噛み合わないことも、ありのままに開示するのがこれからのやり方
これ、良記事(↓)。
3つの点が優れているなぁ、と感じます。
- 企画全体に流れる予定調和を無視
テレビ番組にその傾向は顕著ですが、結論ありきで話が進められるんですよね〜。
(2年ぐらい前だったか、NHKの週末の朝の番組で“民泊”をテーマに議論(ってほどのものじゃないけど)交わされたとき、民泊=悪を前提に、それを着地点に話が進められ、呆れ返ってしまった)
もちろん、テレビ番組だけでなく、雑誌をはじめ既存のメディアは、その傾向にはあるんだけど(コメントを入れたりはできるんだけど、基本、一方通行だから)。
それをしないとまとまりがなくなるし、そもそも企画の時点で結果ありき、だから。
既存のメディアってそうなの、お決まりのパターン(新しい価値観を、ときに盛って提供することが使命だと思っている)をすご〜い!みたいな反応を期待して、どーだ!とみせる。
だから、そもそも、あらからじめ結果を見越して、番組や記事作りがされるからなぁ(もちろん、実際に取材をしてみて、違う!となって方向転換や軌道修正することはあるけど)。
なので、こういう噛み合ない、結論が出ない(ように思える)内容を掲載した編集者(ライターかな?)の勇気はエライ!し、これにGO!を出した編集長もエライ!
- 聞き手が露呈した、メディアに取り上げられるための戦略
個性、差別化をこれでもか!と出そうとする好例。
(私個人、消費者の立場としてはこういうの、すごおおく疲れる)
でも、こういうことを既存メディアはとびつくんだよ、 よ〜くわかる。
だって、メディアとしてはトピックにしやすいんだもん。
もちろんなかには、その後の新しい定番となるような大きなインパクトがあるものの場合もあるけどね。
気負いがなく、サービスも味も内装も、当たり前のことを当たり前にやっている、日常的に通いたいような、近所に欲しいような、当たり前が淘汰された“いい”店って、写真にしろ文章にしろ記事にしづらいんですよ。
とっかかりに欠ける、っていうのかな。
逆に言うと、これをきっちり(盛らずに)表現でき、そしてそれがちゃんと届けられるメディアや人は相当実力がある、ってことです。
- 藤原ヒロシの感覚&発言に賛同
こういうときって、えてして、取材する側が喜びそうな、寄り添うようなことを言いがちだけど、気を遣いながらも、自分の意見を言っているあたり、エライ!
ここで述べられている彼の感覚は、私のそれに非常に近い。
もうね、ポートランドはきき飽きたし、スモール・ポートランドの点在で、おされ合戦されても、はいはいわかりました!はいはい、おされですね〜!な気分になって、どっと疲れる
(模倣じゃなくって、突き抜けたユニークなことすればいいのに)。
食関連の編集やらライティングやらしていると、当然、店舗、料理やアイテム取材も多く(私の場合は、レストランの厨房に入り込んで技術的なことをきいたり、食文化や背景を調べたり、資料を紐解いたり、生産者や流通を訪ねたりすることが多いので、いわゆるグルメ取材はそんなにしていないんだけど)、うんざりする質問をされます。
「どの店がおいしいの?」
う〜ん、別においしいを基準に取材していないし(それは結果だし、今どきおいしくない店なんてないでしょう)、嗜好は個人的なものだしなぁ。
あるとき「よく利用するパン屋さんは?」と聞かれて、
○○○と○○○と答えて、よく知られるおなじみの店でがっかりされた、という。
もっと尖った店を言って欲しかったみたい。。。
どーだ!系の店は、1&2のメディアとしての視点からはおもしろいんだけど、ユーザーとして心落ち着くのは別のところだったりするんだよね〜。
おそらくユーザーの本音って、藤原ヒロシのこの発言に近いんじゃないか、って思う。
でも、“おしゃれ(ださいなぁ)”とか“最先端”とか“いけてる”の言葉で形容されたものにのることで、“こんなこと知ってんのよ” “こんな今どきのこと理解できる私ってどう? いけてるでしょ?”みたいな優越感に浸りたい気分が見え隠れする。
“これを否定すること = 自分はセンスない”ってことの表れだと思い込んで、恐れているんじゃないかなぁ
(別にセンスなくていいじゃない、何が悪い!って思うけど)。
う〜ん、やっぱりね、ハリボテで恰好よく見せる時代は終わったんじゃない。
最初におされ!ありきでなくって、突っ切ったり、振り切ったものこそが、清々しくって一本通っていて、本当に恰好いいんじゃないかな。
だからこそ、予定調和のセオリーを無視し、起こったことをそのまま(ってわけじゃないだろうけど)まとめたこの記事は、新しいし、こういうのがこれからの主流になるかもね。
非常に示唆に富んだ記事です。