書くこと、編むこと、伝えること

食のダイレクター、編集者、ライター、イギリスの食研究家“羽根則子”がお届けする仕事や日常のあれこれ

別に血がつながった親じゃなくてもいいじゃん

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8歳のとき、小学校3年の1学期の間、家族と離れ親戚の家で暮らしたことがあります。

その決断をくだしたのは私だったし

(それまでしばらく近所を転々としたり、ときどき祖母が来たりと

 落ち着かなかったので、居場所を確保したかった)、

何より大大大好きな曾祖母とずっと一緒にいられることがうれしかったし、

叔父や叔母もいとこもいつもどおりだったし、

新しい小学校にもすぐに慣れたし、

で、それはそれで幸せな時間でした。

 

転入したクラスには、私と同じように事情でその学期の間、親戚の家で過ごす子がいて、

クラスメイトも学校の先生もそれに対して別段どうってことなかったし。

そのとき、唯一私が気が進まなかったのは、家族に会うことだったな。

なんかね、もう私なしで世界が確立しているみたいに見えたんですよ。

そのとき暮らしていた親戚の家がすっかり、私にとっての家族になっていたってことですね。

 

なんで、そんなもん、そんなこともあるわいな、ぐらいに思っていたのですが、

ある程度大きくなって、ある芸能人の方が、小さい頃親戚の家で育った、ということに対して、

かわいそう、親は何やってんだ、みたいな憐れみの視線が送られていて非常にびっくりしました。

 

 

親と離れることは不幸ではない。

血縁関係があろうがなかろうが、ちゃんと面倒みてくれる人がいればそれでいい。

加えて、親子としての相性がよくないってこともあるわけで

(血がつながっているからこそ揉めることって多くない?)、

必ずしも血にこだわらなくてもいい、というのが私自身の経験から思っています。

 

でもね、

子供は親が育てるもの

にがんじがらめになっているような、時代が進んでいるのに、ますますそれに拍車がかかっている気がする。

だって昔は大きな商売をしている家やアッパーなところは、親が面倒みなくって(そんな時間はまったくない)、お手伝いさんとかがその役割を担っていて、そんなもんだって周囲も思っていたじゃない。

まあ、逆にそのやんごとなき方が自分の手で子育てを名言しちゃったから(もちろんそれはそれでひとつの考え方でありやり方ですよ)、日本ではそれこそモデルケースみたいになっちゃた感もありますが。

 

今の時代って、

こうあるべし!みたいなものと周囲がぎゃんぎゃん言うってがあまりにも先行しちゃっている気がするなぁ。

適性や相性、条件もあるから、人それぞれなのになぁ。

子供を育てるのも同じじゃない。

ちゃんと面倒見る人がいれば、親じゃなくてもいいし、方針がぶれなければ何人かで分担してもいいって思うよ。