書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

アクセントをからかうことの居心地の悪さ

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20年近く前、私がイギリスに住んでいて学校に通っていた頃の話。

 

クラスメイトに韓国出身の男性がいて、彼は母国語のアクセントが非常に強く、

でも誰しも多かれ少なかれ、母国語のアクセントはあって、

そもそもイギリス国内だって地方によって違うし、

強烈な人はこれが英語か?と思えるほどだし

(イギリスに住んでいるほかのエリアの人でさえ聞きとれない)。

BBCなどの放送局も、ニューズリーダー(ニュースキャスター)は別、かもしれないけれど、

現地からのレポーターやお天気情報を伝える人は、

母国語や出身地による軽いなまりがあったりします

(視聴者に親近感を抱かせるひとつの手法ではありますが)。

 

おもしろいもので同じなまりでも、(東)アジア圏同士ってわかりやすいし、

私だってもちろんなまっているし、

いつだったか(ノーベル文学賞受賞のとき、だったかなぁ)、大江健三郎の英語のスピーチなんかも相当だったし、

そんなもんだろう、ぐらいだったのですが、

あるとき、その韓国男性の話し方を、別がクラスメイトのからかって真似たんですね。

仲いい人だったし、「おい、何言ってんだよ〜」なんて返していたけれど、

顔はちょっと赤くなっていて、

こーゆーの、自分が彼の立場に立たされたら、と思うと、

悪気はなくても(悪気がなければいいってもんじゃないし)、いい気持ちはしないなぁ、と強く感じたのです。

 

 

私はテレビをおいてなくって、ラジオをきくこともあるのですが、

アナウンサーというかキャスターというかの立場の人が、

アメリカ人の喋る日本語やらを大袈裟に真似たり、フランス語のクセを必要以上に強調したり、中国語っぽくギャーギャーわめいたりするのを聞くと、

この人たちは自分のリスナーの中に、これらの国の出身者がいない、とでも思っているのかな? 彼らが聞いたらどんな気持ちがするか考えたことはあるのかな?と思いをめぐらすわけです。

 

国際化とかを必要以上にありがたり、当たり障りのない“推進します!”みたいな小学生の作文(いや、今どきの小学生の方がもっと現実的でマトモかと)みたいなことをさもエラソーに言うけれど、ごく身近なこういうことには鈍感。

言語のスキルはもちろん大事、でもそれにいちいちおおお〜って感嘆するのはどーか、って思うし、むしろこういう態度からなんじゃないのかなぁ。

 

小さなこと、だけれど、その小さなことに気づいて注意が払えるかどーか、の差のは大きいんだよね〜。