが多いんじゃないのかな。

つっかかる翻訳テキストを読んでいて、改めてそう思うのです。