書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

それを感受性と呼ぶのかもしれない

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ぐんと若い頃、年齢を重ねるといろんなことに感動しなくなる、つまり感覚が鈍くなると思っていました。

もうすぐ50歳に手が届きそうになった今、実際のところ、それはまったく逆だなぁ、と強く感じています。

 

 

先日、20年近くぶりにロンドンのナショナル・ギャラリーを訪ねました。

その日の動線上にあり、あき時間があったので、美術館訪問というよりは、ここに入っているカフェでお茶しよう、と入ったのでした。

(私は、モダンアートが好きなので、19世紀ごろまでの、昔の教科書的なかしこまったものは、基本、ふ〜ん、なのです)

 

館内案内を見て、そういえばゴッホがあったんだったな、と、

その部屋に入った途端、目が釘付けになり、息が止まりそうになりました

ほかの画家の絵画もあるのですが、圧倒的に訴えてくる力が違う。

サイズ的には大きくないのですが、作品のひとつひとつが迫ってくるんですよ。

 

思わず、涙。

 

才能とか技術とかもあるんだろうけど、それを凌駕する画に向かう力がみなぎっていて、

描かずにはいられなかったんだろうなぁ、と思いを馳せる。

同時代の画家の作品も同じ部屋にあったのですが、

ゴッホだけが歴然と違う領域にいる。

(私はジミヘンに同じことを感じています。もうね、練習して追いつくとか、そういうことじゃない、圧倒的にレベルが違う!)

英語のgiftって贈り物もだけれど、天賦の才、って意味もあるでしょう。

神に選ばれる、ってこういうことなのかもなぁ。

 

 

以前訪れた20年近く前も鑑賞しているはず、なんですよ。

でも、ここまでの深い感動はなかった。

 

仕事を始めて、資料用の本とかは読むのだけれど、いわゆる小説の類ってほとんど読まなく(読めなく)なって、ここのところ久しぶりに読み直したら、昔は気づかなかったことがぐいぐい心の襞に入ってきて、やっぱり感動してしまう。

そして、一体私は昔は何を読んでいたのだろう、と思いさえする。

ricorice.hatenablog.com 

 

年齢を重ねる方が、感受性が豊かになっている気がします。

それは受け止める器ができた、ってことかもしれません。

じゃあ、若いときはどうだったか、というと、

今よりは感じる土壌が耕されていないから、

反射的にいちいち何だろうとひっかかり、それを好き/嫌いと区別して、

自分のストックにしていたんだろうなぁ、と今は感じるのです。

そのときはストックするばかりで、熟成はこれからだし、咀嚼するにいたっていない。

 

熟成、咀嚼するにはストックが必要で、ストックがないと眼前に何かがあっても素通りしちゃうわけで。

ナショナル・ギャラリーでゴッホの作品を眺めていたら、中学生ぐらいかな、学校の美術の授業の一環でしょう、20人ぐらいの学生を引き連れたツアーがやってきて、議論形式で20分ぐらいあーだこーだやっていて、これがとても参考になりまして。(よかったわ(笑))。

彼らにとっては味わうというよりは授業に過ぎないのかもしれないけれど、20年後30年後再訪問して、今の私のように深く感動するのであれば、きっかけを作ってストックを蓄えておく、ってのは意味のあることなだよなぁ。

 

この深い感動、感じる力のことを感受性を呼ぶのかもしれない。

だとしたら、年齢を重なれば重ねるほど、その力は大きくなっていっているんじゃないか、って思うのです。